4-1
暗い夜にさざめく海の声だけが聞こえてくる店内。時折、家を撫でに来る風に羽目板が軋む。
重い沈黙が続いている。不服と困惑が入り混じった表情を浮かべて澄子は視線を反らしている。
なにが気に入らないのか理解できない。俺もまた眉間に皺を寄せて居心地の悪さに耳を澄ます。
『え、だって。浩ちゃん。この人、男の人だよね?』
『ん? そうだけど?』
『え? いや。え? 好き、って……え?』
そのまま力無く椅子に座り込み、それからこの調子だ。突然の翳りに戸惑い、どうしたのか訊いたが一向に返事がない。
翔一が男であることが澄子の表情を一変させた。そこが問題なのは見当が付く。しかしその理由に至っては不可解でしかない。
一つ思い当たるとすれば、偏見。男に恋した男という事実に不快感を抱いている。そういう考えは世の中に溢れている。
けれど彼女に限ってそんなはずはない。そうであれば、気付いたはず。長年の付き合いの中、きっと数え切れないほどそういう話をした。
くだらない理由で人と人の間に生まれる確執という虚構を俺がどう思っているのか、誰よりもよく知っているはずだ。
一度たりとも誰かを蔑むような言葉を聞いたことなんてない。
「浩ちゃん」
漸く言葉を発した澄子。絞り出したような声、向けられた視線は躊躇うようにこっそりこちらを窺っている。自然と背筋が伸びる。
「それ、本気なの?」
彼女の言葉や表情、声、姿勢から何かを得ようと必死に観察しながら、ゆっくり頷く。澄子の目に動揺が走る。
一度、慎重な瞬きでそれを抑え込むようにして微かに震える声で続ける。
「ねぇ、男の人、だよ?」
「だから、それが何?」
繰り返される質問。その心理が見えなくて苛立ちを覚え、つい語気が強まってしまう。
「だって、そんなの。聞いてない。」
「聞いてないって……いや、ちょっと待て。マジで説明しろって」
「説明してほしいのはこっちよ」
衝動に任せたようにこちらを真っ直ぐ見据える。その目は潤んでいる。
「お、おい。本当なに? どうしたんだよ?」
「だって……」
埒が明かない。
その続きがちっとも来ないのでつい溜息を吐いてしまう。いっそう強い風が店の窓や扉のガラスを震わせる。その音に被せるように澄子が呟く。
「だって。私達……付き合ってたよね?」
「え? いや、そうだけど。それがなん——」
「その時から? その時から男の方が良かったの?」
「……、はぁ? いや、ちょ、え?」
思わぬ角度から向けられた言葉に唖然とする。
「昔からそうで、言えなくて、無理に私と付き合って、浜音に戻ったときほっとした? なんで今まで言わなかったの? なんで今になって、そんなにさらっと言うの? おかしいよ、そんな。なんで分かんないの? 私それどう聞けばいいの? はい、そうですかってならないよ。なるわけないじゃん」
もはや歯止めが効かないかのように次々と支離滅裂に疑問符を連ねる。胸の内を吐き出すに連れ涙が頬を伝う。それは感情的というより生理的なものに近い気がした。
澄子の激高が収まる間に思考を高速で巡らせる。俺が最初に言わなかったのが問題なのか。重々しく言うべきだったのか。
しかし失恋したことはともかく、翔一が男ということのどこにそんな深刻な要素がある。
「私だって浩ちゃんがゲイだって知ってたら——」
小気味良い音を鳴らして腑に落ちた。
正確に言えば、気になる箇所はあるのだが。とりあえず澄子は俺がゲイであることを隠して彼女と付き合っていたことに対して激怒している。
「あのさ。ゲイでもバイでもなんでもいいけど。俺、ちゃんと澄子が好きで付き合ってたぞ」
昔から『好きなタイプは?』という質問に当然のように『好きになった人』と答えていた。
周りでは気障だの、薄っぺらいだの、好き勝手に言われてきた。そんなつもりはなくて、感じた通りに返事しているだけなのに。
この質問には正解があるのだと理解した。そして俺は不正解な答えしか挙げられなかった。
いつからか『優しい雰囲気の人かな』とか、『笑顔が似合う人』とか言うようになった。
正解ではなかった。でも及第点は貰えた。
大した話じゃない。
それ以前に自分は他人とズレていることは知っていた。子供の頃はサッカーも飯事も好きだった。
大人に『男の子はサッカーでしょ』と言われてもピンと来なかった。抑々なぜ一つに定めなくてはならないのか分からなかった。
学校では『親なし浩太』と揶揄われ、近所では可哀想な子だと同情された。
