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画面右下に目を落とす。午後十時八分。
開発部の修羅場状態も漸く収まってきた。
七時頃に部署を覗いてみると、案の定、榎田チームが慌ただしくしていた。
別チームのスタッフまで増援に入っていて、どれ程のミスをやらかしたのかと疑問に思った。
一部始終を聞けば、嫌な記憶を彷彿とさせた。
若かりし頃の俺と榎田も似通った事態を引き起こしたことがあった。
所謂、打ち合わせ段階でデザインが採用されて以降、クライアント側は進捗報告に対して沈黙したのだ。
それを肯定と捉えた入社二年目の担当は、チームリーダーに相談することなく、そのまま採用デザインをベースに開発を進めてしまった。
納品間際の現在になって、山のような修正依頼が一度に寄せられたわけだ。抑々《そもそも》のデザイン変更から印刷用の入稿データの手直しまで、プロジェクト全体を指していた。それが昨日。
クライアントとの交渉を試みたが敗北に終わったらしい。
担当である後輩が涙目で詳細を語った。
榎田もまた居た堪れない風にしていた。
それもそうだろう、チームリーダーとしてもっと早い段階で気付き、サポートするのが彼の役目だ。能力を信頼していようと、任せっきりにしたのはリーダーの落ち度である。
そうしてチームと増援総出で突き付けられた項目をひとつひとつ対応していくしかない。
リストに目を通し依頼内容を把握した。中には過去に会社が手掛けたプロジェクトに類似した内容も少なくない。それらをピックアップし、当時使われたコードを応用すれば一部の作業は時短できると考えた。
開発部部長に許可を得たうえで過去のデータを引き出し、AIを用いてそれらに手を加え、榎田と確認しながら更新していく。
「マジ、ファインプレイ」
「お前な、へらへらするなよ。そもそもお前がフォローしてやればこんなことにならなかっただろうが」
「お、おっしゃる通りです。反省してます」
「二年目の後輩に担当任せるとか鬼かよ。パワハラかぁ?」
「いやいやいや、あいつマジで有能な奴なんよ! やる気もあるし、丁度良い案件かなあ、と」
「だったら尚更お前が見てやらなきゃじゃん」
部下の前では言えなかった鬱憤を晴らす。
しかし実のところはこの空気感は嫌いではない。昔を思い出す。何もかもが新しくて、常にミスしないか不安で、とにかく、一心不乱に仕事に打ち込んだ頃。それこそ釣りだって二の次だった。
反省の色をしっかり示していることを見届け、肩を拳で軽くどついてやる。
これで修正内容の六割は一気に進むだろう。同時進行でその他の項目に取り掛かっている別の者も、あと一時間もあればおおかた片付くだろう。
今夜中には修正版をクライアントに送ることができる。チームにそう伝えると、手に取って分かるほどの安堵が一気に広がる。
企画担当の後輩も何度も頭を下げながら全員に謝罪する。宥めるように榎田もまた自分の確認不足を悔いて目を伏せて詫びた。
俺たちが入社二年目の頃にも似たような事があった。その時のチームリーダーは完全に俺達に責任を押し付けた。それが心の底から悔しかったことを今でも覚えている。
彼もまたその記憶が鮮明なのだろう。
十月半ば。過ごしやすい気温になってきた。夜風には本格的に秋の匂いが乗り、その奥には冬の気配さえ感じる。
部下が帰ったのを見計らって、俺たちも会社を出る。
午後十一時三十二分。雨はまだしとしと、と降っている。
「須田、今日はマジでありがとう」
「気にするなって」
「じゃあ、飯でも驕らせて」
「いや、さっき出前食ったじゃん、まだ食うの?」
先程、部長の差し入れで弁当が振る舞われた。別部署の俺までご馳走になったわけである。
「いいじゃん、俺らまだ食い盛りだよ。なら、一杯だけ付き合うのはどう?」
三十二のおっさんが何を言っているのかと笑ってしまう。
一日スーツで肩が凝っているし、一刻も早く家に帰って風呂に入りたい気持ちもある。その反面、なるべく家に帰りたくない自分も確かにいる。
今日はタクシーか、と思いながら仕方なく承諾する。
