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より深く、より重たく。
都心に向かうにつれて街の呼吸が少しずつ巨大な物のそれに膨らんでいく。
空も先ほどより低く感じる。
会社のエントランスホールに入ると、自動ドアの開閉に合わせて街が寄ったり、離れたりする。そこにはまた違った呼吸がある。
入念に磨かれた白いタイルに、いくつもの靴底が透き通った反響を生んでいる。手前のカウンターでは早くも電話を捌いている受付担当者。観葉植物が彩るカフェスペースには業務前の補給をする女性。立ち居振る舞いから察するに、何かしらのミスを謝罪している、支柱近くで通話している男性。
街の雑多な空気とは異なり、ここのは職務という堅実で洗練されたものに統制されている。
用意された流れに促されるまま俺もまた足をエレベーターへと運ぶ。
「よ」
後ろから聞き慣れた少し大きめの声がする。
「おう」
顔だけ少し向けるようにして短く答える。榎田塁は同期の社員で、恐らく一番気の合う奴だ。
「はは。ダルそうだな」
「お前は相変わらず元気だな」
「それが売りなもんでねえ」
エレベーター前で別会社の社員と待ちながら中身のない挨拶。
何が気になったのか榎田はセンターパートの前髪を指先で整えている。無意識に口が半開きになっている姿が滑稽で、つい笑ってしまう。
「え、何?」
「いやいや。それよりお前、今日は外回り無しか」
榎田の格好を見て尋ねる。
『株式会社Alt-Space』、通称オルテスの社内規定は基本的にかなりラフだ。クリエイター業だからか、ピアスやタトゥーを入れている社員も少なくない。
かく言う自分もクライアントとの打ち合わせさえなければもう少し楽な格好をしてきただろう。
ビルの他の会社員のスーツ姿の中、オルテスの社員だけはすぐに見分けが付く。そんな光景に今更誰も驚くことはない整然とした空間に、榎田の赤いパーカーだけがやけに浮かび上がる。
「だな。て言うか、あれ、カフェのブランディング案件あるだろ?」
「おう、駅前のやつ?」
「そうそう。それで、昨日後輩がちょっとやらかしてな。期日やばいんだよ」
これは営業部もお怒りだろうなと思いながら、恐らくチームリーダーである榎田も今夜は残業だろうと察する。
話が終わっていない空気を出している榎田。大体言いたいことは予想できる。
「そりゃ、ご愁傷様」
「なぁ、ちょっと手貸し——」
「いや、こっちの業務があるから。甘えんな」
手を合わせて頭を下げ始めた榎田を呆れたように遮る。
今でこそ企画部でチームリーダーをしているが、三年前までは俺も榎田と同じ開発部でウェブサイトやアプリなどを作っていた。
部署を変えて昇進はしたが、両部のパイプとしていいように使われている気もしないでもない。嫌ではない、寧ろ作る側は好きだし、榎田との仕事は昔からスムーズに運ぶし、忙しくするのでさえ今は割と歓迎だ。
内心、今晩まだ大変そうであれば手を貸そうと思ったが、とりあえず口には出さないでおく。
エレベーターが潤いのある到着音と共に開き、待機していた人の塊は中へと潜り込んで行く。
ぶつからないように注意を払いながら会社名を掲げるプレート横の四階ボタンを押す。
到着すると先に事務所のロックにバッジをかざそうと榎田が足早に進む。しかし、一瞬動きが止まったかと思うと、バッジを宙に掲げたままこちらに視線を寄越す。
「あのさ、須田」
「ん?」
少し首を傾けて続きを待つ。
ほんの僅か、考える素振りを見せた榎田は結局改めるように笑顔を向けた。
「あー、いやいや。何でもない」
「は? 何、気になるじゃん」
「いや、いいんだ。また今度な。ほんじゃ今日も一日〜ファイッ!」
開いたスライドドアを抜け、これ以上は話すまいと、挨拶をしながら開発部へと向かった。
脳内に靄付く感覚だけ残された俺はさぞ不思議そうな顔で突っ立っているのだろう。隣をすり抜けていく後輩が「おはようございますー」と遠慮気味に会釈する。
午前のチームブリーフを終え、後輩を軽くあしらい、クライアントの訪問へと向かう準備をしている頃に雨が降り始めた。今朝調べた予報より二時間早い。
小降りだが、やはり少し気が滅入る。
「あ、マジかよ」
傘を持たずに家を出た事に気付き、誰もいないミーティングルームで舌打ちが響く。
仕方なく会社にずっと放置されていた所有者不明の傘から一本拝借してビルを後にする。
雨が降ると街は少し静かになる。空中に浮いていた雑音が水滴に溶けていく。しかし、きっと傘に滴る雨音にまだ紛れているのだと思う。
会議は円滑に進み、午後には企画案を送る目途が立った。
市内の企業が新しい商品を出すにあたって、その広報企画制作にオルテスを指名したのだ。以前から定期的に案件を貰っているため、段取りも方向性も知り慣れた仲で非常に仕事がしやすい。
うちのような中小企業にとっては大きめのクライアントであるのだが、信頼を置いて頂けるのは有難い限りだ。
打ち合わせ中、広告撮影の話をしていると、ある名前が出てきた。写真家の牧野香衣良だ。
