3-2
真っ暗な夢を見た。
夢を見ていないと言っても差し支えない。
それほど真っ黒な。
目を覚ますと一瞬現実を疑った。
角膜が光を捉えたことを信じられないかのように。摂理に反した物を映し出してしまったことに戸惑うかのように。理解が視覚に反射する光景を拒んでいる。
スマホを見る。午前六時三十七分。
メッセージなし。いつも以上に体が抵抗する。
ベランダのドアを少しだけ開けると冷たいくらいの風が押し寄せてくる。
灰色の秋雨が薄暗い街を濁している。車の走行音、あるいは風。息を継ぐことも知らない長い吐息が聞こえる。
頭が重い。
水を飲み風呂場へと怠さが纏わりつく脚を動かす。なんとなく鏡を避けて支度する。
パックマンがいつも以上に無関心だ。餌に興味を示さない。飽きたのかもしれない。今晩、釣具店に寄ってイソメでも買ってこよう。
昨日買い物をし忘れた。俺もまた食欲がないので構わない。
六時五十二分。出勤までの一時間近い空白。
ニュースを読む気力が湧かない。散乱する意識でただ窓の外を濡らす雨滴を目で追う。やはり体が重い。
棚から体温計を探し出す。三十七度四分。微熱。幸い今日は内勤だ。せめて楽な格好で行ける。
マスク。まだあっただろうか。
榎田と顔を合わせることに及び腰になっている。
ちゃんとしなくては。弱気になっても埒が明かない。ちゃんとした社会人に。仕事はきっちりやる。私情を持ち込まない。それが努力。結果はいつだって努力に伴う。
頬を二回、両手で軽く叩く。指先の冷たさが心地良い。効果、期待値内。
昨日帰宅した時に放り出した鞄やスーツが目に付く。皺になってしまうだろうか。クリーニングに出さなくては。
引き出しから適当な衣類を選び着替える。黒いTシャツ、黄色と黒のパーカー、黒いズボン、ソックス。
お隣さんと会うのも億劫。少し早めに家を出る。午前七時十三分。
榎田は一日の大半が外勤のようだった。
一昔前のAIみたいに目の前に出されたタスクを機械的に、一つずつ片付ける。投げ掛けられる質問や報告に感情を装いながら応答する。
「リーダー、やっぱり風邪でした?」
昨日心配して駆け寄ってきた後輩がマスクを見ながら尋ねる。
「そんな大した事ないよ。すぐ治る」
「あ、そうだ、もしよければこれ、どうです?」
ビタミン豊富なゼリー飲料を差し出された。
「今朝買ってきたんですけど。残業時の非常食なんでいっぱいあるんです」
「お前な、残業ありきで考えるなよ」
それでも礼を言いながら受け取る。
マスクのお陰であまり無理する必要がない。目だけ笑っていればよい。声が少しばかり掠れていても誰も気に留めることなどない。
慕ってくれる後輩に囲まれて仕事ができるのは幸せなことだ。しかし弱った様子を見せるのは不本意なのだ。
威厳や風格など、そういった問題ではなく。単に人が心配する行為自体が苦手なのだ。自分が無力に感じる。居た堪れない、場違いな、そんな異質感に呑まれる。
「ありがとな」
「ちゃんと治して下さいね? リーダーが倒れたら須田チーム存亡の危機ですから!」
「存続な。てか大袈裟。ほら、仕事戻れって」
認めるのも憚れるが、午後も榎田と遭遇することなく安堵した。
チームに追い立てられるままに定時で帰る。
人は心配すると庇護欲を抱く。それは大抵の場合、当然善意である。
苦手なのだ。心配される度に隔たりを感じてしまう。有無を言わせず課される疎外感。着実な努力で築いた俺の小さな居場所が脅かされているようで。
脳が腫れているかのように頭蓋に圧を感じる。湿った匂いを運ぶ風はそれを少し和らげるのだが、もう帰って寝てしまいたい。