「それよりお前は大丈夫なのかよ」
道すがら榎田に尋ねる。
「え? 何が?」
「あの様子だと、昨日も遅くまでやってたんじゃねえの?」
「はは、まあそうだな。でも納品間に合いそうで良かった~。だから、な。この危機を乗り越えた祝いに一杯」
そう悪びれもなく宣言する榎田。
「最近釣った?」
「んー。しばらく行けてないな」
「お前案件抱え過ぎだもんなー」
社会人になってからあまり趣味の被る同年代と出会ってこなかった。そう考えると榎田は割と貴重な存在なのだろう。
頻繁に、でもないが週末一緒に釣りに行ったりする。気に入った場所に何度も通いがちな俺とは逆に、榎田は常に新しいスポットを探している。
彼が勧める場所はだいたい当たりだ。釣りだけではなく、宿泊や食事などの利便性も含め総合的に見ている。
そう言えば、あそこに行ったのも元を辿れば榎田の紹介だった。
また望まぬ方向に思考が向かおうとしている。話題を変える。
平日の夜であるにも関わらず店は混み合っていた。また別の呼吸。夜の街の賑やかな呼吸だ。
「乾杯~!」
「お疲れさん」
運ばれてきたビールジョッキがぶつかり合う。その音は周りの雑音に飲み込まれる。
人の密度が高いのに、一人一人の間に音のクッションが存在するみたいな、見えない幕に包まれているようだ。
榎田は勝手に反省会を始めた。きっと飲みたいと言い出したのは、俺に礼をしたい気持ちと、俺に相談したい気持ちの半々だったのだろうと思う。
「参ったわ。担当任せた初プロジェクトだし。あいつに嫌な想いさせちまったなあ」
「まあ、そうだよな」
「あー、どうしよう。これであいつ、引き摺って仕事に支障とか出たら俺のせいじゃん」
「抱え込むタイプか?」
「いや。まあ。そうでもないと思ってたけど。あいつのあんな顔見たことないし」
「そっか」
「あ゙ー!マッジでっ」
落ち着いたかと思えば手で頭を掻き回すように喚いている。
同じチームリーダーとして共感しかない。人材を育成するのも、そう年が離れているわけでもない奴らを纏めるのも楽ではない。
下手を打てば自らの手で潰してしまいかねないのだ。いつだって負荷と緩和との駆け引きである。
「ま、でもさ。その後の対応は全身全霊でサポートしてたし、チームも一丸って感じだったじゃん。部長まで気遣ってくれてさ。お前だって謝った訳だし。そういうの後々力になったりするもんじゃね。俺らの時よりよっぽどマシだって」
「あー、丹羽リーダーな。俺も思ったわ。あのクソ上司、今でもムカつく。てか、絶対ああいう先輩にはなりたくねえわ」
昔の上司の悪口を言っているうちに癇癪は収まったらしい。
「いやあ、それにしても良かったわ。お前、普段通りでさ」
「はあ? 何だ急に?」
仕切り直すかのように背凭れに身を預けた榎田が言う。
「んー。最近ちょっと変だったしさ。なんかあったのかな、って」
酒で温まった血液が一気に冷えた感覚があった。彼まで何か勘付いていたとは思いも寄らなかった。
どれほど自分の内を垂れ流して生きているのかと思うと身の毛がよだつ。普通にしているつもり。家のドアを閉めてそこに閉じ込めてあると勝手に想像していた。
「なんつーか。ひとりの時に見かけてさ、挨拶しようと思ったんだけど、何かこう、全然そういう感じじゃなかったっつーか。思い詰めてる、みたいな? それが何度かあって。なんか悩んでるなーって思ってはいたんだけど、仕事のことじゃないっぽいし。あまり会社で聞くのもアレだしさ」
躊躇していたわりには無遠慮に言葉が重なる。
きっと話そうか話すまいかとずっと考えていたのだろう。一度切り出したら止められなくなっている。
どういう顔で何て言えばいいのか分からず、榎田の言葉もろくに聞かずに必死で言い訳を考える。幸い、それは向こうから届いた。
「——で、香衣良ちゃん絡みだったら俺がとやかく言うのも違うしなあ、って」
「そ、そっか。心配かけて悪かったな。香衣良と、って言うか。なんか、お互い仕事忙しくてあまり会えてなくてさ。若干、萎えてた、かも」
この塩梅でいいのだろうか。少し弱いだろうか。
榎田が何をどう捉えたのか分からない以上、俺の言葉が釣り合っている確信が持てなかった。
