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空魚  作者: 白雨 梦乃
第一章・空魚
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1-4

 部屋に帰るなり電気もつけず、鞄や上着を脱ぎ捨ててベッドに仰向けで倒れ込む。

 まだ鼓動が速い、余憤が心臓を小突いている。

 深呼吸を何度か繰り返す。効果、期待値及ばず。

 そこに蠢く感覚が引かない。


 いい加減自分自身の未熟さに嫌気が差す。いい大人がいつまでも柔弱な。

 なぜこれほどの憤激を感じるのだろうか。別に殴られたり、脅されたりしたわけではない。何なら逆だ。

 俺は一般的な社会人だ、誰かに落胆することも、誰かの本性を見誤ることも、ちゃんと経験してきた。これくらいのことでなぜ俺は悶えているのだ。

 榎田のことではない。あいつ。あいつのことだ。


 同じ思考が延々と巡る。疲れた。

 恐らく心の奥底では分かっている。色んな人がいるし、誰がどう生きようと自由だ。もうそこで終わりでいいはずだ。嫌なら関わらなければ、何の支障もない。

 香衣良にも以前言われたことがある。


『一色では世界の奥行なんて表せないの。色んな人間がいて、それが美しいのよ』


 彼女は何より自由を尊重する人だから、限りなく受け入れようとするのだろう。

 俺もそれは分かろうとしている。規律のないところに自由はないとは思っていても。


 最近よく多様性という言葉を耳にする。

 否定はしない。人それぞれには個性があり、それを生かすことができる社会は繁栄する社会だろう。

 ただし、その言葉には明らかに捻じれたものが紛れ込んでいる。

 便利過ぎる社会の産物か。自由と悪癖を混同する時代の変異か。或いは単なるマーケティングか。

 しかし退廃なのだ。

 欲望に駆られて、人間の基準が揺らぐ。そうなれば本能のまま生きる動物と何が違う。いや、本能よりも悪質だ。本当にそんな歪みまで多様性の名目で受け入れるべきなのか。

 香衣良とそういう話で喧嘩したことがあるのを思い出す。


 そういう人が悪とまでは思っていない。納得しようがしなかろうが少なからず存在している事象なわけで、世の中は俺みたいなちっぽけな人間の見解で動くわけではないし、そうだったとしたら、それは酷く危うい世界になるだろう。

 自分が絶対的に正しいなんて思えるほど、自惚れても馬鹿でもない。


 会社にだってそういう人はいる。もとからオープンな社風だから言い出しやすいのだろう。

 性癖を個性と勘違いして、それを自分だと定義して選択をしてしまう。傲慢なのだろうが、ある種の幼稚さに同情を感じているのは否めない。

 しかし、たぶん悪い人ではない。性格は苦手だが仕事はできる方。それこそが個性ではないのか、と思いはするが、決めるのは俺ではない。

 たとえ間違っていても、人の人生をとやかく言う筋合いはないのだ。


 しかしそれは突き詰めれば傍観者としてのスタンスだ。達観していれば彼ら彼女らが互いの世界で好きに生きるのは俺には関係のないことだ。

 だが当事者に仕立て上げられたのであれば、俺の領域を侵食しようとするのであれば、それは別の話になる。普通の人は大概皆そうなのではないだろうか。

 俺には拒む権利があるし、不快に感じることを無理矢理消すことはできない。そうだろう。

 香衣良のような理解ある人はごく稀で、また違う結果を導くことができるのだろう。そういう納得はある。俺にはそれはできなかった。

 俺はあいつを傷付けたのだろうし、俺もあいつに裏切られ、傷付いた。


 それでぐずぐずといつまでも膠着こうちゃくし続けていいのは二十代前半までではなかろうか。そう思っている分、自己嫌悪を避けられない。

 俺は負の感情から抜け出せずにいる。香衣良や榎田まで心配させて。



 暗い部屋の片隅にパックマンの水槽がぼんやりと外の光を受けて青く朧げに発光している。我関せずとばかりに漂う無の表情は俺への当て付けにも思えてくる。

 更に一つ深い溜息を零すと、シャワーを浴びるために余力をかき集める。シャツとズボンを脱ぐと息がしやすくなったように感じる。湯を浴びると少しだけ心にこびりつく脂っこい粘液が洗い流されるように感じる。


