3-5
夜の街があらゆる色彩で煌めく。
絶景と呼ぶにはマンションの四階は聊か低すぎるのだろうか。しかし視界を遮るものが然程ない窓からの景色はそれでも美しいと思う。
香衣良の自宅は都心に近い。認知度が上がり始めた頃にほんの少し背伸びをして入居した。
普段使用するスタジオに近く、東山線沿いの立地は移動にこの上なく便利だという理由だった。
容易に想像できる通り、彼女の部屋には数多くの写真が飾られている。殆どが人物を対象としたポートレートである。
多くの視線に囲まれて生活するようで居心地が悪くないのか、と昔は思ったが。香衣良の撮る写真は逆なのだと気付いた。
こちら側から写真の世界側を覗く窓みたいなものなのだ。そんな窓が無数にひとつひとつ異なる情景を映し出している。
それでも全てに一貫性を保っているのはやはり、どの写真にも牧野香衣良という人物の精神世界も映り込んでいるからなのだろう。
前回来た時とは入れ替わった写真を一枚ずつ見ながら思う。
レストランを出て暫くオアシスをぶらついた。
夜の蛍光色が反射するガラスや水がまるで写真のように無音の一瞬を切り取った花火のようで美しかった。
自宅まで送ると「あがってく?」と訊かれ、病み上がりなのもあり、そのつもりは無かったのだが。ワインに浮かされたのだろう。頷いた。
「今日はごちそうさま」
そう言いながら赤ワインのグラスを手渡される。
先程、レストランで俺が無理に奢ったことで少しばかり言い合いになった。香衣良はそういうのをあまり好まない。男性に奢られる、ということをだ。
そのような、女性を特別視する行動から男尊女卑を助長する考えが増殖するのだ。男女平等な社会を築くにはそういった先入観を根本的に変える必要がある。
それが彼女の言い分である。異論はない。それを面倒臭いと思う男もいるだろうが、俺は寧ろそんな理念が確固たる彼女が素敵だと思う。
しかしたかがレストラン代くらいで飛躍し過ぎではないかとも思う。今日は仕事やら風邪やらで色々と振り回してしまった詫びとして招待させてほしいのだ、と説明して差し当たり誤解は解けた。
「いいえ」
一つの失言が二次災害を起こす可能性がある。よく理解している。
短く告げるとグラスを口に運ぶ。
ソファの後ろの壁を堂々と飾る大きな額に目が行く。部屋にあがってからずっと吸い寄せるように存在感を放っていた。
「この写真すごいな。モデルの男、透き通ってるみたいに見える」
それは華奢な外見の若い男性が背中を向けて、無表情な横顔で遠くを眺めている写真だった。
細く幼い体格とは逆になぜか雄健な意思を感じる。その眼や口元は決意のような、安堵のような、絶望とも希望とも捉えられる形をしている。
何とも言えないものを映している。どういう訳か見ていると泣きたくなった。さすが香衣良の作品だ。
「なんか。ずっと背負ってきたものを降ろした解放感? みたいな表情だ」
「……お、さすがは私のファン第一号兼理解者!」
一瞬の間があったように思うが、香衣良は得意そうに俺の隣に並んで写真をとても優しい目で見つめる。
「翔一君も言葉じゃなければ、ちゃんとわかるんだね」
「ん? 悪口? どういう意味?」
困ったように「そうじゃないよ」と彼女は笑った。そして写真に向き直すと酷く悲しそうな表情をした。
「この人ね。死んじゃったんだ」
「え?」
「明一君。泉 明一君。生まれはね、泉 明里ちゃん」
「ん? えっと、え?」
香衣良の言葉が日本語に空似の外国語ではないかと疑うほど意味が分からなかった。
「トランスジェンダーなの。中身は男の子なのに女の子の体に生まれちゃったの」
知識としてはあった。しかし香衣良の言い方に違和感を覚える。
さも必然的であるかのように言うが結局個人の選択ではないのか。歪んだ性癖。同性愛者が同性と一緒になるための言い訳。あるいは現実逃避。
それを不可避であるかのように。責任逃れではないのか。様々なことが脳裏を飛び交う。
そしてその人は死んだと。そう言った。
「ある日ね、SNSにDMが来て。『牧野先生の写真はいつも人の中の綺麗なものを映しています。僕は毎日毎日それに希望をもらって、生きています。本当にありがとうございます』って。びっくりするじゃん? 牧野先生なんて。そんな大層な仕事してないのになぁ、て思って。少し気になったから返事したの」
言葉のひとつひとつに妙な重みを込めている。まるでそれぞれの音を記憶に焼き付けるような作業に思える。
