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浜音。
気難しい日本海に面した人口二千人にも満たない漁師町。
名産という名産はないし、観光スポットと呼べるような場所もない。けれど山と海に挟まれた町はのどかで、飯は旨い。
国内どこにでもある、酒を飲むのが生き甲斐の爺ちゃん婆ちゃんが多い、寂れた町だ。
特に何もない浜音にはそれでも頻繁に客が訪れる。大概釣り人達。
町は内陸に食い込むような入り江沿いにある。そこは海流の受け皿のようになっていて、魚が多く流れ着く。そして漁業で成り立ってきた町では昔から釣手の釣果を調理してやる風習がある。
あまり知られてはいないし、釣り客以外には特段興味深い話でもない。それでも浜音を一度訪れた人はそれが目当てで再訪することも多い。
海岸線に沿っていくつかの民宿がある。大体が中央通りを軸に連なる。どれも風情のある港町然とした外観。
だが一軒だけ少し離れた防波堤の近くにぽつんと建っている。潮風に甚振られ、ろくに修繕もされていない。遠目には廃墟に思えなくもない傷んだ佇まい。よくよく見れば元は趣のある古民家だったことが窺える。
明らかに建て付けが悪くなっている玄関口の真上にくすんだ板。薄れた筆文字で『民宿うきぐも』とある。祖父母が始めた民宿。そして二年前に俺が継いだ。
こんなボロい宿がこんな田舎町でどうやって営業できているのか、首を傾げる人も多いだろう。実際、経営状況は常に気息奄々と蹌踉めいている。
幸い、民宿とは別に食堂も併設していて、足繁く通ってくれる近所のお得意さんや、自ら客に紹介してくれる同業の好意によって生かされていると言っても過言ではない。
たまに夕方数時間入ってくれているバイトの恵梨香が最近SNSで宣伝してくれているそうだが、ありがたいながらもその効果はあまりない。高校生にそんな物を求める気も抑々ないが。
自分で民宿のアカウントを作ろうかとも思った。だが更新が滞るのは目に見えている。自分のアカウントでさえ停滞状態だし。時間も金も余裕がなければ、更に自分の首を絞めることになる。
それでも、『うきぐも』は俺にとって何よりも大切な場所だ。
小さい頃からここに立ち寄る旅人の話を聞きながら育った。厨房に立つ爺ちゃんの背中に憧れて、どんな客とも仲良く出来る働き者の婆ちゃんを慕って。
平日から飲んだくれるじじばばの宴会場と化す店も。釣って来た魚を食いながら嬉しそうに色んな話をしてくる客も。
そういう些細な温もりを守っていきたいと、そう思ってここを継いだ。
店の暖簾を降ろそうと手を伸ばす。その先で雨樋が拉げて、軸が外れそうになっているのが目に入る。先週の嵐のときだろうか。
また一つ増えた作業が内心圧しかかるようにズンと鈍い音を鳴らす。一つ直せば二つ増える、重なる一方の劣化が解消することなどない。所詮男手一人なのだから。
脳内リストに一つ加えて、それを保存するかのように溜息を吐く。
店内に暖簾を掛け直してカウンター裏の時計に目をやる。十時を回っている。
現在、唯一の宿泊客となぜか集まった近所の漁師のおっちゃん達が大声で談笑している。明日も仕事だというのに豪快に出来上がっている様子だ。
呆れ交じりに口角を上げると、翌日の朝食の準備をしておくか、と厨房の方へと向かう。
「のぉ、浩ちゃん、浩ちゃん。この人、京都から来んさったんやて」
「そりゃ知っとるよ、うちのお客さんやし」
「ほやったのー、ははは。ほんでの、何やったっけの、お前が働いとった」