「マジ、何やってんだろ……」


 先程の榎田に対する行動を思い返すと、罪悪感が再発する。

 自分自身にも理解が追い付かないのだ、なぜここまで繚乱りょうらんたる渦に呑まれているのか。なぜ切り替えられないのか。それはきっとまだ友情を捨て切れないからなのでは、と心の中で別の声が呟く。

 くだらない、と冷えた声が反論する。



 あいつ。島崎浩太とはそれほど長い付き合いではない。

 半年前に釣りに行った先で知り合った、民宿の主人。主人とはいえ少し年下で、謹直で陽気な好青年、というのが第一印象だった。


 春の海が送り込む新鮮な潮騒か、あるいは釣果ちょうかの具合か、それとも町の雰囲気。まるで中学の夏休みに感じた解放感と似たものが胸を満たした。

 それもあるのだろう。釣りに詳しいあいつと俺はすぐに意気投合した。同僚でもなければ、クライアントでもなく、家族でもない。社会人になってから純粋に新しい友達と呼べるような関係を築いたことがあっただろうか。

 榎田以外は大体学生時代の知り合いだ。そして榎田も、友人と思ってはいるが、どうしても仕事仲間だ。何でも話せるとも限らない。


 あいつはなにか違った。何を気にすることもなくあらゆる話ができた。

 俺は浮かれてしまったのだろう。

 会社とは関係ない、気の合う同年代の釣り仲間。それこそ若かりし頃を反芻するかのように起承転結のない会話を延々と交わした。

 意外とそういう関係に飢えていたのだと気付いた。


 島崎浩太は楽観的な男だった。

 思い付けば行動に移す、『そうしたい』という理由以外に必要なものはなく、自分に忠実であるべきというのが基準である。その分、他人に対してもどこまでも寛容だ。

 その人生観には香衣良に重なるものを感じた。自由なのだ。

 そして俺は恐らくそんなものを追い求める人に尊敬に似た好感を抱くのだ。

 振り回されたとしても、敬いたくなる。また新しい発見だった。


 僅かな時間、直接会うこともあまりない中、それでも瞬く間にあいつと友人として付き合うようになった。

 今となってはその理由さえ説明できない。いや、人との関係を説明するなんて抑々野暮なのだろう。

 香衣良のことや会社のこと、家族のことさえ相談するくらいには、俺はあいつを信頼していた。それは逆も同じだと信じていた。



 しかし。あいつはホモだった。


 それは週末の予定を合わせて行ったキャンプ場で爆弾のように落とされた。

 ショックだった。

 それでも、たぶん俺は受け入れただろう。ああいう形で知ることにならなければ。その対象が俺でなければ。

 確証はないが、俺はホモであるあいつを受け入れることができたのだと思う。


『なあ、俺、翔一が好きだわ————』


 油断していると今でもあの声が蘇る。

 まるでさわら蘊蓄うんちくを語るかのように明るく落ち着いた声だった。

 あの時、体全体が強張った。脳内が真っ白になった。そして次の瞬間、吐いてしまいそうなくらいの気持ち悪さに襲われた。

 嘘だ。何で俺。何でお前。何でそっち同士じゃ駄目なの。いや、嘘だ。冗談だ。友達だと思ってたのに。気持ち悪い。やばい、俺本気で怒ってる。


 そんな言葉が、何度も何度も意識の中を八方に飛び交った。やっとの思いで吐き出せた言葉。


『冗談……?』


 穏やかだった表情が、猫か何かに引っ掻かれたときのように歪んだ。そのときは少し痛くて顔をしかめる程度。後からじくじくと痛覚を刺激される。

 そういう顔。


『……かなり、本気だけど』


 重い空気が晴れた空を拒むかのように圧しかかった。あいつも何か言おうとしている、しかしそれ以上は聞きたくなかった。


『なんで……』


