プロローグ
一匹の魚が空を泳いでいる。
そんな魚はこの世のどこにもいない。なぜなら魚は水の外では生きていけないからだ。空飛ぶ魚は当然、息ができずに苦しんでいる。しかし魚は空飛ぶ魚だ。どんなにもがいても、水面に降り立つことはあっても、飛び込むことは叶わない。
その姿があまりにも必死で気の毒になり、どうにか水に押し込んでやれないかと手を差し伸べる。ようやく水の潤いに触れることができた魚は喜ぶ。大きく息をする。しかし冷たい鱗を押さえる手を離すと再び空中に浮いてしまうのだ。
尾鰭を海藻に括りつけて固定しようとする。今度は身動きが取れずに窮屈そうだ。魚は落胆し、水の中で大きく息を吸い込んで再び宙に浮かぶ。そして口元を震わせる。
昔、魚は海の水面から空を見上げて星に願ったと言う。鳥と共に仲良く、自由に空を飛びたいと。ほんの小さな憧れだった。海流の代わりに風を受け、颯爽と雲と戯れること。薄暗い水面下の代わりに温かい陽を感じて悠然と漂うこと。そう、ほんの小さな憧れ。しかし星々はその願いを叶えたのだ。
鳥たちは良くしてくれた。一緒に飛んでくれた。魚は風を受け、陽を浴び、大きな空を飛び回った。彼らとの時間はとても、とても楽しくて。多少息が苦しいなど取るに足らない不便にさえ思えた。しかし所詮、魚は魚であり鳥ではない。季節が過ぎると鳥たちは皆どこかへ行ってしまった。
翼のない空飛ぶ魚はついていくことができず、ただ一匹彼らが戻ってくる季節をずっと待っているのだと言う。水中から届いてくるような、くぐもった、か細い声だ。
息ができないのはまだいい。何より身を震わせるのは独りぼっちで渡らなければならない膨大な時間なのだ、と。そう言う。
独りぼっちの魚が空を泳いでいる。
そんな魚はこの世に他にいない。この世にいないはずの空飛ぶ魚は、水を離れて息の詰まる自由を手に入れた。それでも魚でしかない空飛ぶ魚は自由にも限りがあるとは知らなかった。そして何より自分だけが掴んだその自由は海底よりも冷たい孤独でいっぱいなのだとも。
なんと愚かで不憫な魚だろう。なんと切なくて生きづらそうな魚だろう。慰めの言葉をかけようと唇をわずかに開けるのだが、それ以上の言葉が出てくることはない。じゃあ一緒にいてあげるよ、連れてってあげるよ、そう言ってやれるはずなのに。どういうわけかその言葉が音にならない。音になるための何かが足りない。
そうしていると遠くから羽ばたく翼の音が聞こえてくる。「来た」と突然はしゃぎながら魚は呼びかける。それまで沈んだように掠れた声は生き生きとしている。
鳥たちが戻ってきたのだ。ひと季節の間だけ、孤独な空飛ぶ魚は自分が魚であることを忘れて手に入れた自由を味わうことができるのだろう。
魚が嬉しそうに音のする空へと泳いでいくのを眺めながら、自分もまた、離れていく。




