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新しい看板を携えた店の外観写真をSNSに載せた翌日に澄子から連絡がきた。
あれから彼女は美容院の新店で腕を見込まれ、マネージャーとして店を任されるようになった。自身のヘアサロンを構えたいという彼女の夢への大きなチャンスをものにしている。
仕事が忙しくて、地元に戻ってくる頻度は減った。気兼ねなく頑張れるようにと、俺は定期的に澄子の両親の様子を窺うようにしている。
「心機一転おめでとう!」
「ありがとう。思ったより感動したわ。はは。澄子は元気か?」
「うん、スタッフが優秀でホント助かってるわ」
「そっか、良かった。お前のことだからきっと、働きやすいいい職場にしてるんだろうな」
「あはは、そうだといいなぁ。でも、信じられないよね。人間関係であんなにごちゃごちゃしてた私がマネージャーなんて」
「俺は驚かねぇけどな」
「あはは。ありがとう。そっちはどう? 翔一さんとは上手くやってる?」
澄子は年明けに帰省した際に、一度だけ翔一に会った。
初対面はちょっとした修羅場だった。無論、彼に再会して連絡を取っていることや、引っ越してきたことは伝えていた。複雑な気持ちになる可能性を予想して慎重に話した。
しかし、澄子は翔一の顔を見るなり、『これ言っとかないとスッキリしないので』と前置きしてから長々と彼を叱ったのだ。
以前より数段、強くなった彼女の言い分は、基本的に俺を振り回したことに対してだった。翔一も一昔前までなら狼狽して、自分自身を追い詰める糧にしていただろう。
けれど、彼は深く頭を下げた。
あのときは自分しか見えていない愚かな人間だった。そのせいで多くの人を傷付け、苦しめてしまった。進歩したのか自分でもよく分からない。しかし、大切な人を蔑ろにしない自分に、俺を傷付けないような自分になりたい。
そう言いながら再び謝罪した。
俺はその遣り取りを青ざめながら、どう収拾をつけようか焦っていた。
しかし翔一が話し終えると、澄子の顰めた表情は唐突に和らいだ。そして『これからよろしくお願いします』と、まるで最初からやり直すように言い添えた。
そんな最悪の第一印象だったふたりはその後、意外と気が合い、SNSの運用や好きな歌手が被っていることで盛り上がっていた。
「うん。あいつも大分こっちに慣れたし、ふたりで楽しくやってるよ」
「よく考えたら全部手放して浩ちゃんのところに来たんだもんね。ねぇ、浩ちゃんもさ、私たちのときと同じことしちゃ駄目だからね? 大事なこと話さないまま、ひとりで勝手に突っ走ったりさ」
「はい。心に刻んでおります。……澄子、ありがとな」
言うべきことを言ってくれる大切な友人がいるという幸福を、この一言だけでは表せないだろう。それでも、言葉ではそれしかないので、あとは自分の行動で示すべきだ。
俺たちはこの瞬間、ここに至るまで、それなりに周りを巻き込んできた。
また、そんな俺たちになるまでに、同じく他の人の人生に巻き込まれてきた。
それはきっと生きている以上避けられないことで、人が関わること自体に善悪はない。出会った時点で、傷付け、傷付き、幸せをもらい、幸せを与える。
突き放すことでもなければ、軽視するものでもない。それらは誰かと出会い、関わったという痕跡なのだ。
消せない痕跡とどう向き合うのか。
俺は、そして最終的に翔一も、それらを成長するための原動力にしたいと願った。
それがちゃんとできているのかは自分で判断できることではないが、その気持ちだけでも、今まで与えた痛みも受けた痛みも、笑顔も、温かさも、少しは報われていると思いたい。
成長し、学ぶということは、向き合うということではないだろうか。自分の人生に存在したものとして見つめて、そうして初めて過ちを繰り返さないようにできる。
それも完全ではなくて、一度反省したからそれで終わりにできるほど誰もが真っ直ぐではない。
後悔しても、反省しても、間違いを繰り返してしまうことはあると思う。俺はいつかまた誰かを、翔一を傷付けてしまうかもしれない。そうなってしまったとしても、向き合うのだ。
自分の成長を当然のこととしないように、向き合うことから無意識に逃げてしまわないように。そうありたいと思う。
正月に母親が結婚相手を連れて帰ってきた。
微妙な距離は今でも埋まらない。もしかしたらずっとそうなのかもしれない。それでも、母親も変わろうとしていて、少しは親子らしくなったのかもしれない。
翔一を『俺の大事な人』として紹介すると、母親はいきなりハグをしてきた。彼女とそういうスキンシップをしたことのなかった俺は流石に呆然とした。
一丁前の母親の顔をして「息子をよろしくね」と言っている姿は本来、不愉快に思うはずなのだが、実のところ一言では片付けられない感情だった。
母親に会うことに酷く緊張していた翔一も、瞬く間に絆された。俺はやはり嬉しかった。彼を紹介できたこと、その瞬間、確かに存在している暖かな空気。
母親の旦那の渡部さんも含めて、その瞬間が俺の望んでいた形だったのだと認識した。