「あ、やっぱそうだった? そっかあ」
彼が納得するのを確認して自分も一旦胸を撫で下ろす。それ以上何も言わないことに彼は慌てて付け足す。
「あ、ごめんな? ズケズケ聞いちゃってさ」
「いや。こっちこそ、心配させたみたいで」
いまだに手の汗が引かず、上手く話せない。
榎田は濁った空気を換える勢いで快活な態度で流れを転向させる。
その流れにありがたく肖る。
「てか贅沢な悩みだな、おい。それであんな顔してたの? ラブラブかよ」
「うっせえな」
「俺なんか独身歴二年になるぞ、記録更新中だよ。絶賛募集中だよ。あんな美人と付き合ってるだけでも弱音吐く権利はないね」
明るく憎まれ口を叩かれる。
付き合っているのかもよく分からないが、その情報を出したとて処理できる自信がないので聞き流す。
まるで本来の自分を引っ張り出してくれるようで、今回ばかりは榎田のおちゃらけた性格に感謝する。
「あ、なぁなぁ、今度また釣り行こうぜ。めっちゃ良さそうな所発見した」
「いいね。どこ?」
会話がどうにも入ってこない。しかし、表情は作れていると思う。
平静を装うが内側にはどろどろしたものが煮え立っている。榎田に全く非はないのだが、居心地が悪い。
「なー、家に泊ってってもいいんだぞ。誘ったの俺だし」
「だから大丈夫だって。着替えたいし。今日はありがとな」
早々にこの場を完結したいのだが、酒が入った榎田は妙に押しが強くなる。
「えー? 俺の服貸すし。タクシーもったいないじゃあん」
口調が三十男には似合わない子どものそれになっている。店の前で唇を尖らせて拗ねる様子まで子どもだ。
「まだ一時だし、飲み直そうぜー」
正直、面倒臭い。
飲みの帰りに会社徒歩圏内にある榎田の家に上がり込むなんて、今までに幾度となくあった。しかし今回はそういうわけにもいかない。
理由は分からないが俺の中の泥濘が全力で拒否している。
ただ帰りたい。帰って、シャワー浴びて、着替えて、もう何もかも忘れて寝てしまいたい。
「いや、平日だろ。お前も疲れてんだからさっさと寝ろよ」
そんな焦燥感に煽られて自分でも少しずつ語気が強くなっていくのが分かる。しかしそんな機微に気付くには榎田はあまりにも酔っている。
「久々に飲んだんだし、良いじゃあん。俺らまだ若さ真っ只中だぞ。じじくさいぞ~」
更にふざけながら俺に抱き着く真似をする。
衝動的だった。
その感触に全身の皮膚という皮膚に悪寒が走った。
俺は、勢いよく榎田を押し返した。
「須田?」
数歩後退り、危うく転びそうになった榎田は不自然な体制のまま固まって、目を丸くしていた。一気に酔いが冷めたようだった。
咄嗟に何もなかったかのように、できる限り普通の呆れた笑顔を作り、声の落ち着きを探す。
俺の行動の荒々しさに対して釣り合わないことは明白だ。
「あ、いや。わりい。てか、飲み過ぎだってマジで」
卑怯だ。
俺は彼の酔態に擦り付けようとしている。しかしこの空気をなんとかするには他の手が思い当たらない。
「あ、あはは。ごめんごめん……何か、疲れのせいか、大分早く回ったかも。そうだな、今日はもうお開きにするか」
姿勢を直して、戸惑うように応える榎田に心底申し訳なくなる。
余白を読み取り、暗黙の了解に従い、悪役を演じて貰っている。それは双方にとってあくまで虚飾であることは自明で。その場を丸く収めるための黙約された茶番。
しかも一方的に強要したものでもある。
きっとちゃんと謝らねばならない。しかし今、その余裕は無い。
「ん。でも本当ありがと。久しぶりに楽しかったわ」
「お、おう。そうだ。じゃあせめてタクシー代俺に出させて」
「だから気にするなって。十分驕って貰ったよ」
一刻も早くこの場を立ち去りたい気持ちが急いてまた声に出てしまわないよう祈る。財布を取り出しかけていた榎田は手を止めた。
「そう、か」
「おう。じゃ、また明日な」
そう言って片手を挙げて再びお礼を伝えながらタクシー乗り場へと向かう。
背後で釈然としない榎田が突っ立って見送っていることに意識を回さないように。
逃げるように、その場を去った。




