12-3
浜音に着いたのは午前一時過ぎだった。
流石に疲れ果てた翔一はシャワーを浴びて直ぐに寝た。続いて俺がシャワーから上がると、布団の中で深い寝息を立ててすっかり熟睡していた。
翌日、日曜日。
アラームが鳴る前に目覚めた俺は、彼を起こさずに朝食を作り置きして、仕事に取り掛かる。あれほど濃密な一日だったのだから、今日くらい休ませてやりたい。
母屋の客室、風呂回り、廊下や共有スペースの掃除をする。九時頃になって、起こさなかったことに文句を言いながら翔一は現れた。
眠そうな顔で掃除機を持って行こうとするので朝ごはんを食べるよう促す。
自分の仕事もあるのに、翔一は率先して民宿や店を手伝ってくれる。
特に民宿の方は色々と手を加え、『うきぐも』はどんどん快適な宿になりつつある。常連の間では専ら彼が『民宿の顔』になっているように感じる。
経営の立て直しは一筋縄ではいかなかった。しかし、徐々に好転はしていった。
三年前から定期的に出前サービスを実施し、少しずつ、切迫していた経済状況にも余裕ができた。
店を手伝ってもらっていた恵梨香が上京したあと、新たなバイトを雇った。今では、民宿の方にも人手を入れようかと検討できるくらいだ。
その分、時間的にも多少の余白が生まれ、当初は不格好ではあったがSNSのアカウントを開設し、民宿の予約も増えていった。
安泰と言えるような状況ではなかったが、確実に上を向いていた。そして翔一がいる現在では、SNSは見違えるほど整い、ウェブサイトまで作って運営してくれているのだ。
彼は昔からの常連さんにも配慮しながら、新規のお客さんが喜びそうな、小さな変化を提案した。
海や釣りに因んだ書籍を揃えた読書ラウンジや、客の釣果写真を貼れる掲示板、その他にも港町然としたインテリアに拘るなど、低コストの工夫を重ねた。
馴染みの宿泊客が好む要素はそのままに、常連以外の客にも気に入られるような改良を取り入れた。その発想力には感嘆したものだ。
翔一が浜音に来てから一年、迷走していた民宿にもしっかりとした個性が現れた。
彼のおかげで守りたかった『うきぐも』の空気感を保ったまま、民宿に新たな息吹が吹き込まれた。
本来、香衣良さんの結婚式もあり、この土日は民宿も店も閉めることにしていた。
一昔前であれば、珍しい光景ではなかったが、最近では週末に誰もいないというのは新鮮だ。
久々に完全に空いた土日をふたりで満喫できるかと思っていたのだが。ある連絡を受けて、翔一は一組だけ予約できないかと言い出した。
客の名前を聞いて、俺も承諾した。
笠貫一家である。
俺はあれから会ってはいないが、翔一は定期的に連絡を取り合っていた。今回、息子さんの学校祭の代休とご主人の有休が重なって、家族で小旅行を計画したそうだ。
昨日名古屋にいたのに、浜音で会うという不思議な流れだが、翔一は笠貫家をもてなすことに心を弾ませている。
当時、奥さんの助言に背中を押されたこともあり、俺もまたこの機会に喜んでいる。
実質、民宿は貸し切り状態で、食堂も閉まっている。積もる話もゆっくりとできるだろう。
午後二時頃に一家は到着した。
「須田さ〜ん! 久しぶりね〜、嬉しいわぁ。島崎さんもよろしくお願いします」
車を降りるなり、奥さんが声高に言う。続いて旦那さんが、
「今回は無理言ってすみません」
と腰を低くする。
後ろで無関心な顔をしているのが息子さん。三年前まで、まだ幼さを残していた彼も、高校二年になって父親に追い付くほど成長していた。
家族旅行に乗り気ではなかったが、翔一に会いに行くと聞いて気が変わったそうだ。笠貫夫人が笑いながら言うと敏明君は舌打ちしながら「そんなんじゃねぇし」と、実に年頃らしい反応をしてみせる。
まず、民宿内と、海と浜音を一望できる眺めの良い部屋の案内をする。息子さんでさえ虚勢を忘れて驚嘆している。
翔一があとで釣りに行かないかと誘い、満更でもない答えが返ってくる。
「素敵な場所だわ、全然知らなかった、ねぇ?」
夫は共感を求められ、慣れた様子で頷く。
「須田さんがこちらに来てから一年くらいですか? もう慣れました?」
「はい。皆さん良い方ばかりなので、割とすぐに。あ、仕事はそうもいかないですけど」
「前の会社から独立されて、今はフリーのコンサルタントをされているんですよね」
「ええ。最近なんとか人脈も築き始められたんですが、地域の実情を掴むのに結構苦労してます。ははは」
民宿や食堂の仕事はあくまで俺のサポートとして、できる範囲でやってくれている翔一の本業はウェブコンサルタント。
実は現在進行形で大きな賭けに乗り出している。
