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空魚  作者: 白雨 梦乃
第二章・浜音(はまのと)
7/69

2-2

 五時半。

 寝不足で体が重い。さざ波の囁きに紛れて囀る鳥もまだ遠慮がちだ。

 『うきぐも』の朝食は大体八時から。それまでに風呂掃除を済ませておきたい。

 文句を言う筋肉を叱咤しながら素早く支度を整え、母屋に向かう。


 掃除を終え朝食の支度をしていると鈴木さんが俺以上に深刻な足取りで起きたのが聞こえてくる。

 厨房に置いてあるラジオから天気予報やニュースが流れる。好きなマンガが映画化されるという話に耳がぴくりと反応する。

 八時丁度に張りのない挨拶をしながら鈴木さんが民宿側から店の小上がりに現れる。厨房から顔を出し挨拶を返す。

 やっぱり昨晩は飲み過ぎたようだ。生気のない表情が虚脱感を漂わせていた。

 朝食はさっぱりした二日酔いメニューを用意した。生姜たっぷりの冷奴、煮物はごんじなます、しじみの汁物、山菜の茶わん蒸し、昨日鈴木さんが釣って来たカマスは塩焼きにした、それに加えて蓮根、人参と椎茸の炊き込みご飯。口直しにすり下ろし林檎と蜜柑のフルーツサラダ。


