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連日のモノトーンに慣れてしまったせいか、雲が反射する桃色や紫が新鮮だ。
街はまだ僅かに雨の気配を残す、ひんやりとした匂いを帯びている。擦れ違う下校生が和気藹々と週末の予定を語らう。
スマホの時刻。午後六時四十二分。
会社に戻ってもう一仕事を終えなければ、と歩幅を少し伸ばす。
今朝起きたら熱は引いていた。笠貫さんの心遣いに感謝だ。
心なしか気分が少し晴れていて、白い空の隙間から覗く青はそれを表しているようだ。
体調を崩して、弱気になっていた。そういうことなのだ。
自分の未熟さに自尊心が燻るが、ひとまず本調子を取り戻せそうで安堵する。
集中を切らすことなく順調な勢いで業務を進められる。部下達の心配の種は取り除かれ、皆も効率よく仕事をこなす。
昼頃に榎田と顔を合わせる機会があった。昼飯に誘われ、社食で他愛ない話をした。初めこそ構えていたが、普段通りの活気溢然とした表情豊かな榎田。
あまり踏み込み過ぎた話題は避けた。念のため。
しかし懸念は懸念でしかないものと思われた。
午後、スタジオでの撮影の打ち合わせを終えて今に至る。
遅くても七時四十五分には会社を出たい。香衣良と約束しているからだ。
少し風邪気味であることを昨日寝る前に伝えた。彼女に移すわけにもいかないので今日は会わない方が良いと思ったからだ。
『じゃあ、看病に行ってあげる』
と返してきた。
今朝になって熱も引いたので、結局予定通り街で食事することにした。少し振り回してしまった後ろめたさもあり、ちょっと贅沢なレストランに連れて行こうと思った。
以前仕事関係で訪れた店が何軒か近くにある、栄町駅での待ち合わせを提案した。そこなら香衣良の気分次第でイタリアンでもフレンチでも大体候補は浮かぶ。
『水の宇宙船』と言われるガラス大屋根が特徴的な複合施設『オアシス21』は夜ライトアップされて、少しぶらつくのにも悪くない。
前日までの不安が嘘だったかのように浮足立つ。香衣良に会えばきっと余計な考えもそれらが招く疲れも払拭できる。
会社に戻り、部下が纏めた翌週本格的に始動するプロジェクトの資料の最終チェックをする。別の部下から進捗報告と相談を受け、内容を一緒に確認してゆく。
メール、日程確認、クライアント資料のアップデート。あっという間に時間になった。
部下数人と同じタイミングで退社する。
「そういえばリーダー、今日、ちょっと気合入ってません?」
「何が?」
「服ですよ。もしかして、これからデートっすか?」
にやにやと邪心溢れる笑みを浮かべて言う。隣の女性社員も興味津々といった様子で続ける。
「私もそれ思った!」
外回りのない日は基本的にパーカーを貫いているのに、Ⅴネックのセーターにジャケットで決めて来た姿に勘付かれるのも至極当然である。
少し意味深な笑顔を作る。
「さて、どうだろうな」
一層騒ぎ立てる後輩達が微笑ましい。
駅には待ち合わせの十分前に着いた。
陽の落ちた栄セントラルパークは街灯の温かい光に照らされて落ち着いた雰囲気を纏っている。少し先に悠然と立つミライタワーは暗い空にくっきりと浮かび上がる。
辺りには仲睦まじく腕を組んで歩くカップルや、はしゃぎながら談話する若者、仕事帰りでこれから飲みに行くサラリーマンの集団。
週末の高揚感が涼しい空気に漂っている。
地下鉄の錦通方面入口前のベンチに腰を掛ける。二分前になるのを待って、香衣良に着いたと報告し、位置情報を送る。
それから数分も経たないうちに。
「ごめーん、待ったぁ?」
小走りをしながら香衣良が寄ってくる。
栗色のハイライトが流れるウェーヴの掛かった長い髪が風に靡く。
俺も彼女の方へと進む。駆け寄ってきた香衣良はスタイリッシュなデザインのジャケットを直しながら温かい笑顔を向けてくる。
「全然」
「撮影押しちゃってさぁ。あー焦った」
「仕事おつかれさま。ところでそれ新しいジャケット? すごくよく似合ってる」
「お、さっすがー! 久しぶりにちょっと奮発しちゃった」
笑いながらポーズを取って見せる。
ジャケット下にはオーバーサイズのセーターからラインを魅せるレギンスを履いた長い脚が伸びている。もちろんシックなブーツとコーディネートしたバッグ。
知らなければ誰もがレンズの後ろではなくその先にいるべき女性だと思うだろう。
