2-4
静まり返った店内は少し寒いくらいだ。カウンター席で隣り合わせに澄子と酒を酌み交わしている。
「本っ当に感謝してます!」
「苦しゅうない、楽にせい」
十一時、ガラスのお猪口がぶつかり合う透き通った音が小さく響く。清掃も大方終わり、久々に心の余裕を感じる。
「ギャップを感じさせない配膳捌きだったな」
「何それ」
暫くさざ波の囁きだけが届く、心地よい静けさが続いた。
つまみに出した枝豆の莢を指先で弄びながら、澄子はふと思い出したように言う。
「私さ。仕事辞めようかなぁ、って」
驚いた。過去六年間、澄子は仕事と真剣に向き合ってきたのをよく知っている。
ちょっとのことで簡単に諦めるはずがない。俺はきちんと彼女に向き合い、表情を覗き込んで訊く。
「なんかあった?」
「んー。なんかさ。疲れちゃった」
弱音を吐く澄子をあまり見たことがない。
いつも明るくて負けず嫌いの彼女は、少しくらい背伸びをしてでも望むものを掴み取る強さを備えていた。
「どうしたんだ?」
「うん、まあ。なんか馬鹿らしくなるっていうか。私、何でこんなに嫌われるんだろう。みたいな? あは。なんか自分で言っててウザいわ」
何年か前もそうだった。
頑張って就職したヘアサロンで先輩との波長が合わなくて。嫌味を言われたり、嫌がらせみたいなことをされたり。
それでも店長は彼女を買っていて、その信頼のお陰で彼女は嫌がらせにも屈せず、暫くして状況は収まった。
「店長には相談したのか?」
「えー。相談しにくいっていうか。なんて言うか、ややこしいのがその人、店長の姪なのよねー」
「そっか」
こういうときに気の利いた言葉を選ぶのが俺はつくづく得意ではない。
嫌なら辞めちゃえば、とか。姪でもなんでもやってることが間違ってるんだから話すべきだ、とか。
でも澄子がそういう言葉を待っているのではないことくらいは分かる。適切な言葉を求めて脳内の引き出しを探していると、澄子の方が先に口を開く。
「もうさ。全部辞めてさ、こっち戻ってこようかな。何なら『うきぐも』手伝っちゃうし」
彼女らしからぬ言葉に目を見開く。
軽い冗談を言っているかのように弱い笑顔を作ってはいるが目が潤んでいる。必死に涙を堪えているのだ。
この光景を見たことがある。俺自身が演じたことがある。爺ちゃんに怒鳴られたときのこと。
俺は未熟で、どこか壊れていて。爺ちゃんと婆ちゃんの大切な店を逃げ道に使おうとした。当時そんな自覚はなかった。そんな無知で悩乱していた俺を誰よりも信じて、叱って、見送ってくれた。
今、澄子は同じように苦しさのあまり逃げ場を探っている。それを与えることはできる。だが、きっとそれは彼女が本当に望んでいるもの、本当に必要としていることではないのだろう。
「澄子。いつでも戻って来ていいぞ」
その言葉に澄子の肩が反応したのが分かった。そこに安堵が入り込んでしまう前に続ける。
「でもさ。お前、夢があるんだろ? 自分の店、構えたいんだろ?」
俺を見ずに目を伏せている。
楽になりたくて、逃げたくて、肯定してほしくて。
しかし『夢』という単語に力を抜きかけた肩は再び強張る。ちゃんとそれを確かめるまでは俺が言葉を発してはいけない気がする。
数呼吸分の寂然の後、微かに頷く。
「ならさ。今、逃げちゃ駄目なんじゃないか?」
残酷なことを言っているのも知ってる。ただ聞いてほしいだけなのかもしれない。ただ愚痴をこぼしたいだけ。
でも辛いからこそ、逃げ道があれば考えずに逃げてしまいそうになる。
自分で決めなくては、戦えない。
長い間を置いてもう一度より深く、飲み込むように頭を縦に振る。
そして、澄子だからこそ。どこまでも執念深く戦い抜く彼女だからこそ、職場の人間関係だけが問題ではないことが分かる。
「それでさ。本当は、何があった?」
その最後の言葉を聞いて澄子は驚いた表情で顔を向く。ほぼ同時に瞳からいよいよ大粒の涙が溢れた。
顔を手で覆い、声を出して泣く彼女の背中を擦る。
嗚咽が少し収まるとカウンター裏のティッシュケースを手探りで拾い寄せる。
「っ——う…うわきっ……されてた」
やっとの思いでそう言い放って再び声を上げて慟哭しながら肩を震わせる。その声には強い怒りが籠っていた。
二年前から付き合っている人のことだろう。確か読者モデルをしていた。
初めこそあまり乗り気でなかった澄子だが、相手の辛抱強さに折れて徐々に真剣に考えるようになった馴れ初めを覚えている。