「食べられそうですか?」


 取り敢えずおしぼりと水を席に運び片手で頭を抱える鈴木さんに尋ねる。


「あー、はい、大丈夫です。ほんますんません、昨日はちょっと盛り上がり過ぎました」

「いえ、こちらこそ。おっちゃん達しつこいでしょ。今、お持ちするんで」


 丁寧に盛り付け、彩りを整えた料理を膳に載せて運ぶ。


「一日快晴みたいっすよ、風も落ち着いてるようで。今日は釣ります?」

「あーはい、一応。あ、でも、午前中は少し休もうかと」

「分かりました、じゃあ一応、昼食の用意はしときますね」

「すんません、よろしくお願いします」


 厨房に戻り昼食の献立を組み立て、下準備に取り掛かる。座敷の方から「うま」と零れてきてつい微笑んでしまう。



 午前のうちに八百屋と魚屋の配達を受け取る。秋には良い食材が多く、料理を考えるのが一層楽しい。

 民宿の方の掃除に取り掛かる。鈴木さんは明日までの滞在、その後三日間は予約がない。少し釣る機会が出来そうだ、と楽観的に捉えるとする。


 一階の窓拭きをしているとスマホの着信音が鳴った。

 一瞬、ほんの僅か鼓動が高鳴る。そんなはずがないと分かっていても、つい期待してしまう。翔一の名前が出てくるのを身構えてしまう。

 確認すると澄子からのメッセージだった。


『今日帰省します。飲むよ!』


 彼女にとっては必要最低限の情報だったのだろう。内心、浜音育ちは他県に行ってもやっぱりこうなるか、と詳細不足のメッセージに吹いた。

 先の期待を誤魔化すように。


 澄子は一歳下の幼馴染で浜音の釣具店の娘だ。爺ちゃんとよく訪れた店で出会い、小学校に上がる前からの数少ない友人。

 幼少期から、釣りに行くにも、学校に行くにも、遊ぶときも、いつも一緒だった。

 今は外で働いているが、たまに帰省しては二人で飲むのが恒例となっている。


『いい日本酒とっとくよ』


 短く返信して作業を再開する。

 澄子は友人の中でも一番気の置けない仲だろう。恐らく誰よりも互いの節目節目を見届けてきた。辛いも楽しいも共にした家族のようなものだ。



 軽めに、という注文を受けていた昼食では揚げ物を避け、旬魚の造り、鶏肉と茸の小鍋に吸物と小鉢を添えた。


 京都時代、俺が見習いをしていた『桜喜亭』は明治創業の日本料理店だ。京都の基準では老舗と呼ぶには聊か幼いが、評判は不動のものと言える。

 俺みたいな田舎者が働くにはもったいないほどの場所だ。結局僅か四年で辞めることになったが、その間、手厳しい指導の賜物と言えるのだろう、確かに成長した実感があった。

 鈴木さんは定期的に奥さんと訪れるそうだ。俺の料理に『桜喜亭』の面影があると賞賛する。見習いをしたと聞いて納得した、と。

 料理人として育てて貰った恩も返せないまま地元に戻った分、居た堪れない。


 俺の実力がどれ程かなど見当も付かない。

 終ぞ『桜喜亭』五代目当主、笹原宇隆ささはらいえたかは俺の料理に頷くことはなかった。四年余りでは無理もない。

 厳格な人だったが俺のことをよく見てくれていた。事情を説明して辞めさせてもらったときも短く、


『自分で決めたことや。行けるとこまで行ったらええ』


 と励まされた。いまだにその心は良く解らない。

 しかし、少しでもあの店の味が俺の料理にあるのだとすれば、それは何にも代え難い薫陶くんとうを授かったということだろう。


 食事を済ませた鈴木さんは大分回復したようで、浮足立って浜へと向かって行った。

 後片付けを終え、民宿の掃除、そして例のボイラーの修理を完了する。幸いすぐに直り、少しだけ時間に余裕ができる。

 雨樋の件を済ませようかとも思ったが、しばし庶務に時間を割くことにする。いつも後回しにしがちだから。

 苦手なのだ。昔から多すぎる文字の羅列にも数字の配列にも混乱しか覚えない。更に突き付けられる民宿の経営危機には頭痛さえ引き起こされる。

 こんな感じであと何年やっていけるのだろうか、とつい頭を抱えてしまう。



 高校を卒業した俺は枷が外れたように気の向くまま怠惰な生活を送った。同じく生きがいも目標もない仲間とのらりくらり遊び回った。

 俺はそれを自由を謳歌しているのだと自分に言い聞かせていた。

 ぼんやりといつか『うきぐも』を継ぐのだろうと考えていた。それ以外の選択肢なんて見えなかったし、必要だとも思っていなかった。

 そんな安全網に胡坐あぐらをかきながら、どこにも行かないのも、他の夢を追わないのも、全部そのせいだと不満だけを仲間に言いふらしていた。


 その頃は婆ちゃんともよく口喧嘩になった。

 婆ちゃんは勤勉な人で、そんな人が俺の漫然とした生活ぶりを許すはずもない。


『そんなだわもんに育てた覚えのぉないざ』

『なまいき言うてんと、やりたい事の一つでも見つけねま』

『自分の人生にもっと責任持たねま』


 顔を合わせれば引っ叩かれていた。

 俺はそれ以上に傷付けるような事をたくさん言った。

 ある日、普段無口な爺ちゃんが鋭い口調で言った。


『浩太、お前少し外の世界見て来い』


 そう言って渡されたのは幾つかの冊子だった。それは全て料理学校のもので、地元や地域のは一つも無かった。

 とうとう見切りを付けられたと思った。厄介払いだ。料理だけが取り柄なのを言い訳に突き放されたのだ、とそう思った。

 俺がいなければ『うきぐも』は誰が継ぐんだよ、と根拠のない威勢を張った。捨てられるのが心底怖くて、それを表に出すのを必死に堪えた結果の、情けない抵抗。

 俺の知る限り爺ちゃんが怒鳴ったのはこの一回切りだ。


『今のお前に継がせるくれぇやったら、この手で潰したるわ‼』


 初めて聞いた怒声に身じろぎした。

 沈黙が続き俺は悔し涙が込み上げるのを耐えた。何もかもぶち壊して遠く、遠くに逃げて行きたい気分だった。

 息を整える爺ちゃんが少しずつ落ち着きを取り戻していくと、深い溜息を吐いて、少し震える声で、とても暖かい声で、続けた。


『お前にはのぉ、浩太。ちゃんと幸せんなって貰わなあかんのやって。それが爺ちゃんと婆ちゃんの夢や。やでも、このままじゃ駄目なんや。お前も分かっとるんやろ。ちゃんと、大人になって来い』


 爺ちゃんの目に涙が浮かんだのを見たのも、この唯一度だった。

 それ以上何も付け加えなかった。婆ちゃんも泣いていた。

 その晩、俺は一睡もできなかったのを覚えている。一晩考えても俺が何者になりたいかなんて、分からなかった。しかし、その日に浜音を離れる決意をした。


 料理学校を決めたわけではなかった。

 冊子の表紙を飾る街の名前はどれも聞き覚えのあるものだが、想像以外のことは何も分からなかった。そしてそんな理想だけの壁にぶち当たって、自分の小ささが浮き彫りになってしまうのが恐ろしかった。