再び連絡を取るようになって数か月の頃だった。
電話で新作の料理の話をしていた。『うまそー』と言う翔一に半ばふざけながら『名古屋がもっと近ければ毎日でも届けるのに』と答えた。
翔一は笑いながらも少し間を置いて唐突に、
『本当に俺がそっちに引っ越したりしたら、困ったりしない?』
含みを感じた言葉を追及してみると、暫くそのことを考えていたのだと認めた。
今の職場は好きだが、いつか独立して自分がどこまで通用するのか試してみたいという気持ちは元々あったそうだ。
『あと、浩太の傍にいたいし』
早口でそれを言う翔一の顔が見えなかったのが悔しくて仕方がない。かくいう俺も相当間の抜けた顔をしていたのだろう。
彼はそのときはまだ輪郭の曖昧な計画を心に、この地域のリサーチをしていたと言った。下請けとして契約できそうな会社、県内のデジタル媒体の消費モデルや戦略導入の実態、ニーズなど。
調べれば調べるほど、自分にできることがあるように思えたそうだ。
あとは、俺がそれを望んでいるのかどうか。彼は本気で考えているのだと言った。
それほどの決断を俺に委ねてもいいのか。それほどの変化を彼に求めてもいいのか。
その困惑をありのままに伝えた。
『自分のことで分からない部分はまだ多くて、浩太には迷惑をかけるかもしれないけど。でも、浩太の傍にいたいっていうのだけは、全然迷ってない』
それから半年経って、翔一は浜音に来た。
名前を付けていない関係の適切な距離とか、生活の習慣を擦り合わせるのに色々と衝突もあったが、最近は心地よいバランスを見つけていると思う。
この間、なんとなく翔一に決断を後悔していないか聞いてみた。
『今、ここが俺の居場所だと思ってる。幸せだよ』
躊躇いもなく笑っていた。
中々仕事が上手くいかなかったりもするけれど、翔一は躍動感と遣り甲斐に溢れているように感じる。
全てが好転しているわけでもないし、まだ喧嘩することだってある。それでも俺の隣で、笑顔の翔一がいる。
これ以上の幸福はないと思えるほどに満ち足りている。
荷物を置いて一息ついた頃、笠貫夫妻は散歩に、翔一は敏明君を連れて釣りに行った。俺は、上等な釣果を期待しながら夕餉の支度に取り掛かった。
当然、腕によりをかけてもてなす心持ちだ。
今朝から考えていた品書きは、前菜にらっきょう、枝豆、岩もずく酢と焼き茄子の生姜醤油。翔一達の釣果によってはそれを造りか揚物に。
じゅんさいと甘海老真丈の清汁。焼物には蓼酢を添えて越前はちめの塩焼き。揚物には青唐と釣果、或いはキスを抹茶塩で。煮物は少し土地柄を出して丸茄子と厚揚げの炊き合わせを新生姜風味で仕上げようと思う。
敏明君は肉も好きだと言っていたので、強肴に越前産牛の陶板焼き、新玉葱と地野菜を添えよう。甘味には羽二重餅を用意してある。
夕方に戻ってきた釣り人達は賑やかに話し合っていた。
釣り初心者の敏明君に翔一はサビキ釣りを教えたそうだ。相当楽しめたのか、高校生男子は童心に帰ったように目を輝かせて燥いでいた。
中型の真鰺が数匹、それらは造りにしようと確定した。また、少し小さいものは南蛮漬けで一品加えることにした。
翔一に手伝ってもらい準備を進める。
いまだに信じられない気持ちがある。大切な厨房にふたり肩を並べていることや、ラジオが賑わす穏やかな沈黙。
時折どちらかが何かに反応して、もうひとりが何かを返す。本当に些細な、取るに足らない会話。
その空気感にふと胸に広がる温かさがあって、いつまでも終わらなければいいと思う。
彼は食事の案内をしに座敷へと向かい、俺は盛り付けを慎重に確認する。
料理を運ぶと笠貫さん達は目を輝かせた。気合を入れて昇華させた自身の釣果を見て、敏明君は頬を染めて心が逸るように両親に熱弁する。
翔一も隣でその釣りの腕前を褒め、俺も魚の質を絶賛する。夫婦は誇らしげな笑顔を浮かべている。
小さい頃から『うきぐも』はそんな場所だった。
家族が団欒し、友人が集い、笑顔と笑い声を呼ぶ、そんな温かい場所。
爺ちゃんと婆ちゃんが作り上げたその空間を、俺は翔一と一緒に蘇らせることが叶った。当然、課題はまだ多いけれど、この空気感で間違いない。
これが『うきぐも』だ。
「こんなに風情のある町の民宿で、こんなご馳走を食べられるなんて幸せだわー」
奥さんがにこやかに言う。
「ありがとうございます」
「きっとおふたりの人柄が現れるのね、こうほっこりするというのかしら。すごく落ち着くのよ。ね?」
家族に同意を求めると肯定の声が返ってくる。
「そう言っていただけて本当に嬉しいです」
翔一の方を見ると目が合って、少し照れくさいような、嬉しいような表情を交わした。




