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空魚  作者: 白雨 梦乃
最終話・浮雲(うきぐも)
65/69

12-2


「なんだ、お前ら泊ってかんのか。今日は出前取ろまいと思っとったのに」


 翔一の父親、満さんは冷蔵庫から出しかけたビール瓶を掲げて、手持ち無沙汰そうに言った。


「明日からお客さんの予約が入ってるんだよ」


 息子にそう言われて「ほうか」と答える満さんは少し残念そうだった。

 最後に会ったのは半年前だろう。泊めてもらうはずだったのに、結局榎田のところへと変更したわけだし。

 本当は、息子との時間を楽しみにしていたのではないだろうか。


「食事くらい良いんじゃないか?」

「けど浩太、明日の準備……」

「午前中は誰もいないし、平気だろ」


 最後の一押しで「な?」と笑い掛ける。満さんは既にその気でいる。

 翔一は折れるように溜息を吐いて承諾する。


「浩太くん、ちょっとぐらい飲めるわな?」

「すいません満さん、運転があるんで……」

「いいよ、帰りは俺がするから。付き合ってやって」


 半年前に満さんは民宿に来てくれた。

 そのときもやたらと差しで飲みたがっていたのを思い出す。釣りに限らず博識な人で、話していてとても楽しく、俺も嬉々として付き合った。

 そのせいか、いつの間にか酒豪と認識されているようだった。これでも浜音男児なので、否定はしないが。


「翔一、疲れてるだろう」

「そんなことないって」


 絶対に気疲れしているはずだと思ったが、確かに肩の荷が下りたような表情をしていた。「じゃあ、一杯だけ」と告げた。

 満さんは土産に持ってきた汐うにをテーブルに出す。肴にするなら、と俺は台所を借りて同じく手土産のへしこを炙り、厚揚げを焼いて生姜醤油と一緒に出した。

 満さんにビールを注いでもらい、こちらもお酌をする。翔一は麦茶ながら、何やら上機嫌で乾杯した。



 満さんにはとても感謝している。

 翔一のアイデンティティを否定せずに受け入れたこと。それが彼にとってどれほどの救いだったのか。そして、俺にもすぐに家族のように接してくれたこと。今ならそれがどれほど貴重なことか分かる。

 民宿を訪れた満さんは祖父母に手を合わせたいと申し出てくれて、こんなことを言っていた。


『島崎さん、翔一の父の斎藤満と申します。息子が、お世話になっとります。私は、あまりええ父親ではありませんでした。あいつには随分つらい思いをさせました。けれど浩太くんと出会ってから、翔一は少しずつ、自分の顔で笑うようになりました。本当に感謝しとります。浩太くんはもう、家族だと思っとりますもんで。どうか、安心してやってください』


 お茶を運んで一足遅れて行くと、仏間からそんな声が聞こえた。俺は、入ることができなかった。

 翔一にもこのことは伝えていない。俺が聞くはずではなかった、満さんと祖父母の会話だから。

 しかし、翔一の優しさと誠実さは父親譲りなのだと思った。


 母親とはいまだに和解しきれていない。

 翔一が浜音にいることは知っているし、そこに俺がいるということも知っている。しかしそれ以上は詮索しない。

 翔一も自分からは何も言わないことにした。母親が尋ねてきたら答える。それはもしかしたら一生ないかもしれない。それでも、以前のように彼の心にそれが重く圧し掛かることはなくなった。