知り合ったばかりの頃は彼女の容姿や身長に釣り合っていない自分を不安に思ったりもした。特にブーツが大好きな彼女は並んで歩けばどうしても俺より優に高身長になる。
ある意味コンプレックスを抱いていたが、香衣良には自分と同等に他人も魅せる力がある。単純に俺の劣等感を否定するのではなく、色々とアドバイスをして俺自身が十分釣り合っていると認められるように寄り添った。
今はそんなこと、微塵も思わなくなり。ついでにそれなりのファッションセンスも身につけたつもりだ。
「おう。すごく綺麗だ」
「ありがと。そう言う翔一君もなかなかよ?」
「はは、おかげさまかな」
久々に会ってどこか恥ずかしい空気が流れている。
「なんか、久しぶりだね」
「そうだな」
一度その空気を追い払うように香衣良は笑う。そして俺の横に入り込み腕を取る。
「で。どこ行く?」
「この辺りだと、イタリアン、フレンチ、和食、どれが良い?」
「そうね。イタリアンの気分かな」
そう言うと腕を組んで歩き出す。
脳内データから近隣のイタリアンレストランを検索し、完全予約制の店は省く。
公園東側に雰囲気の良い場所があったのを思い出す。料理の質もサービスも申し分なかったと記憶している。
その方向に歩きながら電話を掛け、予約を入れる。
「いつもより手際よくない?」
「まぁ、久しぶりだし。ちょっと格好付け?」
店内は地中海風のインテリアが瑞々しく統一されている。一部の壁やアーチは漆喰の凹凸が残るクリーム色の荒い仕上げになっており、やり過ぎない程度に外国を模している。
しっとりとした空気には洗練された落ち着きがある。ウェイターに案内され窓際の席に座る。
窓の外は紛れもなく日本で、空間が切り取られたような感覚がある。
「すてきな店ね」
「昔クライアントと来たことあってな。料理もうまいし、記憶に残ってた」
あまり得意気になり過ぎないように言う。香衣良は辺りをさりげなく見渡しながら満足な笑みを浮かべている。
彼女は気難しい女性ではない。屋台から高級レストラン、大体どこでも喜んで行くし、どこにでも不思議と馴染む。
彼女が愛するのは雰囲気だった。少し独特な、旅をしているような雰囲気のある場所は特に喜ぶ。
オーダーを通してすぐに白ワインがグラスに注がれる。
アンティパストに選んだホタテのバター焼きサラダとメロンとパルマハムのサラダに合うように頼んだものだ。
乾杯をすると小気味良い音が小さく響く。
しばらく香衣良の近況を聞く。
憧れだった女性写真家と仕事をする機会があったこと。注文が雑で口煩いのでもう絶対に仕事しないと決めた依頼主のこと。気付いたらカナダに越していた旧友のこと。最近ヨガにはまっている母親のこと。
そんな話をしていると、プリモのトマトリゾットとミネストローネが運ばれてきた。
「わ、ヤバい。美味しいこのリゾット」
「食材がとにかく新鮮だよな」
「本当。私もここ覚えとこ。一口食べる?本当に美味しいの」
そう言いながらスプーンの下に片手を添えてこちらに差し出してくる。若干恥ずかしい気もするが腰を浮かして差し出された一匙に顔を寄せる。
しかしそこで動作が固まった。嫌な光景が過ったからだ。
試作中のレシピを味見させるために浩太が同じことをした。もちろん、浩太が俺に向ける気持ちを知る前だ。
思わず身震いしてしまう。香衣良と幾度となくしたことなのに、なぜあいつとの記憶に邪魔されなければならない。
苛立ちを覚える。
それと同時にもっと不快な何か。
「翔一君?」
抵抗する身体を無理やり動かしてスプーンに乗るリゾットを口にする。濃厚な甘酸っぱさを感じるはずが紙の味しかしない。
「ごめん、ちょっと脚攣りそうになった。てか、うわ、マジだ。すげえ美味しい」
適当に見つけた言い訳、空々しい賛辞。
その後のセコンドもドルチェも同じように味がしなかった。それを隠せないほど焦ってはいないが、違和感のような嫌な気分。
熱の影響がないためか、抑え込むことができる。
食後酒になって、ようやく落ち着きを取り戻す。
それは食事中に一つ気付いたことがあるからだ。
香衣良は敢えて俺に踏み込んだ話題を避けている。普段の彼女は話を聞き出すのが得意で俺の話もよく聞いてくれる。
しかしこの前の会話のせいか、今日は敢えて自分の話を中心にしている。気遣いだ。
そもそも俺の調子が悪そうだから気晴らし感覚で会おうと誘ってきたのを思い出す。
無理に訊き出すようなことはせず、俺の気を紛れさせるために、そうしてくれているのだ。
そう思うと気持ちが楽になった。