駅近のスーパーに寄って最低限の買い物をする。更に向かいの釣具店に入りパックマンの餌を買う。青イソメ、小エビ、赤虫。
最近はペレット餌に頼りっきりだった。生餌をあげればきっと食べてくれる。スーパーでアサリが安かったのでそれもあげてみよう。最悪、自分で食べればよいのだ。
薬局に行こうかとも思ったが、少し距離があり、傘も邪魔くさく、倦怠感が増す。それほど熱があるわけでもない。明日の様子を見よう。
午後六時四十七分。自宅前で笠貫さんと会う。帰宅時間が被るのは珍しい。笠貫さんは怪訝そうにこちらの様子を窺っているようだ。
「あれ、風邪ですか?」
「あー、いえ。全然大した事ないです」
「そうですか……お大事に」
「すいません。ありがとうございます」
お疲れ様です、と軽く会釈しながら自室のドアを潜る。なぜだかその裏から笠貫さんの視線が継続している気がする。
荷物を玄関近くに置き、買い物を片付ける。水を少し飲む。取り敢えずパックの中からイソメを一匹摘む。
指の間で蠢く姿に一瞬、昨日の幻覚に出てきた化け物の笑みが重なる。背筋に嫌な汗を感じる。
「パックマン、見ろ。ご馳走買ってきたぞ」
脳裏にちらつく画像を振り払い水槽に近付く。
腹を上にしたパックマンは、動かなくなっていた。
自分でも驚くほど慎重な動作で水中に手を差し込む。もう片方の手には生命に満ち溢れたようにイソメがのたくり回るのが対照的で気持ち悪い。
俺はそっとパックマンの体を包み込むように取る。反応がないか水の中で側面を突っついてみたり、揺らしてみたりする。
死んでしまった。
腐敗が進んでいない。さっきまで生きていたんだ。独りぼっちで。可哀そうに。
昔から生き物、とりわけ魚が好きだった。きっかけは恐らく父。
両親の離婚後、俺は東京の実家に戻った母の下で暮らしていた。父は名古屋の地元に残ったため、会える機会は限られていた。
一つの家族だった頃の記憶はあまりないが、たまに会う父は無口で不器用で。きっと前からそうだったのだろうと思う。
まるで時間を持て余すかのように、幼い息子を迎えに来る度に釣りに連れて行った。その時だけは父もよく話した。
父の釣りや魚の知識は並外れていて、いつでも新しい話を聞かせてくれた。そこに生息する生き物の名前、生態系、由来や逸話まで。
無知な俺は父の話の大半は理解できなかった。しかし、一生懸命何かを伝えようとしている父の表情は好きだった。
俺は水の中に広がる世界に胸が高鳴った。
自分達とは全く違う景色を見て、自分達には到底理解のできない理の下、生きている。
その不可思議はまるで遠い異世界の話のようで、実は自分達のすぐ隣にあり続けている。
勿論、当時そんなことを言語化できるはずなどなかったが。
自分で初めて釣ったのは小さなブルーギル。
どうしてもその子を家で飼いたいと母に訴えた。中々首を縦に振らない母。泣きじゃくり作戦を仕掛けようとする俺を宥めながら、父が説得に加担してくれた。
父が母に言葉を尽くすのを、初めて見た。とても心強く、大きく、格好良く見えた。
どのような主張をしたのかは覚えていないが、最終的に母は仕方なさそうに甘受した。
その日のうちに三人で小さな水槽を買いに行って立ち上げた。まるで普通の家族のように話す両親の姿が今でも鮮明に浮かぶ。
そのブルーギルが後から入れた魚に食われてしまったとき、まるで温かい思い出まで死んだように感じた。悲しくて悲しくて、罪悪感から逃げたくて、何日も泣いた。
母はあまり理解してくれなかった。命あるものはいずれ消えゆく、それが生きものを飼う責任だと言って。
母にとって釣りはあくまで趣味でしかない。均衡の取れた生活を送るには大事だが、それ自体が有意義だとは思っていない。