彼女を傷付けてしまったという点では、他人事ではなくて。何と言葉を掛けようか躊躇う。
「……澄子」
「分かってるっ。あんなクズ。さっさと別れれば良かったっ‼ 私、ホント馬鹿っ」
心像の奥が疼く。澄子を傷付けられたこと。澄子を裏切ったこと。澄子にこんなことを言わせてること。全部混ざり合って黒くて泥ついた怒りが湧き上がる。
自分を宥めるかのように澄子を抱き寄せる。片手で頭を撫でる。
「馬鹿はあいつだろ。なに自分を責めてるんだよ。絶対折れるなよ。澄子。あんな奴のためにお前の何かを犠牲にすんのは、やっぱり間違ってる」
もらい泣きなのか俺自身、涙が押し寄せてくるのを感じる。
大事な人なんだ。爺ちゃんも婆ちゃんもいない今、俺にとって家族に最も近い人が澄子で。そんな人を傷付けられて平気でいられるわけがない。
同棲までしていたのだが、ある日、たまたま彼がスマホを忘れて出かけて行った。そのタイミングで着信に気付いた澄子が何となく画面を覗くと女性の名前だったと言う。
疑念を抱いた澄子は隙を見てスマホの中身を見た。SNSの履歴に、三人ほどの女性との決定的な会話や画像を見てしまったのだ。
彼と対峙した澄子はその詳細を突き付けたが、逆に開き直って図々しくも一番好きなのは澄子だから心配しないで、と発言した。
その日のうちに澄子は荷物を纏め、部屋を出ていったと言う。同僚の家に泊めてもらったものの、その噂が職場で広まってしまった。
元から彼女を快く思っていなかった例の店長の姪に傷を蒸し返され、日々嫌がらせを受ける事態になってしまった。
四股というとんでもない言葉に全身の皮膚がチクチクと疼くように感情が噴き出していた。
嗚咽交じりにひとしきり説明を終えた澄子はようやく息を整える。涙を拭いながら少し自虐的に笑う。
「あー、やば。何やってんのかな私」
「なぁ澄子。本当に戻って来ても大丈夫なんだからな」
「うん。本当。全部馬鹿みたい」
「……、」
「でも浩ちゃんの言う通りなんだ。馬鹿みたいな連中に私の何かを差し出すなんて。それが一番馬鹿だ」
落ち着きを取り戻した澄子は俺のよく知る、強く真っ直ぐな彼女だ。腹の底を燻る憤怒を収めるように少し笑って見せる。
「お前の店開いて、有名になってさ。全員見返しちまえ」
全部吐き出して少しだけ楽になったように、澄子は笑みを浮かべて頷く。
「浩ちゃん。あのさ。ありがとう」
その後も酒を呷りながら澄子の仕事や同僚の話を聞く。
何となく、大丈夫な気がする。俺が正しく向き合ったかは分からない。昔からそういうことはとても苦手だ。
ただ爺ちゃんが教えてくれた教訓みたいなものを頼りに、自分なりに受け止めたとは思う。
澄子は強い人だ。信念も自分というものもちゃんとある。どうしても駄目なときは浜音が彼女を待っている。
まだ少し腫れた目尻だけが、彼女の内に渦巻く蟠りを示しているが、普段の雰囲気に戻っている。
「私のことばっかりだね。ごめん。で、浩ちゃんはどうなの最近?」
「いや、別にいいけどな、それで。まあ、民宿の方は相変わらず閑古鳥は鳴きやまないけど、いつも通りだからな。もうすぐ冬だし」
「そっか。難しいね。やっぱり」
「そうだな。まあ、気乗りはしないけど。最悪、食堂一本に絞るのもありかなって。うまく立ち回れば少しくらい余裕ができて、なんか手立ても見つかるかもだし」
店を継ぐ時に澄子が提案したことだった。当時は即座に却下したが、いつまでも理想論だけで進み続けられるほど世の中が甘くないのも、いい加減分かってきた。
「民宿閉めるって。そんなに厳しいの」
「あ、いや、今すぐって話でもないけど」
「そりゃ盛大なため息もつくよね」
昼間のことを指しているのだろう。羞恥を蒸し返されるとは思わず、赤面するのが自分で分かる。
「うわ。言うなよ。てかそれは関係ないし」
「え、そうなの? じゃ何よ。柄にもなく思い詰めてさ」
話したい気持ちはある。
澄子には伝えるべきだと思うのがひとつ。そしてこの気持ちが実を結ぶことはないからこそ、俺の人生に翔一という人が存在したことを知っていて欲しいというのがもうひとつ。
けれど、澄子の話を聞いた後でその話をするのは気が引けた。
「浩ちゃん、私の話聞いてくれたんだから。私もちゃんと聞きたいよ?」
眉を顰める俺を説得するように澄子は言う。
「澄子。あのさ。今こういう話するのも違うんだけどさ。——」
「うん」
