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「ほんとうにお世話になりました」
頭を深々と下げて鈴木さんは言う。
遠くからウミネコの嘲笑するような鳴き声が届く。まだ寝ぼけている日差しが自信なさげに注ぐ民宿の玄関前。
「いえいえ。ご利用いただいてありがとうございます。またいつでも来てください」
「それはもう、妻に島崎さんの料理を食べさせたくて。今度一緒に来ます」
「それは楽しみっす。とにかく体には気を付けて」
「はい、島崎さんも」
同じく丁寧に礼を示す。小話をしながら私有地の駐車スペースにある旧型の白いトヨタクラウンまで送り、荷物をトランクに積むのを手伝う。
道中の軽食にと今朝作ったアジフライサンドを渡す。何回も会釈しながら運転席に乗ると鈴木さんは京都へと出発した。
どこかの会社の中堅らしいが、とても腰が低く明るい、いいお客さんだった。
鈴木さんの部屋の清掃を終え、漸く時間ができたので雨樋の修理とついでに掃除も行う。
日本海の潮風に煽られ至るところに錆が目立つ。そろそろ限界だ、取り換えなければ。
作業が終わったのが昼頃だった。
母屋の中庭に面する縁側で多めに揚げたアジと白飯を昼食にする。家の反対側から聞こえてくる海の歌声を聴きながら黙々と箸を進める。
案の定、昨晩は碌に寝ることができず、二日越しの睡眠不足にうららかな日差しは劇薬だ。頭の裏に煩わしい重みを感じる。
食事を終えると、後片付けもせずに仰向けになる。空を点々とする雲の間を縫うように鳥が飛んでいる。
今朝から幾度目かの溜息を吐く。
ああ見えて澄子は容赦しない。
長い付き合いだ、昨日のような言い合いなど珍しくもない。だから気の知れた仲とも言える。しかしさすがに泣かせてしまうとは思わなかった。
やはりあんな事があった上で翔一の話をするべきではなかったか、と反省する。いや、つまるところ怒りの原因は他にある。
人の努力や葛藤を踏みにじっている。澄子はそう言った。
身に覚えがないのだ。誰かの、ましてや澄子の悩みや苦悩を軽んじたことなどあっただろうか。彼女が言うのだからそうなのだろう。
俺はいつだって人の普通を理解するのに苦しんだ。澄子のおかげで少しはマシになれたと思うのだが。
浅学はいつまで経っても克服できないように思えてしまう。そんな欠落を有する俺自身に、翔一を傷付けた原因がある。
そう言われても不思議ではない。きっとそうなんだろう、と思う。
澄子とは高校二年のときに付き合い始めた。
自分と周りとのズレに一番敏感で、卑屈になりつつあった時期だ。
小さい頃からずっと一緒にいた彼女だけは辛抱強く俺に世間の言う『普通』について教えてくれた。
強要することなく、ただ情報として。他人を理解できるように。
最初に告白したのは彼女だった。でもその前から好きという気持ちは俺の中にあって。思春期の多感さもあったのだろう。両想いという事実にあの頃は運命を感じた。
なんでも相談し合える最高の相棒であり、可愛く誰にでも優しい自慢の恋人。
浜音を出るときも、彼女のことだけは後ろ髪を引かれる想いだった。それでも決意したことを伝えると笑顔で見送ってくれた。
京都に辿り着き、ここだと決める頃。澄子も卒業していて、間もなく俺のもとに引っ越してきた。
前々からファッションや美容に興味があったのもあり美容師学校に通い始めた。
楽しくて、満たされた日々だった。お互いに充実感に満ちた毎日を過ごし。夜には二人で住む狭い部屋に帰り。色んな話をしながらご飯を食べて。心地よい温もりの中眠りに就く。
無論、喧嘩することもよくあったが、今はそれさえ微笑ましい記憶だ。
大人になると考え方の違いなんて些細なことになる。いや、正確には目を背ける術を身に付けるのだろう。
皆、自分自身で手一杯になるし、二十代は一気に視野が広がり多様な人間がいるんだと実感する。
俺もその頃、多くの交友関係を繋ぐことができた。自分はおかしいのではない。『自分』というテーマの模範解答ではないかもしれないが、俺なりの解答はちゃんと出しているんだと理解した時期だ。
苦労がなかったわけではない。学費や生活費は親からの仕送りだけでは厳しくバイトに勤しんだし、人間関係のトラブルもあった。
でもきっと、一番なりたい自分に近付けた時期だった。澄子もそうだったと思う。
そんな人生の起点を俺達は共有したのだ。友人から見ても、家族から見ても、なるべくして一緒になった二人。
まさに運命。そう言われていた。
その言葉にはそれなりに翻弄された。俺も。澄子も。
爺ちゃんが倒れて運命は軽々と翻ったからだ。
