3-6
「翔一君ごめん。ごめんね、こんな話。私。翔一君のこと元気づけようとしてたのに……」
知ってたよ。気にすることないよ。
そう伝えたいのに喉から出る音は言葉にならない。涙が止まらない。
何がこんなに悲しいのかが分からない。終わるにはあまりにも幼すぎる命。残された人達の無念。
いや。もっと利己的で薄汚れたものだ。香衣良が辛いことに気付けなかった無力感。香衣良に相談されなかった情けなさ。
違う。もっともっと身勝手で卑怯な何か。
香衣良の柔らかい腕が首に回される。言葉が出ないので抱き返すのが精一杯。
「写真を見て気付いてくれて。私、嬉しくて……。この子の事ちゃんと知っていて欲しくて。ごめんね、翔一君」
「香衣良の、せいじゃ、ない」
それが限界だった。
当事者の香衣良に慰められているのはなぜだろう。ずっと香衣良が頭を撫でる、子供をあやすかのような優しい手で。
少しずつ嗚咽が収まる。動悸が落ち着く。
しばらくして彼女は俺の顔を覗き込む、彼女もずっと泣いていたのが分かる。
ソファの近くのティッシュボックスから二人分のティッシュを取る。俺は顔や鼻を拭きながら明一という子の写真を呆然と眺める。
今見返すと確かにその身体は女性の曲線を描いている。しかし最初に見た瞬間、間違いなく男だと思った。いや、今見てもそう錯覚してしまう。
その真意は今でも分からない。しかし彼女が、いや、彼がどんな人生を選んだとしても誰かにそれほど傷付けられるのは絶対に間違っている。
それだけは痛いほど分かる。
二人して酷い顔をしてソファに座り込む。無音の時が流れる。
「あのさ、香衣良。この話。してくれてありがとう」
「え?」
「俺は。今でもそういうのよく分からないよ、やっぱり。セクシャリティとか。普通じゃないって思う。でも君がその子と真剣に向き合ったのは分かるし、その子も真剣に悩んでたんだって。だから。君が辛いときに気付いてあげられなくて、ごめん」
「……ありがとう。翔一君に話せて良かった。私自身が必要なことだったのかも」
涙で腫れてしまった目元を軽く指先でなぞる。きっと情けない笑顔だが、できる限りの温もりを込めて香衣良に向ける。
短いキスを交わす。その温もりに身を任せてもう少し深く。香衣良の肩に触れる。
部屋の反対側から何かが落ちる音がする。
ふとそちらに向いても何も見当たらない。不思議に思って香衣良を窺うが、気付かなかったように首を傾げている。
もう一度同じ音がする。同じ方向から。
さすがに怪訝に思い目を凝らして見回す。
テレビの消えた画面の中にその違和感があった。
反射で見える泉明一君の写真。
その写真の左下に染みのようなものが見える。
黒い染み。
よく見るとそれはゆっくりと伸びている。
何度も体験した感覚に襲われる。
恐怖だ。
「か、香衣良……なぁ。あれ、見える?」
テレビ画面から目を離さずに囁くような声で言う。
「ん? え、何?」
黒い染みは手だ。あの鱗に覆われた。
反射の中で額縁を握るように掴んで、反対側にもう一つの手がゆっくりと伸びる。
出ようと、している。
「え、翔一君どうしたの?」
恐る恐る、背後にある実物の写真へと首を回してゆく。
天井をまるごと覆い隠すほどの黒い巨体。
見下ろしている。俺の真上で二つの、焦点の合わないガラスのような黒い眼玉が。俺を覗き込むように。
視界に収まらない大きな口。一瞬で俺を喰ってしまえるほどの。
おおきなクチ。
黒光りする鱗に覆われて、海藻のような物があちこちから垂れて蠢いている。
今にも嘔吐してしまいそうな悪臭が部屋に充満する。
まるで魚の化け物。
大きな口が突然、おぞましい速さで不気味な笑顔の形を取る。
そしてこの世のものとは思えない、歪で低い声がする。
「だ、レぇだ。ヨ。お、ま、あぁエぇ」
「うわぁぁぁ‼」
全身の細胞が戦慄してソファから転げ落ちる。
咄嗟に頭を両腕で庇う。
「翔一君っ⁉」
よく知る香衣良の声が聞こえて起き上がる。
暗い部屋。ベッドの上で俺は汗だくになっている。隣に困惑した表情で俺の肩を支える香衣良がいる。
本当に夢なのか。いまだに腐敗臭が鼻に残っている、あの声の身の毛もよだつ振動も。
慌てて辺りを見回す。
「翔一君、大丈夫よ。悪い夢でも見た?」
身体の芯から震えている。恐怖。あれはなんなんだ。なんであんなもの見なければいけないのだ。
「もう大丈夫だから、ゆっくり息をして」
言われて呼吸が滞っていたことに気付く。突然空気を取り込んだために咽る。
「ずっと、見えるんだ。変な化け物……」