「俺、好きな人が出来た」
「え?」
澄子は一瞬耳を疑うような表情を浮かべた。妙な緊張感を覚える。澄子にこんなことを伝えるのは初めてだった。
なぜかずっと前からこの手の話を俺からすることを避けていた。本当に大切な人に出会ったときに。そのときには誰よりも最初に澄子に話そうと。そう決めていた。
とても長く感じる間が続く。やがて俺の言葉を吟味し終えたかのように、澄子は前のめりに立ち上がる。
「嘘、え、ホントに? え、何、どんな人? 浜音の人? 私知ってる?」
矢継ぎ早な質問に小刻みに手を動かして、まるで好奇心を持て余しているような勢いだ。
澄子の反応をどこか恐れていた俺はひとまず安堵するが、どうしても先ほどの話が気になってしまう。
「えと。半年前に民宿に来た客なんだけど。あ、名古屋から。てか、大丈夫? この話して」
耐えきれずに恐る恐る問う。
「え? 何で? 大丈夫に決まってるじゃん。そっか、名古屋かぁ、わりと近いね」
当たり前のように言う澄子。先ほどから落ち着かない心臓が鎮まった気がする。
「そっかあ。浩ちゃんに好きな人ができたかー」
遠くを見据えるように、感慨深そうに言う。俺は一口酒を喉に通す。
「あーで、どんな人なの?」
「んー。なんかデザイン? とかIT? 関係の仕事をしてるって。めっちゃ都会人って感じなんだけど、釣りとかもすげえ詳しくて」
「へぇ、釣りするんだ? 何か格好良いね」
「そうだな」
釣りをしている翔一の姿が浮かんだ。
どこか余裕を纏っていて。爽やかで柔らかい雰囲気とか。リールを巻くときの勝負顔とか。
隣で釣りをしていると、何を話しても話さなくても、どこまでも心地よかった。
それで大物が上がれば子どもみたいに、なんの曇りもない無邪気な笑顔ではしゃいで。格好良くて、そして愛らしい人だ。
「変な顔しちゃってぇ。こんな感じの浩ちゃん初めてかも」
「変な顔って何だよ」
「で、その人と付き合ってるの?」
一瞬で胃が重くなるのを感じる。俺の表情で察したのか澄子は少し後悔したような顔をする。俺に言葉を選ぶ時間をくれている。
「伝え、は。したんだけど」
歯切れの悪い言葉が一つ一つ零れてゆく。息を一つ置いて、絆創膏を剥がすように一気に声にする。
「振られた。て言うか、多分。俺、あいつのこと傷付けちまって」
「え? それって、どういう——」
「俺も、良く分からないんだけど。多分」
やはり声に出して言うと、一層、現実が突き付けられる。俺は失恋したのだと。いや、それどころか本気で嫌われた。
悔しいのはあれが自分でも予期せず零れた言葉だったこと。ちゃんと翔一の気持ちを汲んで紡いだ言葉ではなかったこと。
一瞬の不注意であれほど誰かを傷付け、傷ついたのはきっと初めてだ。人生で初めて、後悔しそうになっている。やり直したいと思ってしまいそうに。
後悔しない方法が分からない。目頭が熱くなるのを感じて澄子に隠すように顔を背けて、上方に視線を定める。
カウンター裏に貼られた写真が目に入る。色んな時代の爺ちゃん達、色んな時代の『うきぐも』。それに色んな時代の俺や澄子も。
「そう、なんだ。ごめん……なんか」
「いや、こっちこそごめん」
「でも浩ちゃん、諦めたわけじゃないんでしょ?」
気持ちを切り替えるように一度顔を手のひらで撫でつける。
諦める。諦めない。分からない。諦めないためにこれ以上、俺に何ができるのか。そして諦めるには、どうすればいい。
「分からない。どうにもならないかな、多分」
「……そう、なんだ……」
力なく言葉を繋ぐが喉がそのたびにつっかえそうになる。いつだって澄子には見っともない姿しか見せられない。頼りない。情けない。
「そうだ、名前は? あ、写真とかある?」
敢えて明るく振る舞う澄子。
気を遣わせてしまって申し訳なく思う。彼女の方こそ、それどころじゃないだろうに。
カウンターに置いてあったスマホを手に取り、カメラのフォルダを開く。何週間も前のことなのに先頭近くに映し出されている写真。
翔一と最後に行ったキャンプで撮った一枚。
これを撮った数時間後にあんな形で彼を傷付けてしまうなんて。翔一のあどけない笑顔からは思いもよらなかった。
スマホを澄子へと伸ばす。
「ん? 何か違う写真出た?」
そう言われて、間違えてスライドしてしまったかと確認するが、そんなことはない。
「ん? いや、この人だけど、ほら右の」
「え、だって。浩ちゃん。この人——」




