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空魚  作者: 白雨 梦乃
第一章・空魚
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1-1

 昔からそんな夢を度々見る。

 目を覚ますと決まって形容しがたい感情が胸につっかえている。

 虚しいとも、悲しいとも言えない、そこにぽっかりと穴が開いているような、何も感じなくて、それでいて全てを感じてしまう、そんな何とも言えない感情だ。

 心を支配してしまうほどの耐えられない感覚ではない。

 例えば、釣り場で風向きが変わり、キャストを飛ばせなくなる。その上で予報外の雨。

 そんな、どうしようもないけど邪魔くさい、鬱陶しい感覚に近い。


 朦朧とする意識の中、俺はとても機械的に深い呼吸をひとつ流し込む。

 それを何度か繰り返すとその不快感は次第に薄れてゆく。

 風が収まり、雨が上がる。

 まっすぐ気持ちよくキャストが飛ぶように、心臓の鼓動が聞こえてくる。

 呼吸に合わせて体を巡る血管に血液が行き渡るのを感じる。

 目がカーテンの隙間から覗く朝光ちょうこうを捉える。脳が現実へと引き戻される。


 そうして始まる一日は他の一日と何一つ違えない。

 だからいつも忘れてしまうのだ。

 愚鈍で哀れな魚のことも、急に変わった風向きのことも。

 それらの意味するところも。

 忘れるようにしてしまう流れをずっと前から確立している。

 ルーティン。疑問ひとつ覚えなくなった。


 枕元に充電しながら置いていたスマホの時間を確認する。

 午前六時五十五分。

 五分後に喚きだすアラームを解除しておく。

 通知が二つ入っていたのでぼやける視界の深度調整を試みながら確認する。

 前日送ったDMに対する返信だった。友人ひとり。同僚ひとり。

 嫌がる筋肉と交渉しながら毛布をのそりと退ける。

 ベッドの端に座り、重い頭が少し軽くなるのを待つ。

 ならないので諦めて立ち上がり、伸びをしながらカーテンを開けに行く。

 天候の様子を欠伸あくび交じりに確認する。

 曇天。


 冷蔵庫から水のボトルを直接一口飲む。

 トイレ。歯磨き。洗顔。髭剃り。鼻毛処理。美容液。着替え。

 パックマンの餌やり。


「おはよ。おー、今日も元気だな。たくさん食べろー」


 水槽にごみが見えたので軽く取り除く。

 台所に向かいコーヒーを淹れながら適当な食料を漁る。

 パサパサになりかけのパン一切れ、昨日出しっぱなしにしていたコンビニの総菜の残り、ギリセーフなバナナ。

 朝食判定。


「いただきます」


 調理台に腰を掛けてコーヒーを飲む。

 片手であたかも興味があるかのようにニュースを読み流す。

 某ネットサービスの株価上昇、大手企業の合併の可能性、AI法案で再討論、海外の選挙、海外の戦争、隣町で火災、世界最年長百二十四歳の麻子さん、あの超人気マンガがついに映画化。

 目まぐるしい世界の情報をなぜ、頭の稼働率が低いこの時間に摂取しているのだろう、と自嘲気味にため息を吐いてスマホをポケットに仕舞う。

 目を瞑り、眉間をしかめ、首を左右にストレッチしながら気合を入れてみる。効果、期待値以下。


 午前七時三十四分。

 洗面所で髪型もろもろ確認。

 鞄、鍵、財布、社員バッジ。持った。

 靴、ドア。


「いってきます」


 誰にも向けていない、誰からの返答もない言葉。ルーティン。

 いつからか染みついた平日の朝のテンプレ。

 小さな部屋で繰り返される当たり前の動作に当たり前の光景。

 何一つ疑問を覚えることはない。覚える必要がない。

 他の一日と何一つ違えない一日が今日も始まる。



 潔癖と言うわけではない。

 そういった習慣に特段拘る性格だとは思わない。

 寝坊することもあれば、水を買い忘れていたり、ニュースを読む自分が馬鹿らしくなることも、突然のハプニングが起こることだってある。

 一週間前なんか隣の笠貫さんが洪水になってしまって、慌ててノックしてきた。

 そういったものに微塵も抵抗などない。

 多少崩れたとしても、問題はない。

 それでも俺が俺である以上、俺の生活を送る以上、これらはずっと繰り返されてきた。今までと何一つ違えない。


 幼い頃は一日がまるで一週間かのように長く感じた。

 幾つかの理由があるとどこかで読んだ。

 新しい体験に満ちた日常は脳が処理する情報の多さによって一つの時間により『詰まった』記憶を残すから。または、人生の比率が違えば、同じ時間でも割合に応じて大きく感じたり、小さく感じたりするから。代謝のせい、時間への意識のせい。