 ただ遮るために発した、無数に浮かぶ言葉の中、適当に一つ掴んで乱雑に投げ込んだものだった。


『……なんで、って……』


 また一つ闇雲に言葉を掴んだ。何でもよかった、あいつの声が聞こえなければ。

 あんなことを言っておいて、普通に話せるとどうして思っているのか分からなかった。それが、途轍もなく気味が悪かった。

 迫り来る脅威に手当たり次第物を投げつけるみたいに。手元にあった言葉を一つ。


『キモ』


 自分で発した言葉なのに別の場所から聞こえて来たかのようだった。自分の声すら認識できなかった。

 その二文字の加害性と残虐性を知らないわけではなかった。これは音にしてはならないやつだ。すぐに理解した。

 しかし限界のように思えたのだ。あいつの顔を見るのが恐ろしくて、あいつが俺に向ける感情が更に恐ろしくて。俺はその場を逃げた。

 それが一か月前の出来事だ。



「キモいの、俺なんだけど」


 誰にも届くはずもない言葉をなおもシャワーの音が掻き消してくれるのを望む。

 そう、こんな些細なことに生活を狂わされている自分が一番、気持ち悪い。


 それでもあいつはDMや電話で連絡してきたが、まともに返事ができる気がしなかった。

 あいつが家まで押しかけて来た時は愕然とした。当然、話を聞くことすら受け入れられず。

 それからなんの連絡もなくなり、元の生活に戻れると思っていた。


 きっと、ちゃんとした大人はこういうとき、


『気持ちは嬉しいけど、ごめん』


 落ち着いた対応ができるのだろう。

 俺にはできなかった。

 友人と信じた人との時間が全て策略ではないかと、嘘ではないかと思うと胸をえぐられる。

 大人になって今更、友情という青臭い感情に浮かれてしまったツケなのかもしれない。その結果、傷つけ、傷つき、いつまでもこうして蹉跌さてつし続けている。

 情けなくて笑えてくる。


 あの時、浩太がどんな顔をしていたのか、とか。

 逃げていく俺がどう映ったのだろう、とか。

 俺は何で一言も謝れなかったのだろう、とか。

 嫌悪感、罪悪感。同時に怒り、恨み。全部が入り混じって、自分が自分ではないかのように体と感情とが切り離されていく。

 一日でも早く全部忘れてしまいたいのだ。

 あの二文字だけでもなかったことに。

 それが駄目なら、もう全部まとめて。



 布団に入るとカレンダーが目に映った。

 金曜には香衣良と会う。彼女なら話を聞いてくれるだろうか。逆に俺に激怒するだろうか。

 また妙な行動を取ってしまうかもしれない。であれば、初めから話してしまった方が良いのでは。

 そんな埒が明かない問答をしながら、意識が遠ざかってゆく。


 明日も繰り返される今日となんら違えない一日。

 七時頃に起きてスマホを確認、つい浩太のアイコンを探してしまう。

 パックマンに餌をやる、つい浩太と水槽を立ち上げたときの記憶が過る。

 適当な朝飯を食う、つい浩太の料理を思い出して、パサパサのパンが一層不味くなる。

 興味のないニュースを読み流す、浩太が好きそうな記事に目が留まり、つい共有しそうになる。

 出勤前に髪型を確認していると思い出す。


 あいつは初めから友人などではなかったのだろうことを。


 長年掛けて出来上がった完璧な波長で進むルーティンに、いつの間にか現れた染み。害毒。

 そう、いずれ薄れる。なんの問題もない。

 耐えればいいだけのこと。



 完全に意識を手放してしまう前に一瞬だけ、酷く悲しげな表情をした浩太が俺の首を絞めながら溺れさせようとする光景が過った。

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