 俺はあまりにも無知だと思った。だから取り敢えず一つ一つ回ってみることにした。

 その決断を祖父母に伝えると婆ちゃんは封筒を渡してきた。

 中には幾許いくばくの額が入っていたが、『旅をするんにゃ足らんやろ、残りは自分で働いて何とかしねま』と言われた。

 爺ちゃんは何も言わなかったが少しだけ誇らしげに見えた。


 決意した日から胸がざわめくのを感じた。

 冒険に出る、そんな不安と期待が入り混じった感情。

 一週間も経たずに俺は浜音を出て、名古屋に向かった。


 日本を点々とする中、日雇いやバイトで生活を繋いた。婆ちゃんはああ言っていたが定期的に仕送りをしてくれた。

 色んな街、色んな人、色んな人生、色んな食材、色んな味と出会い。知れば知るほど料理が好きになった。爺ちゃんは初めから解っていたんだと思う。

 浜音を出て暫くして、京都の料理学校に通い始めた。味だけではなく見た目の洗練さにも拘る料理と、ときに五百年以上の歴史を刻む店の重さに魅了された。俺もこんな店で働きたい、と。

 それでも俺の中にはずっと、浜音の波風が聞こえていた。磯の匂いも、じじばば達のどんちゃん騒ぎも。目を瞑ればまるですぐそこに。手を伸ばせば届きそうなくらい。ずっとそこにあった。


 食は人の生活の中心にある。命を結ぶ更にその先、人を幸せに結ぶことさえできるのだ。笹原師匠の受け売りだが、心に刻んだ教示だ。

 味、感触、彩り、香り、音までも。人の感覚を総合的に捉えた物を料理と呼ぶ。微細なバランスを作り上げ、人の記憶や感情を運んで、呼び起す。

 それが本当の意味での料理人なのだ、と。


 人が飯を食うのを見るのが好きだ。あらゆるものがそのまま顔に映るほど無防備な行為だ。

 嫌いな食材、新しい発見、苦い思い出、甘い恋、辛い失敗、酸っぱい勝利。

 この人は今、何を想って箸を口に運ぶ。どんな人生を背負ってそこにいる。食事というひと時にそれは少しだけ垣間見えるように感じる。

 客に美味しいと言われると俺の料理がこの空間と共にその人の心に刻まれたようで、嬉しい。

 『うきぐも』に来た客のここでの思い出を凝縮した一つの味として心に残してくれるように。そんな想いで厨房に立っている。


 少しだけ成長した俺を爺ちゃんに見せてやることは叶わなかったけど、きっと知ってくれていた。今、俺が『うきぐも』の厨房に胸を張って立つことができるようにしてくれたのは爺ちゃんだから。

 だからこそ、どうにか『うきぐも』を立て直さなきゃならない。弱音は言ってられない。


 書類と睨み合う集中が切れ、久しく思い出に浸ってしまった。

 時計を確認するともうすぐ三時。店の準備をしないと。雨樋は明日に持ち越しだ。

 自分が今踏ん張ってる意味を思い出して気力が湧いた。今晩も思いきり美味い料理を作ろう。


『人を笑顔にする仕事なんだよな。マジでカッコ良いわ』


 響いた翔一の声があまりにも鮮明でつい振り向いてしまった。

 何があってこの話をしたのか覚えていない。でも、俺が自分の変遷を語った後に発した言葉。そのとき確実に意識したのを覚えている。

 あー、俺この人好きなんだ、と。


 振り返った先に誰かがいるわけもない。

 そんな自分が情けなくて調理台を掴みながら勢いよくしゃがみ込む。

 翔一の声はいつだって陽だまりが宿っているみたいに温かかった。何が良くなかったのかいまだに理解できない。


『なあ、俺、翔一が好きだわ』

『……キモ』


 確かに突然だった。確かにそのタイミングではなかった。

 でも何が、あいつの声から一切の温もりをかき消してしまったのか。俺のどの言葉があいつを傷付けた。


「はーーーー」


 深く長い溜息が肺の底から溢れ出る。


「めっずらし。何凹んでんの?」


 突然降ってきた声に驚き、勢いよく振り返ってバランスを失う。その拍子に調理台に打った後頭部を手で庇いながら見上げると。

 厨房の配膳口から顔を覗かせている澄子がいた。

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