 電話で話すたびに小言を言われているのか、毎回辟易とした顔をしているが、呆れながらも揺るぎはしなくなった。



 一杯で済むはずもなかった晩酌をしながら寿司が届くのを待った。

 満さんの最近の釣り武勇伝を聞きながら驚いて、笑って、張り合って。ふと気付けば自分がこの空間の中に馴染んでいることが不思議に思えた。

 隣で声をあげて笑う翔一を見ると、言葉では表し切れない温かさが込み上げる。俺はすごく幸せなのだと思う。


 食事を終えて車を出したのは夜の十時頃だった。

 翔一の体調を気にして、明日の朝帰ろうと提案するが「大丈夫だよ」と言う。途中、二度は休憩を入れ、疲れたら仮眠を取るという約束を条件に、俺たちは北へと向かった。


 六月上旬の夜。日中に溜まった熱が冷め、少し肌寒いくらい。

 翔一はラジオをかけて、運転席で時折鼻歌を歌い出す。歌手並みに上手いのだから、もっと声を出してもいいのにと思う。

 初めて本気の歌声を聞いたときは心底驚いた。一緒にいた榎田が、芸能人を見るような星いっぱいの目をしていたと笑っていた。

 そんなことを思い出している視線を感じたのか、翔一はおかしそうに、


「なに?」


 と言ってきた。助手席の窓枠に肘をつきながら答える。


「いや別に。楽しかったな、今日」

「それはお前らだろ。俺は気が気じゃなかったぞ。はぁ〜、でも無事に乗り越えられて良かった」

「頑張ったな翔一、偉いぞ」

「子供扱いすんなよ」

「ふはは。でも、香衣良さんも和真さんも、本当に幸せそうだった」


 翔一は穏やかに微笑む。


「うん。本当に良かった。浩太、一緒に来てくれてありがとう」

「どういたしまして」


 招待状を貰ったとはいえ、本当は参加するつもりはなかった。気を遣って、というわけでもないが、どうしても場違いな気がしていたから。しかしその旨伝えたときの翔一の仔犬のような眼差しに負けた。