「桜喜亭な。でもお客さん知らんのじゃない?」
「え、桜喜亭ですか? そりゃもう、知ってますよ。あー、どおりで。いや、成程ね」
漁業組合の会長でもある、矢野のおっちゃんの振りによって更に大きな声で会話が弾む。その隣に『うきぐも』の客である鈴木さんは頷きながら、久しく耳にしていない『桜喜亭』の話をする。
「浩ちゃーん、ビールもう一本持ってきての」
「あかんて。もう店仕舞いや。おっちゃんらもそろそろ帰りねま。明日も早いんやろ? 何かすんませんね鈴木さん。浜音のおっちゃんらは酒飲みで」
念の為差し出した助け舟は軽い手の動きであしらわれ、大丈夫だと言われる。
「それもそうやの。そろそろ帰るかの」
口調から恐らくまだ一時間は居座る気だろうと察する。
頃合いを見て取り敢えずつまみをもう一品出しておく。それから翌日の鈴木さんの朝食の下準備に入る。
ふいに思う事がある。この民宿が無かったらきっともっと寂しい幼少期を過ごしたんだろう。
同年齢の子供はあまりいなかったし、抑々俺と関わろうとする人自体が少なかった。
『うきぐも』があったから俺は、海と、町と、世界と、繋がることができた。そういう場所であって欲しい。ずっと。
子供の頃、この町が狭くて狭くて堪らなかった。
肌や髪に染み込む磯の匂いも、狂暴な冬の海風も、台風に振り回される夏も、車を出さないとどこにも行けない距離も。ここと外の隔たりが分厚くてどうしようもないように思えた。
それが全部嫌いだと言い切れない自分も含めて、窮屈でもどかしくて。店の客の話に登場する都会は華やかで、未来的で。
自分の目で見てみたいと思った。この知り尽くした景色以外に、もっと新しい人たちに、考え方や生き方に、触れてみたいと思った。
旅に出る。そんな言葉が確かに心のどこかで芽生えた。
でも一度離れれば海が恋しくなって、山が懐かしくなって。そして自分はどこにいても同じ自分だった。
あー、やっぱり帰る場所はそこなんだ、と。
数年経って戻って来た浜音は相変わらず狭くて、不便で、更に寂れていて。でも空だけはどこよりも広くて。
潮風を肺いっぱいに掻き込めば、あの時には気付かなかった自由の味がした。
何一つ後悔していない。
全部が全部、俺の人生だと思える。
自信を持って、自分の選んだ道を歩んでいると言える。
その結果が今で。金はない、身寄りもいない、特に野望もない。それでも誰よりも恵まれてると思う。
この町が好きだ。この仕事が好きだ。ここの人達が好きだ。この海も、山も、空も、風も。全部好きだ。
『なあ、俺、翔一が好きだわ』
『……キモ』
蓮根を切る手が止まった。
もう数え切れない程脳裏で反復される、言葉の形をした棘。胸の奥で鈍い痛みが走る。
それでも俺は後悔したくない。後悔すれば自分を否定することになる。咄嗟に零れた言葉の真相も、あいつにあんなことを言わせたのも、全部自分なのだ。
否定するわけにはいかない。
「浩ちゃん、お勘定しての」
厨房に矢野のおっちゃんの声が景気良く響いてくる。
「はいよ」
手を濯いで前掛けで拭きながら表に向かう。そこには睡魔と戦う鈴木さんと最後の挨拶を交わすおっちゃん達がいる。
勘定を済ませ店先まで見送る。覚束ない足取りだが、この人達の場合いつものことだ。
「気ぃ付けてのー!」
店に戻ると鈴木さんは卓に俯して鼾をかいていた。町のおっちゃん達にやられたな、と笑いながら酩酊した鈴木さんを部屋まで連れて行く。一応、水をそばに置いておく。
改めて明日の準備を終えに厨房へと戻る。この時間は嫌いじゃない。海が良く聞こえる、幼い頃からの子守唄。俺だけの海、という感じが心地良い。