幼い俺に学びの機会を与える物としか捉えていなかったのだと思う。
俺にとってそのブルーギルは父との思い出で、家族との思い出で、自分が初めて釣った魚。
あの瞬間の高揚感や誇らしさ。そういう物の象徴でもあった。
勿論、それからも様々な生き物を飼って、育てて、見送った。
いつでも母の消極的な眼差しが反論していたが。心から没頭する姿を見て、趣味の一つくらい良いだろうと、諦めていたのだと思う。
成長するにつれて、生命の美しさも尊さも残酷さも。人の手でそれらを悪戯に弄ぶ重さも。出会いも別れの仕方も。魚を通して教わったものだ。
慣れるものでもないが、少しだけ命の循環というものを受け入れられたと思う。傲慢かもしれない。
パックマンの体は思った以上に重たい。
飼い始めた頃は傷だらけで痩せ細っていたのに。まだ何年も生きられたはずなのに。
幾度となく繰り返した動作が今回、やけに重い。
キッチンペーパーで水気を丁寧に取る。新たなペーパーでくるんで、棺みたいなタッパーに納めて、冷蔵庫に入れる。
ずっと守ってきた自分なりの供養。
ブルーギルは別の魚に食われてその血肉になった。命が繋がれたのである。それを理解したとき初めてその子を失ったことを受け入れられた。
土曜辺りに釣具店に行く。少し変わった店長は趣味で園芸もしていてパックマンを肥料に使ってもらう。
命を受け繋いでもらう。
もう何年も飼っていなかったからだろうか。
すでに気が滅入っていたからだろうか。
暫く嫌なことが続いているからだろうか。
妙に堪える。
茫然とベッドの端に座る。空になった水槽が視界に入る。こうすると結構大きい。これ、どうしよう。
ふと、膝に乗せている手の甲に生温い感触がした。
滴が一つ。
二つ。
「マジ……何なんだよっ」
息を吐くような声。
目から零れてしまう熱い水滴を堰き止めようと手で抑える。しかし隙間を埋め尽くすことが叶わず壊れた蛇口のように次から次へと涙が溢れ出る。
声にならない、音にすらならない。
しきりに肩が震える感覚だけが今、時間が紛れもなく進んでいることを示す。
俺は何に嘆いている。一匹の鯉の死か。自分の内の情けなさか。醜さか。同僚に引かれたことか。友人に裏切られたことか。
いや。俺はこれを知っている。
孤独感だ。
ずっと見ないふりをしてきた。
父が出て行った日の無力感も。母も同様に去ってしまう疑心も。社会に拒絶されてしまう恐怖も。価値を示さなければならない強迫観念も。心配をかけて愛想を尽かされる不安も。下劣な本性を見破られる絶望も。
直視してしまえば取り返しのつかない物になりそうで、全部遠ざけて来た。全ては不可逆的に孤独へと誘う路程だから。
しかし今、少しだけ見えてしまった。俺の内側の脆さ、危うさ。
それらはいつでも俺を飲み込むことができるのだ。
それが堪らなく恐ろしい。
嗚咽が更に激しくなって過呼吸になりそう。
肩を両手で押さえ付けて呼吸に集中する。一つ一つ意識して空気を取り入れ、吐いてゆく。
少し収まってきたときだった。
ドン。
鈍い音が部屋に響く。不意を突かれて辺りを見回す。どちらかの隣人が壁を叩いたのだろうか。それほど煩くしたのだろうか。
ドン。
もう一度。
ドン。
音の先を目で追う。違う。冷蔵庫。
ドン。
音がしたと同時に冷蔵庫が身震いするように揺れる。
中に。
直感的にそう思った。
恐る恐るその方向に行く。冷蔵庫の扉に手を掛ける。
ドン。
重い振動が伝わってくる。固唾を呑む。
ドン。
咬筋が痛いほど収縮する。ほんの少しだけ扉を開ける。
その隙間からゆっくりと。
滑りのある光沢をちらつかせて。
黒い鱗に覆われた、手に似た何かが垂れるように出てきた。