 色々あったように思う。いずれにせよ俺のこの省略、簡略化した生活は得策ではないのだろう。


 しかし新しい体験が減ってゆく度に増えていった義務やら責任。

 有限の二十四時間でこさなければならない最低限のタスクは増加する一方。

 無垢で気楽な若かりし頃のように意識を無限に拡げてゆくにはとてもじゃないが無理がある。

 有り余る時間と足りない知識、対し減りゆく時間と増えゆく責務。

 人間は機能的にどこか矛盾していると感じなくもない。

 だからこそ、人は自動化を身につける。

 ルーティンを作る。

 大人というよく分からない生物の処世術の一つだ。


 『自分』という存在を見定めるためにあらゆる方向へと自我を張り巡らせる、可能性を問いただす。それが人生の第一段階だとすれば。

 無数の選択肢の中、選んだ糸の先にある『自分』が定着してゆく。その上でベストな生活を築いていくことが第二段階である。

 今更、時間を長く感じてどうするのだ。そんな必要はない。その段階はもう過ぎたのだから。問題ない。

 不便も不満も特にない、ありふれた平穏な日常。

 人生の第二段階を、俺はちゃんとやれていると思う。


 そこにさりげなく、波紋のように音も無く、広がる染み。

 気付いたときには既に遅かった。平穏を乱し、日常を侵食する。

 黒い染みはまるで無害のように現れて結局俺を染めようとする。


 変化こそが悪だと考えている訳ではない。

 それは紛れもなく時間が進むということ、成長の機会が訪れるということ。

 恐れるべきではない、そう自身の経験で学んだ。

 時が進むことと普遍的であることは両立しない。

 この世界の理である流動性を如何に味方に付けるかが要である。

 変化の本質を測り、害あるものはなす。そうでないものは捕まえ血肉にする。

 より確固たる自分へ、より確実な未来へと繋げる。

 そう振る舞える自分にそれなりの自信すらある。


 しかしこの染みは変化ではない、毒だ。

 根本的に取り込んではならないものだ。

 若ければどうにでもなるのかもしれない。

 自身の輪郭が不明瞭なうちは柔軟性が有り余っている。

 有意義であろうとなかろうと、取り込もうと思えば様々な形でできてしまう。

 未熟で無知、本質を読み取る力が備わっていないから。

 それはとても恐ろしい人生の陥穽かんせいだと思う。

 経験を積めばわかってくる。

 大人はそういった変化に巡り合う時、距離を置く。自分を脅かすものとして排除する。


 俺は見誤ってしまったのだ。

 その毒に初めから関わるべきではなかった。

 日常の何気ない空間にそれが染み込むことはなかった。


 大したことないように思えるだろう。

 そんな、大したことないものが俺のルーティンに混入するようになって。

 大したことないのに恐怖に似た焦燥感がその都度、顔を覗かせる。

 まるでそのちょっとした綻びが俺を俺ではない何かに変えてしまうかのように。

 俺の中からその毒を摘出する目処が立たず、ただ時間が解決してくれると切望しながら堪えている。


 一度家を出てしまえばそれは収まる。

 通勤、仕事、会議、飲み会。別の事で頭を埋めてしまえばよい。

 しかし朝は駄目だ。ぼーっとした意識の隙間があって駄目なのだ。

 意識せずとも体を動かすために作られたルーティンなのだ。隙間があって当然。

 そこに忍び込んでくる。ルーティンがルーティンではなくなってゆく。


 ドアに鍵を掛け、ふぅ、と気合を入れ直すように鼻を鳴らす。

 効果、期待値内。

 同じタイミングで別のドアが開く音がする。


「いってきまーす」


 張りも凹みもない平坦な声で扉から出てきたのは隣の笠貫さんだ。


「あ、須田さん。おはようございます」


 目が合うとほんの一瞬視線を左右に揺らした隣人は軽く会釈しながら同じ抑揚を欠いた声で丁寧に挨拶する。

 四十代前半の長身の男。痩せ顔を覆い隠すように掛けられた主張の強い黒縁眼鏡が印象的だ。細長い体形に纏うネイビーの背広は浮いているようで、サイズは合っていそうなのにどこかちぐはぐに感じる。

 それでも安物のスーツを装い、髪を染めてピアスを付けている俺とは明らかに別物の、きちんとした大人の姿だ。


「笠貫さん。おはようございます。出張から帰られてたんですね」

「はい、丁度昨日。そう言えば先週、妻がご迷惑をお掛けしたようで」


 言いながら改めて頭を下げる。

 先週の洪水騒動の事を言っているのだろう。夫がいないからと奥さんは困り果てた様子で俺に助けを求めてきた。水漏れの原因は洗濯機の給水管が外れてしまっただけで、あっと言う間に解決した。

 丁寧な所作と声とは裏腹にその眼はいぶかしるような冷たさがある。その視線に後退ってしまう衝動を抑え、俺は笑顔を作る。


「いえいえ、大したことじゃなくて良かったですよ」

「あれから妻には新しい洗濯機をせびられとりましてね」


 困ったような顔を作って笑う笠貫さんはやはり声の奥では笑っていないように聞こえる。少し気まずい空気に気付かない振りをして会話を続ける。

 足を揃えて階段を下りていく。

 近所の銀行勤務の笠貫さんとはアパートの入口前で別れる。

 少し大きめに投げかけられた「いってらっしゃい」に明るく返事して駅へと向かう。

 張り詰めた空気が途切れたかのように一つため息を漏らす。



 一つ、二つと道を進めて行くとものの十分で駅前に辿り着く。

 住宅街の清閑さとは打って変わって突然そこにある朝の雑踏。

 街の喧噪に身を投じるように人の流れに歩を紛れ込ませる。

 駅内で混合する会話、突然の幼い笑い声、着信音、どこかのスピーカーから漏れてくる音楽、入店音、足音の塊、電車の轟き、アナウンス。

 全部が溶け合って一つの生き物の鳴き声のように唸っている。

 自分の呼吸や心音を掻き消す。

 俺もまたその生き物の一部となり個を失くす。社会と言う機械の部品として嵌っていく。

 縦横無尽に行き交う人混みが煩わしくて、声の大きすぎる店員の挨拶がやかましくて、いつもは憂鬱な朝の駅なのだが。今日はなぜだかそれが心地よい。

 通勤時間の窮屈な電車のピリピリとした湿って薄い空気さえ気にならない。


 無関心そうな表情を纏っているが苛立ちが滲み出ている人の頭と頭の間から僅かに車窓越しの空が見える。

 曇天。

 今日は午後からクライアント先で打ち合わせがある。

 降らないと、良いのだが。

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