初めこそ人間関係で悩んでいた澄子もようやく職場に馴染んで、ますます美容師の仕事にやりがいを感じていた。
店のオーナーに腕を褒められ、夢が膨らんでいた。だから澄子は夢を叶えるために京都に残り、俺は婆ちゃんを支えるために浜音に帰ってきた。
俺は遠距離でも澄子のことを想い続ける自信があった。でも澄子は俺より遥かに聡明で。
『そんなの無理だよ。しばらく上手くいっても、きっとどこかで破綻する。浩ちゃんは京都に戻ってこないし、私の夢は浜音じゃ叶えられないから。きっと嫌な別れ方になっちゃう。なら私は今ここでちゃんと、いい思い出を全部抱えたまま、別れたいな』
遅かれ早かれ、別れは初めから必然だったんだと思った。最初から俺は浜音に戻ることを決めていたから。
大粒の涙を流し、嗚咽を堪えながら言う澄子の精一杯の笑顔が今でも忘れられない。
いや、必然ではなく因果だ。俺達のそれまでの決断ひとつひとつが、この結果を生んだのだ。
運命という言葉を嫌うようになった。
必然を装った妄想に人を縛り付ける軛に思えてくる。きっと不安定な未来を確定させることで安心するから。
しかし俺はもうそんなものに振り回されたくないし、誰かをその生贄にするのも嫌だ。
必然など信じない。あるのは因果だ。
自分で決めた行動が何かしらの結果に繋がる。それならば納得はゆく。自分で決めた道なんだ、どんな結果を齎したとて、悔いはない。
矜持みたいな大それたものではない。これは俺なりのただの処世術だ。
かちゃかちゃとした軽快な物音で目を覚ます。
起き上がるのと同時に素早い羽ばたきが耳元を通過する。茶色い羽根先を軽やかに動かして去って行くツグミだ。
きっと出しっぱなしにしていた食器から食べかすを漁っていたのだろう。
腕時計を見ると小一時間寝てしまっていたようだ。
悶々とした気分は晴れないが、少しは頭がすっきりした。前夜あんなことがあったせいか眠りの中まで煩悶を持ち込んでいったようだ。
振り返ればやはり澄子はいつだって寄り添ってくれたのだと身に染みて思う。何に怒ったのかはともかく、乾いた態度をとってしまったことを後悔する。
『澄子、昨日はあんな態度とって悪かった。また話したい』
メッセージの送信ボタンをタップして、後片付けをする。
ずっと昨日の会話を脳内で繰り返し再生している。
責められたこと。
まず、ゲイでありながら彼女と付き合っていたこと。その誤解はたぶん解けた。腑に落ちてはいないけれど。
次に翔一が男であることをなんでもないかのように言ったこと。俺にとってはどうでもいいけど、澄子にとってはどうでもよくない。それを勝手に決めつけた。要するに、彼女からすると俺は、自分の尺度を当てはめたのだ。
言いたいことは分からなくもないが、前もって推し量れるようなことではないし。やはり釈然としない。
それから価値観を押し付けることによって他人の苦労を踏みにじっていると。その因果関係が一番分からない。
それほどに強要しているということなのか。俺はあくまで自分が思う正しさに忠実でありたいだけで。賛同してもらおうとか、同意してもらおうとか思っていない。
皆そうではないのか。己の善悪の了見に基づいて行動しているのではないのか。ならば俺の考えが抑々悪いのか。
そんなの俺が俺であるだけで誰かを傷付けていると言っているようなものだ。
最後に、翔一を傷付けたのはそういうところ。
何があれほどまでに翔一を追い詰めてしまったのか見当が付かないのは事実だ。
無意識のうちに傷付けた。澄子は的を射ているのだろうか。
俺が俺であるだけで、翔一は傷付く?
シンクの中で食器の冷たい陶器音が生まれて消える。
何が悪いなどではないのかもしれない。俺の存在自体、俺の気持ち自体が、翔一を傷付けるのであれば。
そうであれば近付いてはいけない。このままちゃんと諦めなければならない。
浜音に帰って来たあのとき、澄子への『好き』をどうやって諦めたのだろうか。
いや、諦めたのではない。自然と、時間を掛けて違う『好き』になっていったんだ。
別れてから初めて彼女から『彼氏ができたかも』と言われたとき、心から良かったと感じた。
思うところがなかったわけではないが、それでも彼女の幸福を何より願った。
そこで初めて気持ちに整理が付いたことに気付いた。
そういう感情なら、翔一は許してくれるだろうか。
また前みたいに笑ってくだらない話をしながら釣りして。美味い飯食って。ただ波に耳を澄ませて。DMで夜更かしして。結局電話して。
勢いよく頭を左右に振る。憶測でしかないからだ。
俺は理解していない、何も分かっていない。
だからちゃんと考え続けなければならない。




