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浜音のような小さな漁師町に都会者が来た。その上、男二人で同居し民宿を切り盛りしている。
当然、翔一のことは瞬く間に噂になり、それなりの波紋を生んだ。町民には怪訝に思う声も少なくはないだろう。
翔一もそれが一番の懸念点だった。
一緒に住むということは、仕事や生活以外においても相応の覚悟が必要で。彼にとってそれはまだ早期な決断ではないかと、俺もまた心配していた。
それでも、彼がそう決めたのは感情に任せてのことではなかった。自身の不安や恐れ。それらと向き合えば向き合うほど、自分が何を求めているのかが見えてきたそうだ。
天秤にかけたら、求めているものはそれに伴う恐怖に立ち向かおうと思えるほど重かった。
彼は逆に俺自身や店に影響が出るのではないかが一番の不安要素だと言っていた。
昔なら深く考えることなく、『そんなわけない』と笑い飛ばしただろう。
しかし、そう言って本当に影響が出てしまえば、結局苦しむのは翔一だ。個人の自由とはいえ、小さな港町だ。
人情味と温厚さに富んだ土地柄でも、評判というのはそれでもついてくる。悪気のない噂が勝手に独り歩きをしたり、知らぬ間に膨らんだ印象が経営に支障を来すことだってある。
俺は入念に根回しをした。
春樹を始め、若い世代で発言力のある友人に事情を話し、それほど苦労することなく理解を得た。
また、確実に味方につけておきたいのは店の常連。その中でも漁業組合会長の矢野のおっちゃん。
その世代にどう説明するのか頭を捻った。
石橋を叩いて渡るのには慣れていない。俺達のことなのに、なぜ他人が口出す必要があるのか。そんな未熟さは今でも多少なりとも残っている。
けれど、これは師匠の言うところの『節目』だ。翔一が安心して暮らせる環境を整える、俺の役目でもあると思った。
酒を囲んで矢野のおっちゃんに打診してみた。反応が悪ければ、話を濁すつもりだった。しかし、おっちゃんは、
『俺にゃ、よう分からんけんどの。本人らがそれでええんなら、他人が口ぃ出すこっちゃねぇざ』
そう言うので、少しずつ翔一のことを話した。
おっちゃんは驚きこそはしていたが、翔一のことを覚えていて、印象がよかったのか純粋に喜んでくれた。変なこと言う奴がいれば任せとけ、と保証までされた。
おっちゃんに話せば漁業組合にも老人会にも噂が立つ。これは狙い通りで、出所の分からない話に尾鰭がついて広がるより、好意的で人望の厚い矢野のおっちゃんから広がる方が確実に望ましいことだった。
そうして、翔一には『大丈夫だ』と言うことができた。
問題が起こらないと断言できないのは仕方がないが、少なくとも味方がいる。そう伝えた。
一緒に住み始めたばかりの頃は、やはり浜音のじじばばに根ほり葉ほり問い質されたが、存外翔一も上手く対応していた。その内、誰も気にしなくなるくらい彼の存在は自然なものになっていた。
その裏では矢野のおっちゃんや、春樹一家などの働きも大きいと理解している。俺達は守られながら二人の生活を築いているのだ。
笠貫一家の訪問から暫くして、瀬戸家に招待された俺達は春樹とそんな話をしていた。
「そんなん、当たり前のこと感謝されてもな。お前らだって、うちらが悪口言われとったら黙っとらんやろ」
相変わらずバーベキュー担当にされている俺を囲んで、ビールを啜りながら言う。翔一は三歳になった奈々を抱えながら苦笑した。
「そりゃあ黙ってないけど。でも、当たり前じゃないよ。始めから、身内のように受け入れてくれて、気に掛けてくれて。俺は本当に助かってるよ」
春樹は照れ臭そうに笑う。そこに被せて、庭の少し先で遊んでいる胡桃と大親友のジェナちゃんの笑い声が響いた。
翔一と結婚すると言っていた胡桃も、彼が越して来る頃にはそのことをすっかり忘れていて、複雑な顔をしていたのを覚えている。それでも懐きようはそのままだった。
時々、胡桃と奈々をうちで預かることもあって、俺と同じ親戚枠に入っているようだ。
「ほら、俺達の守護神に最上級の肉を献上だ」
そう言って春樹の皿に牛肉を乗せる。
「お前ら、マジで大袈裟やって」
「じゃ、献上は取り下げで」
「いや、肉は貰うけど」
前に同じようにバーベキューをしていたのが懐かしい。
数年後、俺達が同居しているなんてあのとき、誰が思っただろうか。或いは春樹と律はそんな未来も面白半分で想像していたのかもしれない。
翔一とまた連絡を取っていると伝えたとき、浜音に越して来るとを伝えたとき、きっと誰よりも祝福してくれたのが彼らだ。
つくづく人に恵まれていると思う。
大人たちに肉を取り分けると、子供たちも呼ばれて、仲良く手を繋ぎながら駆け寄ってきた。奈々をテーブルに就いた律に預けると、翔一の分も盛る。
