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力一杯に扉を閉め、数歩後退った。
地鳴りのような音は止まり、ようやく息をしていなかったことに気付く。
肩を大きく揺らして呼吸する。肺を満たす酸素、食道を通り抜ける二酸化炭素。
涙と汗で体中が気持ち悪い。
覚束ない動作で冷蔵庫をもう一度開けると、そこにはもう何もなかった。
ドンドンドンドンドン。
脚が竦む。反射的に耳に手を当ててしゃがみ込む。
「須田さあん?」
女性の声だった。
軽くしているはずのノックが鳴動するように重なって大きく聞こえる。
「須田さん、大丈夫ー?」
慌てて袖で顔を拭き、マスクを掴み、玄関の扉を開ける。笠貫さんの奥さんだ。
「あー、良かったぁ。返事がないから心配しちゃって。中でゴトゴト音してたし」
「す、すいません。何かぼーっとしちゃってました」
「まぁ、ホントにお顔色が悪いわね。大丈夫なの?」
「あ、はい。えーと……」
「あ、ごめんなさいね突然。主人が須田さん風邪を引かれたって言うから。はい、これ、肉じゃがね。あとサラダ。食べられそうなら」
言われて強引に手渡されたのはビニール袋に入ったガラスのタッパーが二つ。
「え、いえそんな。申し訳——」
「いいのよ、お隣さん同士、こういう時は助け合わないとね。この間も助けてもらったし。あ、そのままチンして大丈夫だからね」
「すいません。じゃあ、お言葉に甘えて」
「気にしないでいいのよ。あとお買い物とかあれば私行くから。気軽に言って」
「あ、いえ、今日行ってきたので。でも、ありがとうございます」
「じゃ、ちゃんと食べて早めに寝てね。何かあったらいつでも家に来て」
会釈をしながら自宅へと戻って行く。俺も頭を下げ、笠貫さんの奥さんを見送った先、ドアの隙間から旦那さんがこちらを覗くのが見えた。
改めて礼を言おうとする前に勢いよくドアが閉まる。笠貫さんはどうやら奥さんに何も話していないようだ。
部屋に戻ると息苦しい静寂が抱きついてくる。
戸口を背に台所の冷蔵庫が目に入る。思わず視線を逸らす。
手に重みを与えるタッパーに目をやる。よく見ると風邪薬まで入っている。
食欲はないが折角分けてもらったのだ。肉じゃがの入った方を電子レンジに二分かける。香ばしい匂いが漂い始める。
いまだ張り詰めていた神経がようやく少し和らぐ。
動画を流すでも、音楽を掛けるでもなく、雨声だけを聞いて少しずつ箸を進める。
家庭の味がした。
一日働いた父親が何も言わずも完食する食事。勉強やら遊びやらで腹を空かせた子ども達が何杯もおかわりする食事。母親がそれぞれ諭しながらも満足そうに食べる食事。
母子家庭の俺にはそのような記憶はあまりない。
父と別れて東京に戻った母は俺を何不自由なく育てるために身を粉にして働いていた。訪問介護士になる前はパートをいくつも重ねて、夜遅くまで勉強もしていた。
それでも、俺が父親の不在をなるべく感じないように、一人で全ての役割を演じてきた。
だから俺も心配かけないようになるべくのことは一人でできるようにした。勉強も運動も。
テストで良い点を取ったりすると、母は必ず、無理をしてでも一緒に食事をする時間を作ってくれた。大好物のカレー。母と食べる定番。
これが俺の家庭の味。頑張った時のご褒美。
感情の起伏に疲れ、無性に母の声が聞きたくなった。
少しずつ食べ続けながらスマホを取り出す。音声をスピーカーに切り替え、呼び出し音に少し不安な気持ちで耳を傾ける。
「翔一? どしたの、あんたから掛けてくるなんて珍し」
「そう? 特に何もないんだけど。元気?」
「えー、何〜? 何か企んでない? て言うかあんたちょっと声変じゃない?」
「んー。風邪気味、大したことないけど」
「もう、何してんのよ。体調管理も立派な社会人の務めよ?」
「分かってるよ」
「分かってたら体調なんか崩しません。しっかり温かくして寝なきゃ。あとちゃんとご飯食べなさいよ? インスタントとかで済ませてない?」
「ん。さっき丁度お隣さんからお裾分けいただいて。肉じゃが」
「まぁ、ご近所さんにまでご迷惑をかけて。いつまで経っても甘えてちゃだめよ? もう大人なんだから」
「うん。今度お礼に菓子折り持ってくよ」
「そういう問題じゃないでしょう。もう、母さん情けないわよ」
「うん」
母はよく誤解される。体裁ばかりを気に掛ける、見栄っ張りな人だと。そうではないのだ。
女手一つで子供を育てるということ。それは社会に蔓延る害毒の標的になるということなのだ。
人生が上手くいかない同僚が自分より不幸な人間を求めるから生贄にされ。凝り固まった価値観の雇主には頻繁に熱を出す息子の迎えで早退する役立たずと罵られ。近所では父親のいない家庭を面白可笑しく誇張した噂が流れ。
そんな悪意の渦中、それでも立ち止まることは許されない。弱音を吐くことも、逃げ出すことも。自分一人の命ではないから。
頭を下げて、波風立てないで、辛抱強く耐えていくしか。
だから母は強くなるしかなかった。
そして息子には同じ轍を踏ませないために徹底的に教育した。立派な仕事も地位も学歴も。母にとっては手段でしかない。それ自体を目標にしているわけではないのだ。