 案の定、榎田の解釈通り、彼の安定剤としての働きは大いに発揮したと思う。珍しい翔一のスーツ姿も見られたし、結果的に行ってよかった。


「あ、そう言えば言ったっけ」

「ん?」

「オルテスの相沢先輩、彼氏にプロポーズしたんだってさ」


 前の会社の先輩。十年近く付き合っている同性のパートナーがいると翔一が言っていた。

 面識はないが、彼がまだ思い悩んでいたときに、よく話を聞いてくれたと言っていたのを覚えている。


「おー、初耳。プロポーズって、じゃあ——」

「うん、パートナーシップ宣誓だってさ。俺もよく分からないけど。あでも、式は挙げるそうだぞ」


 以前、ふと思い立って調べたことがあった。

 同性婚の認められていない現代日本に存在するひとつの道。戸籍上の配偶者にはなれないし、法定相続人にもならない。

 病院や会社でどこまで認められるかも、自治体や相手次第。遺言書を別に用意でもしない限り、それだけでは不安定なものなのだ。

 それでも、法的な側面以上に、当事者にとっては『繋がり』を意味する。大切な誰かが自分の人生と確かに繋がっているという、証明。


 社会的に見れば、同性愛が認められたというにはまだ弱々しい変革だ。異性愛者と同等の権利を与えられたとはいえない。

 それでも、軽視するにはあまりにも重大な一歩。愛する人と、ひとつの『形』を作ることが許されるという意味。

 掻い摘んで翔一に説明した。


「へぇ、浩太よく知ってるな」

「あ、いや。細かくは知らないぞ」


 下心があると思われるのではないかと不安がよぎった。

 抑々調べたきっかけは純粋に、もしもの場合が心配になったからだ。


「もしさ、相沢先輩から招待状きたら、浩太また一緒に来てくれるか?」


 ひとまず懸念していた会話は避けられた。

 俺は見られないように窓越しの景色に向けてニヤついた。先輩ということは式に会社の人も多いのではないだろうか。

 翔一は気付いているのか、そんなところに俺を連れて行く意味を。


「そうか、ひとりじゃ心細いか?」

「じゃなくて。見ておきたいじゃん。いつか俺たちもそうするかもしれないし」


 勢いは加減できなかった。窓枠にかけていた肘が、振り向くと同時に滑ってガクン、と姿勢が崩れた。

 自分が言ったことを果たして理解しているのだろうか。薄暗い車内を街灯が通りすがりに照らして、耳が赤くなっているのが見えた。


「し、翔一、お前……」

「なに。……だって嫌じゃん。もしどっちかが入院したりしたら、家族じゃないからって会わせてくれないんだろ? ちゃんとしておきたくねぇ? そういうの」



 真面目に答えてくるけれど、顔はみるみる紅潮していく。

 書類的な話なのは分かる。便宜性に基づいた話だと。それでも、その形に、いつかなるかもしれないことを翔一は言っているのだ。

 彼は、三年前のあの日から、どれほどの道のりを歩んできたのか。それが垣間見える言葉だった。




 三年前のあの日。


 俺と翔一は言うべきことを全て言い合って、もう会わない覚悟で『さよなら』を告げた。

 理不尽に思えて仕方がない部分はあった。翔一も俺を好きだと言ったからだ。

 高揚と同時に絶望みたいな感情を抱いた。俺の想いが返されている奇跡、そしてそれこそが一緒にいられない理由だという不条理。


 しかし、そのタイミングで正しかったのだ。

 それ以前の俺はその二面性を受け入れられなかっただろう。互いの気持ちは同じなのに、なぜ一緒になれないのか。俺は更に彼を傷付けることになっただろう。

 力いっぱい引き留めてしまいそうな衝動に抗って、一度だけ、告白をやり直して、彼を抱きしめる腕を離した。


 何もなかったかのように、それでも深い跡を残しながら、俺は翔一のいない生活に戻った。


 それから二年が経とうとしていた春先。須田という人から予約が入った。

 勿論、翔一だった。

 久しぶりに見た姿は寸分の狂いもなく俺の記憶にずっといる彼だった。

 疑問は多かったが、ただ元気そうな姿にひたすら安堵した。


 二泊三日の期間、何を話したわけでもない。

 ただ、初めて彼が浜音を訪れたときのあの空気感。俺たちの間に確かにあった世界。まるで隔たりなどなかったかのように、それらは蘇った。

 ただし、前よりも生活に繋がった形で、互いの日常の地続きにあるものみたいに。


 浮き足立つ気持ちはあったが、俺はあまり顔に出さないように気を付けた。彼がそのとき、どんな心境にいるのか分からなかったから。

 誰かいるのであれば浜音には来ないだろうし、来たからには何かしらの理由があるのだろう。

 彼への気持ちはあの日のままだった。だから結論を急いてしまいそうになったが、心の中に留めた。


 三日目の朝、翔一に話があると告げられた。


『胸を張って生きてるかと言われれば、そうでもないんだ。やっぱり人の目は気になるし、自分でもまだどこか後ろめたさがあるっていうか。でも、前よりずっと息はしやすくて。全部、浩太と出会ったから。だから、この先もずっと大事な人なんだと思う。知ってほしかったんだ、前を向けてるって。元気なんだって』


 明確に言われたわけではない。しかし、分かった。

 彼の気持ちもまた変わっていないのだと。

 名前を付ける必要なんてなかった。

 だから『俺にとっても翔一はずっと大切な人だよ』と伝えた。


 それからまた連絡を取るようになった。

 そして浜音で一緒に住むようになった今でも、俺たちは名前に固執せずにいる。

 一番自然なふたりの形で傍にいる。

 だから、こうしてパートナーシップの話をしてきたことに驚いた。合理性だけの話でも、それでも名前がつくから。


 俺たちの今の関係が好きだ。

 無論、未来のこともしっかりと考えたいけれど、急ぐ必要はないようにも思う。

 そのまま言うと、また翔一に楽観主義だと言われそうなので、言葉を選んで、


「そうだな。ちゃんとしたい。でも、焦る必要はないからな。俺たちのペースでいこ?」


 翔一は安心したように頬を緩めると、ラジオから流行りの曲が流れてきたので口ずさんだ。


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