「未熟な親だと、子供に苦労ばかりかけてしまうのよね。言い訳しようなんて思わないけど、こんな母親なのに浩太が立派に育ってくれて本当によかった。きっと翔一君のお母様もそう思える日がくるはずよ。だって、こんなに素敵な息子さんだもの」
翔一が自分の母親とは少し難しい関係だと打ち明けると、母親はそう返していた。彼は「そうなるといいです」と、怒りも後ろめたさもない微笑みを浮かべていた。
彼はたまに、いつだったかラジオで聞いた話に似たことを口にする。
自分が自分を受け入れるのにどれだけ時間が掛かったか、どれだけ追い詰められるような気持ちになったか。
そう思うと、母親がすんなり受け入れてくれないのも納得がいく。衝動的に自分の性的指向を打ち明けようとして浅はかだった。母は何も知らない方が平穏に暮らせたはずだと。
それでもいつかは、母親に俺を紹介できる日が来ると信じたい。そう言って少し寂しげな笑顔をするのだ。
俺もそれを願っている。母親に「翔一君を紹介してくれてありがとう」と言われたときに、心の底から込み上げた感謝と喜びを、彼の母親とも共有したいと思ったから。
「ただいまー」
翔一がクライアントとの打ち合わせから帰ってきた。
引っ越してきてから初めての大きな取引先で、いつになく気合を入れたスーツ姿で、『浮雲亭』の入口から入って来た。わざわざ、駐車場から回って。
俺は夕方の準備をしていた手を止め、厨房を出た。
「おかえり。どうだった?」
「順調かな。制作は新しいところになるけど、見た感じ大丈夫そう」
「そっか。お疲れ様。飯は食った?」
「まだぁ! あ、でも先に書類いくつか整理しちゃっていい?」
「ああ、俺も仕込みを終わらせなきゃいけないから」
暫くして翔一はいつものオーバーサイズのTシャツに着替えて、パソコンを抱えながらカウンター席に着いた。
ずっと前のように。何気ない話をしながら仕事を進めて、俺は料理をして。
「はい、おまち」
「うおー、最高じゃん!」
越前おろしそばに、シロギスと茄子の天ぷら。山菜の味噌和えと漬物も小鉢で添えた。
翔一の隣に腰をかけ、ふたりで手を合わせる。
「いただきます」
彼の食べる姿が好きだ。
俺の料理を口にすると瞳を輝かせて、そこに映るものがどういう感情かまでは分からないけれど、見る度に心の底から料理している意味を思い出す。
「天ぷらうっんま」
「さっき矢野のおっちゃんが届けてくれたシロギスだよ。この間の朝市のポスターのお礼だって大量に貰った。お前、タダでやっただろ?」
「印刷物は専門外だからな、漁協からお金は貰えないよ。こっちは、ありがたいけどねぇ」
満面の笑みで黄金色の衣を纏った魚を一切れ掲げた。
「今晩、店混みそう? できればクライアントの資料仕上げちゃおうかなって」
「大丈夫だよ。てか、翔一は仕事優先しろっていつも言ってるじゃん」
「そうなんだけど。だって楽しいじゃん、一緒に働くの」
そう言われれば笑うしかないのだ。
食事を終えて、「浩太、ご馳走様」と軽快に言うと片付けを手伝ってもらい、翔一は俺たちの住む離れの事務所に戻って行った。
人と関わること。社会と関わること。
その中で、どれだけ自分でいられるかということ。
それは今の時代にどれほど咎められるものなのか。何より、どれほど自分自身が許せるものなのか。
自分を貫いてばかりでは大切な人を傷付ける。自分を押し殺し続けても大切な人を傷付ける。
この繊細な均衡は常に変動している。環境に、人に、立場によって左右される。誰だってそれぞれの特異性は持ち合わせている。しかし、ときにそれはほんの少しだけ、その時代の価値観で重くなったり、軽くなったりする。
性的指向に限った話ではない。誰にも迷惑のかからないこと全てにおいて言えることだ。
バランスはちょっとしたことで崩れてしまったりする。例えば『好き』という二文字によって。
今、俺はこう思う。
どんな言葉を当て嵌めようと、存在する感情は否定したくない。その本質はきっと言葉ではないから。
だから俺たちはこの関係にまだ名前を付けない。
この間、翔一は町のじじばばに久しぶりに俺との関係について詰め寄られていた。浜音の噂好きの間では、俺たちは恋人だという認識が大半だ。
好奇の目はあれど、悪意はない。それは分かっているが、困ったなと思った矢先、翔一の反応に驚いた。
「それでもいいけどさ。浩太は浩太なんですよ」
ちょっと前までは、そんな状況になったら慌てふためいて、取り乱していたくせに。俺は思いっきり笑った。
しかし、それが一番正しいのかもしれない。
俺と翔一の物語は、ただ男が男に恋をしたという物語ではない。
島崎浩太という他人を理解することを諦めた人間と、須田翔一という自分を理解することを諦めた人間が出会い、沢山の人に守られて少しだけ成長したという物語なのだ。
ふたりが一緒にいる理由はただ好きの一言では表せない。
俺は俺で、翔一は翔一で、俺たちは『翔一と浩太』という関係だ。
たまに彼から言われる「好きだよ」は、それは嬉しいけれど。
その言葉よりもっと大切なものを、分かち合っているのだと思う。
それは————




