3-1
『修正OK出た~!』
大泣きする絵文字が数個、大袈裟なスタンプまで添えた榎田からのメッセージが届く。大量修正案件の経過報告。
その文字列の向日性に朝から付き纏っていた危惧が幾分か引いた。
前日の妙な行動をきちんと謝らなければならないのは言うまでもないのだが、榎田が普段通り接してきたことは嬉しい。
お疲れ、と軽く絵文字も含めて返信し、手元のコーヒーカップを持ち上げる。
午前中にクライアントとの打ち合わせが二件入っているため、移動の合間を適当な喫茶店で潰すことにした。今日もスーツが窮屈である。
ノートパソコンの画面を幾つかのメールが賑わせる。同時進行の企画が多数あるため、取り敢えず案件ごとに仕分けてゆく。優先度の高いものはその場で対応する。
スマホの反対側から焦る後輩、急かす上司、無駄話をする同僚が順に騒がしい声を届けてくる。
そんな殺伐とした様子とは裏腹に、喫茶店内はひどく静かで、まるで時間の流れが別の法則に従っているようだ。流行りの曲をジャズ調にアレンジしたカバーのプレイリストがほど良いボリュームで流れている。
香衣良が勤めていたスタジオに近く、以前彼女と何度か訪れたことを思い出す。
どういう話をしたかまでは思い出せないが、延々と喋っていた。内容はさておき、こういう時間の中に彼女といる心地よさを自覚した。
最近会う頻度は確かに減ったが、それでも彼女は心安らぐ数少ない拠り所なのだ。そのはずなのだが、今は二日後に会う約束が妙に気重く感じる。
塞ぎ込むのが得策ではないことくらい理解している。前に進むためにもいち早く通常の自分を取り戻せねばならない。
しかしそれは焦慮に駆られているように感じないでもなく。人はそういう風に躍起になって更に悪手を打つのが常だ。
バランスが取れない。取れる自信がないから香衣良に会うのも躊躇ってしまう。
順風満帆、とまでは言わないが、波風立てない程には健やかな道を歩んできた。
勿論それは母親の功績である。社会人となった今でさえ、進むべき道を選択する判断力を養ってくれたのは母だ。
良い給料の良い職場で、好きな仕事をある程度満足にして。多少非常識ではあるが互いを尊重し合った健全な間柄を、素敵な女性と築いて。広くはないが利便性と恒常性を伴った住宅街で暮らしている。趣味だってある。
落ち度などどこにも無いはず。
スマホにセットしたアラームが振動する。打ち合わせの時間だった。残るコーヒーを勢いよく飲み干す。
会社に戻ったのは午後一時過ぎだった。
廊下を渡っていると、ガラスのパーティション越しに丁度休憩室にいる榎田の姿が見える。他に誰もいないようなので、意を決して扉を押す。
「お疲れ」
「おー、お帰り!」
榎田は昼食だったと思われるカップ麺の器を濯いでいる。俺は自販機に向かう。
「須田ー、サンキューな。お陰で何とかなったわ」
後輩の安堵した様子やチームに広がった疲労感を楽しそうに語る。
自販機からお茶を買う。二つ。
「良かった。その様子だと、後輩君も大丈夫そうだな」
言いながら片方のお茶を差し出す。
「え、マジ? ありがとう。今日はあいつら早めに帰すわ。神経すり減らしてたからなぁ」
「良案だろうな」
「で、そっちはどうだった?」
「まぁ、制作チームと要相談ってところかな。企画側は俺のチームが担当だし成功はさせるけど」
いつもの口調で言ってみるが確信がない。
演じている時点ですでに本来の自分とは差異が生じているのではなかろうか。それはどれほど他人が感じ取れるものだろう。
榎田は笑って見せるが、なんとも言えなかった。自分でも説明し難い事に対して謝罪するのは存外勇気のいることだと思った。
様々な匂いの充満した休憩室の空気を肺に送る。効果、期待値以上。
「なぁ。榎田。悪かったな。その、昨日は……」
突然、話の流れを変えられ、逆に応答に困るように榎田は視線を反らし後頭部を掻く。
心臓がよく聞こえる。
「あれは。俺が、悪かった」
その数単語の孕む意図がよく理解できず、榎田の言葉の先を待つ。
「謝る必要ないから。な?」
榎田は困ったような笑顔をする。申し訳ない気持ちは引かなかった。
そうじゃない、自分でもなぜ、ああいう反応をしたのか分からないのだ。そう言いたいのだが最初の音さえ喉の奥に引っ掛かっている。
「いや、けどさ——」
「あー、はいはい終わり! そんな大したことじゃないだろ。大袈裟だな須田は」
笑いながら休憩室の扉へと向かう。
「榎——」
「お茶ありがとな。午後も〜ファイッ!」
不快な空間からそそくさと立ち去るように見えた。俺の思い過ごしだろうか。
深刻に捉えるあまり、悲観的に思考が働いている。そうなのだろうか。
まるで昨晩と立場が入れ替わったかのように釈然としないまま俺は立ち尽くした。
まさに悪手が悪手を呼ぶ、負の循環。感情は更に深層へと潜り込む。穴釣りで仕掛けが岩に挟まってしまった時みたいな閉塞感がある。
いや、榎田の言う通り、大袈裟なのだ。大したことないのに、いちいち重い表情を纏っていたから、榎田も気を使ってくれただけだ。
その日の午後も何回か榎田とすれ違い、普段通りのやり取りをする。向後プロジェクトの概要相談。先月クローズした案件の開示要請。