誰にも文句を言わせない『立派な大人』になることが母の教育。勉学も経験もそのためにある。ちゃんと見極める。正しく選択する。結果は必ず伴う。間違わないこと。
どこか母自身が社会に突き付けた復讐。そんなものも含むのかもしれない。
それでも俺はそのお陰で大きな失敗をすることもなく、堅実に生きてくることができた。
「あんた何かあった?」
「え?」
「そんなに調子悪いの?」
心配、させてしまった。なぜ電話なんてしたのだろう。喉が詰まるのを咳払いして誤魔化す。
「いや、大丈夫だけど」
「嘘言わないの。母さん分かるわよ」
「大丈夫だって。忙しいのはあるけど、別に……」
「そう? でも、弱音を吐いてちゃだめよ。今が踏ん張り時なんだから。頑張った分だけ、」
「結果が伴う。分かってるよ。それより母さんは仕事どうなの」
「そりゃ忙しいわよ。常に人手不足よ。施設の方でもどんどん辞めていく子が多いし」
「そうなんだ」
「そうよぉ。楽な仕事じゃないもの。利用者さんの現実見るのも辛いしね。みんな孤独でさ。この間だって新しい利用者さん訪問したんだけどね。母さんより少し年上でね。交通事故に遭って両脚だめになっちゃったんだって。『お子さんいるんですか?』って何となく訊いてみたんだけど、『息子とは縁を切った』って。息子さん、どうも男性と付き合ってるみたいなの」
箸を持つ手が強張る。
「もう、ホント悔しそうに言っててさ。母さん仕事だし、何て言ってあげたらいいか分からなくて。大切に育てた子供がさ、そうやって道を踏み外しちゃうなんて。母さん、もう聞いてて涙出そうになったわ。自分の育て方が良くなかったんだろう、って嘆いてた。多様性とか言うけどね、やっぱり親にとっては辛いわよ」
瞼を閉じる。
また頭痛が来そうで目頭に指を押し当てる。もう何も喉を通る気がしない。
「そう、だね」
「その人には申し訳ないけどね。母さん良かったなぁ、って思っちゃった。翔一がそうじゃなくて。そりゃ色々不安はまだあるけどさ。何だかんだで翔一もちゃんとした大人に育ってくれたし。ちゃんと仕事して、彼女さんだって。あ、そういえば上手くやってるの? 香衣良ちゃん」
口の中が乾く。ボトルの水を一口飲んで、もう一度咳払いをする。
母と香衣良は一度だけ会ったことがある。出会って間もなく、自信を持って付き合っていると言えた頃。
たまたま香衣良と過ごしていた週末に突然母がやってきたのだ。彼女だと紹介すると母は恥ずかしいほど大興奮して、まるで婚約を発表したかのような勢いで香衣良を質問攻めにした。
当時は驚愕したが今では懐かしい笑い話だ。母には今の俺達の関係について何も話していない。
おそらく理解ができないから。
「うん、まあ。お互い忙しいけど。明日も会うし、体調次第だけど」
「逃がしちゃだめよ? あんな美人な子そうそういないんだから」
食べかけの肉じゃがに蓋する。
「逃がすって」
笑ってみるが、乾いた息しか出ない。
スマホを片手に、タッパーをもう片方に台所へと向かう。足が床に触れていないかのような浮遊感。
冷蔵庫を前に少し躊躇う。
「まあ、ちょっと変わった子だけど。私は嫌いじゃないわ。翔一にはそういう感じの人が丁度良いのかもね」
「もういいよ、その話は」
「あら、生意気ね。誰に似たのかしら」
冷蔵庫を開けて無意識に四隅に視線を走らせる。何もいないのを確認してタッパーを片付ける。
パックマンの棺の隣に食べ物。食べ物の棺。食べ物のパックマン。
扉を開けたまま冷気が足に掛かる。
「母さん、俺なんか眠くなってきたわ。そろそろ切るね」
「え? あんた、何か用事があったんじゃないの?」
「いや、なんとなく掛けただけ」
「そう。ふふ、小さい頃からあんた風邪引くと心細くなるの。変わってないわね」
「そういうんじゃないって」
「はいはい。じゃあちゃんと温かくして寝るのよ」
「うん。またね」
調理台に乗せていたスマホから通話終了の電子音が鳴る。
冷蔵庫の扉を閉める。
心のどこかにまだうっすらと言葉が浮かんでいる。
なぜか母に言ってしまいそうになった言葉。
『多分、その息子さんだって縁を切りたいなんて思ってなかったよ』
『きっと親がそんな状況なのに面倒を見られないのを息子さんだって悲しんでるよ』
なぜそんな言葉が浮かんだのか分からない。
初めに裏切ったのは息子の方ではないか。親に辛い想いをさせて。孤独にして。育ててもらった恩も忘れて。
俺はどうして反論しそうになったのだろうか。
嫌でもあいつの顔を連想した。
祖父母の思い出を守るために全てを捨てて地元に戻ったあいつ。
夫を亡くしたお婆さんに寄り添って最後まで面倒を見るあいつ。
心のどこかで納得のいかない自分がいたのだ。偽善でしかなくても。
体温計を取り出して咥える。三十七度七分。
笠貫さんから戴いた錠剤を飲んで、もう寝てしまおう。
こんな一日、早く終わらせよう。
幻覚も悲観的な思考も、らしくない振る舞いも、きっと全部熱のせいだ。
母の言う通りだ。甘えてはならない。
さっさと治して通常の生活に戻らなければ。