急に風向きが変わって煙が顔に掛かる。
「うっわ」
咳き込んで、沁みた目を擦ろうとすると「だーもう、ダメだろ。ちょっと見せて」と言って、翔一に制止される。
目に塵が入っていないか覗いてくる表情が愛おしくて、ついニヤけてしまう。するとテーブルの方から笑い声がする。
「ね? 言ったでしょ?」
胡桃が勝ち誇った様子でジェナちゃんに言う。
「うん、ホントだ!」
「何の話?」
律は奈々の涎を拭きながら子供たちに尋ねる。
「ジェナちゃんがね、翔ちゃんが浩ちゃんの大切な人だって信じてくれなかったの」
「そんなんじゃないよ! 知らなかったって言っただけじゃない」
笑いながらも言い合うふたり。俺は翔一の方を見ると、顔を真っ赤にしていた。
ジェナちゃんの両親含めて、俺達の関係を知らない人はこの場にいないけれど、公然の場で改めて言われると、俺でさえ流石にむず痒い。
それでも胡桃の『大切な人』という言い回しに関心した。
「翔一、大丈夫?」
彼にだけ聞こえるように尋ねると、同じ声量で「うん。でも、恥ずいな」と耳まで染めて言うので緩んだ顔のまま同意する。
「こおら、そうやって人の噂しないの。感じ悪いわよ?」
窘めたのはジェナちゃんの母親。
娘の方は少し反省の色を見せたが、胡桃はというと、
「え〜、だって『幸せはお裾分けするもんや』って爺ちゃん言っとったし」
全員の視線が春樹の父親に向く。特にその妻の視線は呆れた色をしている。
「え? あ、いや、そりゃの。自分の幸せは、っちゅう意味での……」
慌てて弁解を試みるおじさんの顔もみるみる赤くなる。
最初に噴き出したのは翔一。それに続いて笑い声が広がる。
またいつかのように、蟬の声も押し返すほどに透き通った音が空気に満ちていく。
その翌日。
店に待ちに待った配達が来た。色々話し合って、浜音の職人に発注した品を開梱する前に、翔一を呼びに行った。
丁度、仕事の通話を終えたところに「翔一、届いた!」と声を掛けると、瞳を輝かせてついてきた。
「おぉ!」
趣のある杉の耳付き板が二枚。
町の書道家に揮毫してもらった耽美な文字が無垢板の面を飾っている。
店と民宿の新しい看板だ。
爺ちゃんが作ったものを取り換えるのは忍びない気持ちもあったが、時期が来たと感じていた。
雨風に晒された看板は痛んでいるし、何より俺も漸く祖父母の大切な場所を『継いだ』と胸を張れるくらいには成長したと思う。
民宿の改良と並行で、店の方の改築作業が完了した今が一番相応しい時期なのだ。
前の看板は処分せずに屋内に展示する。そして、新しい想いを込め、翔一にデザインの構想などを手伝ってもらって発注したのは、
『民宿うきぐも』
翔一がイメージした海と人の温かさを称えた内装に合わせて渋さの中にも丸みのある、優しい雰囲気。
そして、食堂の方は悩み抜いた末、決意を固めた。
それは俺にとって意義深い文字であり、自分を奮い立たせるための矜持でもある。
『浮雲亭』
店名を変える前に、俺はひとりで師匠に会いに行った。
そう促したのは翔一だった。その『亭』の一文字に込めた想いを、深く理解してくれたからだ。
その名を掲げるには、師に認められる必要がある、と年明けの休暇中に再び京都へと向かった。
俺は意図を話さずに、俺は再び寒鰤で挑んだ。
地元を連れて行って上庄里芋の炊き合わせをお出しした。腕を上げたことは認められた。しかし、それでも完敗だった。
あまりにも落ち込んでいるので笹原師匠は俺に事情を尋ねた。
説明すると、突然大声で笑い出した。
『なるほどなぁ。道理で、焦りが先に立ったような味がしたわけや。島崎、おまえ、この『桜喜亭』が最初から今の形に出来上がったとでも思てるんか? 何代もかけて、大事に育ててきた料亭や。どんだけええ場所かて、どこかで始まるもんや。言うたやろ。おまえはもう料理人や。そこから始めたらええ』
また己の単純な考えに気付けなかったことが恥ずかしくなった。しかし、そう言う親方はとても嬉しそうに只管笑っていた。
爺ちゃんから店を継いで、半端者の俺はその中で足掻きながら腕を磨いて、そしてこれから自分の料理が実際に始まる。
迷いは微塵もない。なぜなら今でも最高の師匠の弟子であり、最高の店を爺ちゃんから受け継いだという自負があるからだ。
店の入り口に掲げた『浮雲亭』の看板はそんな覚悟と威厳を纏っているように見えた。
「あ、写真!」
慌てて翔一はスマホを取り出し、位置の指定をする。
「翔一も入って」
「え? いや、なんか違くないか?」
「今、料理人の俺を支えてくれてるのはお前だ」
そう言いながら腕を引っ張る。
納得しきれていないような顔をするが、流されるように翔一は俺の隣に収まる。
穏やかな波音が揺れ、陽の光が何もかもを鮮やかに照らし、鴎の鳴き声が蟬のそれと合唱するような、とてもいい日だ。