息切れしながら呟く。自分がとんでもないことを言っているようで気まずくなる。
香衣良は何も言わずに俺の髪を撫でる。
全部俺の頭の中にあるのは分かっている。きっとその意味も。それでも神経をすり減らされている感覚だ。
もういなくなって欲しい。
「ごめん。起こして。もう大丈夫だから」
「うん」
感覚が敏感になっていて、今自分が置かれている状況も理解が追い付かない。
先ほど、香衣良と良い雰囲気になった。
しかし何かが脳裏に引っ掛かってそれ以上進むことができなかったのだ。俺を責めることもなく、疲れているのだろうと、それでも泊まらせてもらった。
脳裏に引っ掛かっているもの。俺はそれを知っている。香衣良の話を聞いてからずっとこだまのように頭の中を行ったり来たりしている。
俺は水を取りに台所へ行く。まるで細胞から乾いていたかのように爽やかな潤いが体中の筋肉を和らげる。
寝室に戻ると香衣良はまだ起きていた。
「翔一君。このままだと、本当に身体壊すんじゃない? その。無理に、じゃないけど。少し話してみない?」
無言のままベッドの端に座る。背に香衣良の視線が刺さる。
もう楽になりたい。ずっとこのよく分からない感情を引きずっていける気がしない。
「……、俺さ。……、謝らなきゃいけない奴がいて」
背後で姿勢を直す香衣良の気配がした。先ほどの話を聞いてから。いや、嘘だ。
ずっと心に沈んでいたものに初めて言葉と意味を与える。
「友達、だったんだ」
「うん」
「そいつが、本当は……男が好きなんて。ましてや俺に……」
告白してくるなんて。それを音にする勇気がなかった。
「好きだ、って言われたの?」
何も返せずに僅かに頷く。
言いようのない後ろめたさを感じる。香衣良にだけは話してはいけない、そんな気がする。同時に香衣良以外に話せることでもない。
「わざとじゃなかった、っていうか。でも。俺、あいつに酷いこと言って。そのまま逃げた。香衣良が見た書き込みの奴と、同じで。俺……」
声が震える。彼女にがっかりされる恐れ。それとも俺自身が。
夜の静寂が続く。何も言ってこない香衣良に振り向こうとしたところ、彼女は背中から抱き着いてきた。
薄い布の膜から柔らかい胸の感触が伝わる。それが、なぜか安心感を与えてくる。
「大事な友達なんだね」
過去形にするべきだと思うのだが、そう伝える前に喉に熱いものが込み上げてくるのを感じて堪えることに専念する。
窓の外から泥酔した男の笑い声が聞こえてくる。少しして香衣良が囁く。
「私さ、ずっと分からなかったことがあったの。翔一君の写真。なぜか一度も納得するのを撮れたことないのよね」
あまりに唐突な話に少し呆気に取られる。しかし香衣良は時折このように、彼女にしか見えない景色を俺に見せようとする。
「なんかこう。翔一君がはっきり映らないみたいな。私の目には、しっかり見えているのに。写真を撮るとなぜか上手く切り取れなくて。たぶん、私が明確に分かっていないのが半分で。もう半分はたぶん、翔一君自身が分かっていないから」
「香衣良、何が——」
振り向きながら言い掛けるが香衣良はそっと指で唇に触れ、穏やかな顔で続ける。
「今日ね。なんか初めて見えてきた気がするの。少しだけ、だけどね」
「なんか意味が、ちょっと」
そう言うと静かに笑う。
「うん。そうよね。私も上手く言えない。とにかく、話してくれてありがとう」
「うん?」
「謝れば大丈夫かどうかは分からないけど。謝りたいと思っている翔一君は素敵だと思うよ」
そう言いながらまた強く抱きしめられる。
この人はどうしてこんなに愛することができるのだろう。
自分で実際に認めるより、きっと、遥かに彼女に頼っている。
俺の内には得体の知れないものがあまりにも多く渦巻き、飽和している。
彼女と違って俺はそれらを制御する方法を身につけていないのだと思う。
人は目標を立てて、着実にその方向に進むものだと思ってきた。道中に生じる憂いや躊躇いは結局自分を目標から遠ざけるものだと。自分の弱さから現れるものだと。
今までもずっと無視してきた。
どんなに無視してもこびり付く感情があるとは知らなかった。俺は恐らく自分で思っているほど自分のことを分かってはいないし。思っている以上に他者を理解しようとしているのかもしれない。
少しでも変わらなければならない。自分の中で何かを訴えているものがある。
香衣良に打ち明けたそんな欠片の一つでも、存外、心が楽になった。
何も分からないけれど、一つだけ確信ができた。
俺は、浩太に謝らなければならない。