榎田は顔色一つ変わらない様子で、いつも通りの威勢だった。強引に押し込んだ納得はやはり自分が気にし過ぎていたという結論に至った。
午後七時十三分。
曇り空は夕陽の姿を見せることなく、冷淡な薄暮を延ばしていく。
今日中に済ませておきたい作業が幾分か、多少の残業にはなるが厭うことはない。早々に帰宅したところで良い事などないのだから。
廊下を過る人影が見えたかと思えば榎田だった。
「まだ仕事か。あっ、え。昨日、俺らのせいで?」
開いた扉から半身乗り出して、同室で作業しているチームに軽快な手を振ると、はっとしたように青ざめる。
「違う違う、少し進めてるだけ。てか榎田まだ居たのか」
「うーわ、びびったぁ。あはは、そう、もう眠くてヤバいわ」
「はは、だろうな」
「お前らもあまり根を詰めるなよ、まだ水曜だぞ」
「はいはい」
信用ならんな、と言い捨てながら榎田は去り掛ける。ふいに昨日の話を想起して、つい呼び止めてしまう。
「あ、榎田。そう言えば、昨日話してた所さ。そっちはいつなら行けそう?」
榎田が見つけてきた新しく試したいと言っていた釣りスポットである。その時は集中することができず、話の要点すら聞き取れていなかった。
あわよくば問い直すことなく情報を得られないかと投げ掛ける。
一瞬の間、榎田の目が泳いだように見えた。
「あ、ああ。それな。何かさ、時期的にあんまり良くなかったらしいわ」
「そうか? え、じゃあ別のとこ行くか?」
「うん。そう、だな。まあ、結構忙しいじゃん、最近。一旦落ち着いてからの方がいいかもな」
「そう、か。分かった……」
「おう。じゃ、また明日な」
榎田にしては覇気のない声だった。
小さく手を挙げて榎田は事務所を後にした。
昼間の会話のときみたいに、一瞬で空気が変容したのを感じた。追い払ったはずの胸騒ぎが沸々と湧き出てくる。
要らぬ危惧だ。今の自分に冷静に判断する余力がない。ちょっとした事が無用に拡大していると感じているだけだ。
たったそれだけなのだ。
そう思うように働きかけても、思考空間が歪む。
はぐらかすような態度。その原因は昨晩の一件以外、何があるというのか。
なぜか手や足の先端、それに首や頬の辺りが見えない針に刺されるかのように粟立つ。
長い付き合いだ。軽視するわけではないが、あの程度の事で榎田が突然よそよそしくなるのは不自然に思える。
受け取ってはくれなかったが謝罪もした。その後も普段通りの会話をした。であれば、昨晩の衝動的な俺の行動に、榎田は何を感じ取ったのか。
胸騒ぎが具現化するかのように体中から一斉に冷汗が噴き出す。キーボードを弾いていた指が止まる。鼓動が鼓膜を圧延しているかのように重く響く。
何を勘違いした。
押し寄せてくる恐怖に慄く心臓を必死に鎮めようとする。この感情は論理的ではないのだと自分に訴え掛ける。
同僚との誤解や蟠りなど今まで数え切れないほどあったではないか。いくら榎田が良友だからといって、流石に動揺し過ぎではないのか。
きっと、連日の残業疲れで妙な心境にあっただけだ。もしくは、何かしら俺に気を使って。
それ以上の意味などない。あったとしても、弁解の余地などいくらでもある。
弁解。
何を弁解すればよいというのだ。
俺が友人だと思っていた異常者に狙われていたこと。
それで裏切られたことを未だに引き摺っていること。
つい男である榎田に無意識に嫌悪感を抱いたこと。
それが一体なんの弁明になるというのだ。
いや、深く考えてはならないのだ。これは不合理な、生理的な反応だ。考えても無意味。
とにかく落ち着け。落ち着くんだ。と呪文のように黙唱し、深呼吸を繰り返す。効果、期待値内。ほんの少しだけ強張る筋肉が解ける。
「リーダー、大丈夫ですか? 顔色が……」
ただならぬ様子に気付いたのか、チームの後輩が駆け寄ってきていた。後ろ二名も心配そうにこちらを窺っている。
「いや。うん。大丈夫。ちょっと眩暈が」
「ヤバいじゃないですか! もう、働き過ぎですって。今日は帰って休んで下さいよ」
「……すまない。そうする」
正確性を欠く手付きで荷物を纏める。パソコン。携帯。書類。筆記用具。眼鏡。背凭れに掛けていた上着。
痛々しい物を見るかのように向けられる視線。極力自然で落ち着いた笑顔を作ってみる。
「じゃあ、申し訳ないけど先に失礼するね。皆も早めに切り上げて」
会社を出る前にトイレに寄る。
冷水で顔を洗う。蟻走感が少し引く。
鏡を覗くと予想を上回る酷い顔を晒す俺が映っている。
肌が青白い。死人のような目だ。
微細な違和感を覚える。鏡に顔を近付ける。
よく見ると、瞳の奥に何かが見える。
真っ黒い。怪物。
最初に浮かんだ言葉だった。
側頭部を打ち付けられるような鈍い鼓動が頭蓋骨に響く。瞬発的に息を潜める。
また無数の蟻が皮膚を駆け回るようにチクチクする。
気のせいかと、反射に近付いて目を凝らしてみる。
すると目の奥に潜む怪物は、途方もない巨体を覆い尽くす鱗を一つ残らず逆立てる。
ゆっくりとこちらを向く。
そして蠢くような、歪で湿った笑顔をした。
「誰だよ、おまえ……」