でも爺ちゃんと婆ちゃんは俺の親だし、何も可哀想なことなんて思い当たらなかった。ぼんやり、何か誤解があるんだろうな、と思う程度だった。
それがどういうものだったのか追及することもなく、泰然と構えていたら少しずつ友達もできた。
中学に上がると明確に男女という概念が現れた。
皆、なぜそんなに簡単に適応できるのか不思議で。友人に疑問を投げかけても『おまえ変な奴だな』と言われるだけだった。
ならば、そういうものなんだろうと、深く考えることなくただ他の男子の真似をした。
『ホモ』と言う言葉を初めて耳にしたのは高校。軽蔑の念をたっぷり込めて発せられた単語。
男が男を好きになるのをそう言うのだと。そんなものに名前があるのに驚いた。じゃあ男が女を好きになるのは、と訊いてみたら気まずい空気が流れた。
誰かが適当に『それは普通だろ』と提案した。周りに笑いが広がった。ここにも俺の分からない隔たりがある。
まるで見慣れた魚の名前を覚えることで誰かと知識を共有できるように、皆の共通認識に名前が付いていき、全員が納得する常識ができる。
でも俺はそこに繋がれていない。
そう思って少し調べてみた。
色んな人が色んなことを言って、正直どうでもいいことにしか見えなかった。しかし『そういうものなんだ』と思えるほど幼稚でもなくて。なぜか関係ない人が関係ない別の誰かを決めつけて語ることに強い嫌悪感を抱いた。
偏見、差別、誹謗中傷。人は自分には全く関係のないことをなぜだか熱狂的に貶める。ただの『変な奴』だった俺は、初めて特定ではない誰かに落胆した。
荒れ始めたのもその頃だろうか。
しかし、澄子はずっとそんな俺と一緒に歩んできたのだから。どこかで俺の心情を誰よりも分かってくれていると確信していた。
彼女がこれほど取り乱していることはあまりにも予想外なのだ。
ゲイ。バイ。性的マイノリティ。いまだによく分からない単語で自分を区分するのは気が引けるが、仕方がない。
「本当に女とか男とかそんなに大事なことかよ……」
俺の言葉を吟味しているのか、逆に自らの独白に圧倒されたのか、澄子は呆けたように固まっていた。
どうしても彼女の物言いに引っかかってぼそり、と言い捨てる。俺だって色んな人と関わってきた、繁盛してなくても客商売だ。
感覚のズレている俺ではこの世に価値観の合う人より合わない人の方が圧倒的に多い。今更憂う気持ちはないし、ときに異物のように感じる言葉を聞き流すくらい造作もない。
今まで価値観が合うと思っていた澄子だからこそ、そこに食って掛かってきたことに憤りを感じている。
そんな捨て台詞に我に返ったように澄子が言う。
「違うよ。そういうことじゃなくて」
「いやそういうことだろ。大体なんで昔の俺達と関係あるんだよ。意味分かんねぇよ」
「そんな、なんでもないように言うことじゃないって言ってんの!」
「俺にとってはなんでもないことだ! 分かるだろ? なんで関係ない澄子が熱くなるんだよ⁉」
「関係なくないよ! 浩ちゃんは、私にとって意味あることかそうじゃないかなんて考えてもいないんでしょ⁉ 昔からそうだもん!」
「は?」
いよいよお互いの腹立ちが沸点に達して、声を荒げた。
しかし澄子の非難に拍子抜け、彼女もまた涙を拭いながら落胆したように言う。
「いいよ、もう分からなくて。浩ちゃんは正しいよ。正しいけど違うんだよ。みんな浩ちゃんみたいに真っ直ぐ生きるなんてできないよ。何がなんでも自分を押し通すなんて、できないんだよ。浩ちゃんは。知らないだろうけど。ずっと人の葛藤とか努力をさ。踏みにじってるんだよ。浩ちゃんにとっては当たり前だから。なんでもないみたいに。どうでもいいみたいにさ。でもそんなの、浩ちゃんが決めることじゃないから」
息もほとんど継がずに言い切る。次から次へと頬を伝う涕泣は今度こそ心の奥底から出てきている。
澄子は席を立ち急いで荷物を纏め始める。
「澄子、何してるんだよ」
「私もう帰る。ごめん浩ちゃん、私親友失格ね」
「そんなことねぇよ。なぁ」
頬をセーターの袖で拭きながら出入口に向かう彼女を追って言う。
戸の引手に指を掛け、振り向かずに立ち止まる。表情が見えない。
「浩ちゃんの好きな人。傷ついたの、そういうとこじゃないの?」
「澄子……」
「ほんとごめん。落ち着いたらまた連絡するから」
顔を向けないまま最後は無理して笑っているように聞こえた。
彼女は引き戸を開けて空っぽに見える夜へと飛び出して行った。
後ろから何回か呼んでみるが、振り返らないことくらい分かる。
眉を顰めたまま混乱する頭を叱咤するように掻きむしる。