会社に戻った俺は道すがらコンビニで買った弁当を摘みながら、画面の企画書をミーティングの内容と照らし合わせ、加筆修正を施す。
ひと段落着いたところで時間を確認し、そのままスマホから香衣良の連絡先を選択する。
「びっくりした、今、丁度メッセージ送ってたとこ」
呼び出し音が二回鳴ることもなく、気さくで明るい声が耳に届く。
「はは、マジか」
「マジ」
「今、電話大丈夫?」
「じゃなきゃ出ないよ。元気? 何か声聞くのしばらくぶりだね」
「だな。まあ、新企画が五件ほど同時進行です」
「うわ、やばいね」
「やばい。でも今の所スムーズかな。納期は、考えたくもないけど。そっちは?」
「お陰様でー」
「そっか。良かった。あ、そう言えば見たわ、安藤裕也のインタビュー。表紙まで獲れたんだな。すげえ良い感じだった」
「ありがと! めっちゃイケメンだったわよ。安藤裕也」
「あ、そうですかー」
「あはは、棒読み。嫉妬可愛いー」
「してねえし。てか、そうだ、案件の相談がございまして」
「え、なんだぁ、仕事の電話?」
拗ねるような声だが笑っているのが分かる。
俺は先の案件の詳細を掻い摘んで伝え始める。
香衣良とは五年ほどの付き合いだろうか。
元々オルテスが頻繁に利用するスタジオのアシスタントだった彼女と出会ったのは、やはり撮影現場だった。なぜだかすぐに打ち解けてその後も顔を合わせるたびに仲が深まっていった。
先輩にも物怖じしない負けん気に痺れた。誰も見ていなくても手を抜かない信念も。アクティブさや柔軟な思考が具現化したような凛とした美しさも。俺とは異なる色々な側面、それでも似通った価値観やノリが心地よかった。
気付けば大切と思える存在で、時折飲みに行くうち、友情以上の関係になった。
牧野香衣良には才能がある。
彼女の切り撮る瞬間はいつでも躍動感が滲み出ている。
まるで一枚の画像から何かが飛び出したくて堪らないような。何かが叫びだして、歌って、踊りだしたくて仕方ないような。
被写体が人物であれ何であれ、ビビッドで脈々としている。縛られることを許さない意思が写真一枚一枚に込められている。
二年前に独立した彼女が世間に認められるのは俺にとっては必然だった。
彼女を無理やり留めることはできない。
だから結局、俺と香衣良が付き合っているのか、今は言い切れないところがある。
互いの気持ちに疑念があるわけではない。ただ彼女の内はいつだって自由を渇望しているように思うのだ。
そんな彼女を好きになったから、閉じ込めてしまうのが恐ろしいのかもしれない。
「うん。期日も大丈夫そう。それに翔一君の紹介とあらばね」
「いつも感謝してます!」
「そうだろう、そうだろう」
暫く他愛ない会話を交わした。ずっとメッセージで連絡していたから、このように話すのは二週間ぶりだろうか。いや、その時は彼女の方が忙しくて結局あまり話せなかったか。
「ねえ、翔一君、何かあった?」
突然の問いに心臓が一拍飛ぶ。
今、普通に話していたのではないだろうか。なぜ突然そんな事を聞いてくるのか不明だ。
「え? いや、ん? 何かって?」
「何て言うか、この前も思ったんだけど。声が、何か。調子悪そうっていうか」
不本意だ。ちゃんと振る舞えていると思っていた。浅はかにも。ましてや無意識で零れるものなど、回避の手立ては無いのではないか。
触れられたくないところを触れられ、嫌な汗が滲む。香衣良の鋭い眼差しが通話先から感じ取れる。
手探りで通常の自分を引き戻そうとする。
「んー。なんだろ。疲れてんのかな」
「そう? あんまり無理しちゃ駄目よ。釣りは? 行けてる?」
「いや、最後は一か月前だったかな」
「え、そんなに? 一か月って。本当に何かあった?」
心配とも疑惑とも捉えられる含みを感じた。
通話で良かったと思う。目の前であの視線を受けていたら目を逸らしていただろう。
俺が釣り好きなのをよく知る香衣良が不審に思うのも無理はない。どんなに忙しくても釣りの時間だけは死守してきたのだから。市内の河川敷で一時間足らずだったとしても釣るのが須田翔一のはずだ。
それを一か月も放置しているのは、確かにらしくないと言わざるを得ない。乾いた笑いしか喉を通らない。
「じゃさ。飲み行こう」
「いきなりだな。え、今日?」
今、彼女と直接会うのは少し不安だ。
それに、開発部で右往左往している榎田が浮かぶ。
同時に香衣良に会えば少し楽になるような気もする、何かが吹っ切れるような。
優柔不断にしていると彼女は続けた。
「じゃなくて、週末。金曜とか? さっきそのことで連絡しようとしてたの」
「あ、ああ。なるほど、うん。金曜大丈夫、俺も会いたい」
声の確信が薄かっただろうか。また、勘付かれるだろうか。
少し後ろめたいが、嘘でもないのだと自分に言い聞かせる。
「じゃあ、また時間とかは連絡しよ」
「了解。俺も、そろそろ仕事に戻るわ。あまり無理するなよ」
「だからこっちの台詞」
クスっと笑いが漏れて通話は切れた。
妙に疲れが出た。
椅子の背凭れに深く身を預け、右手で目を覆う。一つ深呼吸をして考えを切り替える。
効果、期待値内。