俺はいまだに理解できないでいる。どうしても腹の奥からぞわぞわと不快感がせり上がってくる。
それでも香衣良がまるで独り占めしてしまいたい宝物を惜しみながら分け与えるかのように話すから、最後まで聞くと決める。
「そしたらすごく嬉しそうにDM返してきて。高校でも家でも自分じゃない誰かを演じなきゃいけなくて、息が詰まる、とか。私の写真を見てると少しだけ自由になったみたいな気持ちになれる、とか。もう、とにかくすごい熱量で」
無意識な動作で前髪を耳に掛ける。
「アカウント見るとさ、男の子なのよね。私、全然気付かなくて。思春期って大変よね、とか、私の写真で少しでも楽になれるなら嬉しいな、とか。どうでもいいことを返したと思う」
暫く香衣良が沈黙する。俺の理解が追い付くためにもありがたい。それでも頭を埋め尽くす疑問符は消えないままで。
「その時はそれくらいだったんだけど。少ししてから、彼のアカウントにある書き込みがされてるのを見て。『お前女のくせになに男ぶってんの。キモ過ぎ。変態かよ』みたいな、そんな感じの。そこで初めて気付いてさ。すぐにDMしたの」
その言葉の響きに身体の筋肉が強張る。腹の中の違和感は吐き気に変わる。
「きっとSNSくらいは本当の自分でありたかったんだろうなぁ。でも学校でアカウントがバレて色々脅されたり、虐められたり。だから実際に会ったのよね。本当に色々話したわ。私の言葉で何かが変わるわけでもないけど。明一君はずっと独りで抱えてきたんだなって。少しだけでも私、分かち合えないかなって」
本当の自分って何。抱え込むほどのことなのか。そんなに苦しむほど願望に固執して。くだらない。
「明一君はね。スポーツと理科が得意で。タイプは女優の宮野キコ。ふふ、ちょっとコアよね。音楽も好きで、ベースを習いたくて。ヨーロッパに留学したくて。何回か会って、その度に本当に色々話して。なんか弟ができたみたいでね。ある日、明一君がね。『僕、もう嘘をつくの止める』って泣きながら言ってきて。なんかいつもより目がきらきらしてて。その日にね。撮ったの。この写真」
腕を伸ばして指先で写真を触れた。
「ねぇ、どう見ても男でしょ? これが、本当の明一君。すごく喜んでて。生きてく力が付いたって」
急に香衣良の顔が曇る。
「その一週間後に。明一君、自殺しちゃった」
「え」
体中の血管から血液が引いて行く。悪寒がする。息がしづらい。
「明一君が私のことをご両親に話してたみたいでさ。三か月前にお母さんから連絡が来た。学校で何かあったんだって。詳しくは知らないけど。もう、疲れちゃったんだろうね」
香衣良の顔を見ると、目には今にも零れそうなほどの涙が溜まっている。
「悔しいのがさ。お母さん、知ってたんだって。明一君が男の子なの。ずっと話す勇気がなくて、もっと早く話せばよかったのに、て。どんな人生を選んだとしても、生きてて欲しかった、って。泣いてて。ずっと」
とうとう零れてしまう涙と同時に香衣良の声が震える。
一度ゆっくりと、大事なものを仕舞い込むように瞼を閉じる。
やるせない気持ちをいっぱいに。
「私も。もっと向き合っていれば。死んじゃう前に電話くらいしてくれたのかなぁ、って」
それでも笑顔を一生懸命に保とうとしている。俺は香衣良を強く抱きしめる。
「なんで俺に話してくれなかった」
「翔一君、こういう話、駄目じゃん」
「それは。それは、そうだろ。勝手に背負わなくていいもん背負ってさ。勝手に傷付いて。勝手に挑んで、砕けて。死んで。親の事もお前の事だって。なんも。考えないで。普通じゃないもんを追いかけるって。そうなるじゃん。分かるじゃん。そんなに特別になりたかったのかよ——」
とめどなく流れる言葉。一つどころじゃない失言を俺はしている。分かっている。
香衣良は勢いよく俺を突き放して零れる暴言を止めた。
その顔は煌々《こうこう》とした怒りを孕んでいる。香衣良が大切に思っている人を貶したのは分かっている。しかし抑えられなかった。感情が汚泥のように濁って、何も見えない。
凄まじい形相で俺を睨む彼女は今にも我を忘れて怒鳴り散らそうとしている。
それが一瞬で落ち着いた。驚いて、困惑した表情を見せ、そして何やら悲しげに微笑んだ。
「やっぱり、翔一君は言葉じゃないんだね」
そう言って俺に近寄る。
一瞬平手を食らうと思い、目を閉じて肩を竦める。
しかし、香衣良は両手をそっと俺の頬に当てる。
驚きながら添えられた手を自分の手に取る。
その指先を温かい水滴が伝う。
なぜか俺は泣いている。