朝食の仕込みを済ませ、厨房と店の清掃に移る。
民宿のどこもかしこも見劣りする有様だが、厨房だけは店を継いだ時に思い切って改装した。中古ではあるが一通り揃ったプロの設備。
爺ちゃんに見せてやれなかったことだけが心残り。でも婆ちゃんはまるで自分が厨房に立つかのように喜んでいた。
おおかた作業を片付けると店のカウンター席に腰を掛け、ビールを一杯注ぐ。カウンターの照明以外を落とした暗い店で、一日の褒美を啜りながら翌日の予定を立てる。
風呂掃除、朝食。昼飯の仕込み、は明日確認しなければ。事務、客室の掃除、トイレ掃除、昨日から調子の悪いボイラーの修理。そうだ、雨樋の修理も追加。夜の仕込み。店の開店準備。
二年前に婆ちゃんが死んだとき、民宿はやめて店一本に絞ろうかとも思った。きっとその方が上手く立ち回れたのかもしれない。
でもやっぱり決断することはできなかった。『うきぐも』は婆ちゃん達が精魂込めて作り上げた場所だから。俺を育てた場所だから。今でも、ここは俺にとって自分と外を繋ぐ糸だから。それは最後の手段にしたい。
ノートに書き出した日程に納得すると、ペンを置く。隣の席に目をやる。
僅か半年前、初めて浜音を訪れた翔一がそこに座って、カウンターの反対側には俺がいて。何時間も飲みながら釣りとか魚とか色んな話をして。楽しかった。
温かい記憶に目を細める。
初めて会った気がしなかった。
軽くパーマのかかった髪には明るめのグラデーションカラー。両耳にピアス。手入れの行き届いたアンカースタイルの髭。俺より頭一つ背が低く、釣り人然とした服装はそれでもセンスと実用性を兼ね備えた良質で、どこか品のある容姿と一つの違和感も残さず着こなしていた。
いかにも都会の洒落た少し年上のお兄さん。須田翔一。
本来、あまり縁のあるタイプの人間ではないのかもしれない。それでも——
民宿の案内もそこそこに彼はここで釣れる魚のことを聞いてきた。種類や生態、性格まで。
落ち着いた雰囲気は一転して目を輝かせながら色々と聞き出す姿は幾分幼く見えた。この人、本当に釣りが好きなんだな、と微笑ましい光景。
夕方には大漁の獲物を抱えて戻ってきた。アジ、メバル、サヨリ、チヌ。春の日本海の代表級を爆釣。
それらを用いて振る舞った料理を大袈裟に褒め倒してくれた。意外と明瞭な人だった。その夜も翌日も遅くまでずっと喋った。
気後れするタイプではない。少なくとも表面的な人間関係は得意な方だと思ってる。
それでも翔一ほど話しやすい人と出会うのも珍しかった。まるで同窓の友人かのように中身のない話も、個人的な話も同じ熱量でできた。
帰った後も頻繁に連絡を取り合うようになった。
そうだ。『うきぐも』は俺と翔一をも繋げたのだ。
カウンターの照明を落とし、戸締りを確認する。民宿の廊下を進み、一通り異常がないか見回る。
中庭に出ると十月の涼しい風が肌を撫でる。冬もそう遠くはない、そうなれば客足も一層減る。経済的に深刻な事態だが、少しは建物の修繕に着手する機会が生まれる。来年に向けて民宿の戦略でも編み出す時間もできるかもしれない。
ただし、風の悲鳴しか聞こえなくなる冬はやっぱり苦手ではある。
母屋の向かいにある、離れとは名ばかりの、住めるように一部改築した蔵。
海と山の香りを両方運ぶ夜風にあたりながら自室へと歩く。
扉を閉めようとしたとき、母屋の二階窓が目に入る。
今は空室となっているその部屋は、翔一が泊まったところ。
朝たまたま目が合って笑顔で手を振る彼の姿が浮かぶ。




