空魚と海鴉
一匹の魚が空を泳いでいる。
その昔、魚は星々にひとつの願いを叶えてもらい、水から離れ、空へと近づくことができた。それは鳥たちに憧れる魚のささやかな願いだった。しかし、いくら星々の力でも、魚を別のものに変えることはできない。空を泳ぐ力を得た魚は、それでも魚でしかなかったのだ。
けれども魚は燥いで喜んだ。憧れの鳥たちと空を泳ぎ回り、太陽の温かさを感じ、風の涼しさに高揚した。それは、水の外では息ができないという苦しさを忘れてしまうほどに。
笑いに溢れた季節は過ぎ、鳥たちは旅立たなくてはならないと告げた。魚はついては行けない。空を泳ぐのと、飛ぶのでは違うから。翼がなければ、逸れてしまうから。落胆する魚に、時が来ればまた戻ってくると約束をした。
鳥たちを見送ってから、魚は水中への戻り方を忘れてしまったことに気付いた。しかし、大したことではなかった。そこで待っていれば空の仲間が戻ってくるのだから。息苦しさを忘れられる季節が必ず来るのだから。少し、我慢をすればいいだけだ。魚はそう思った。
ある日、魚が毎日するように空を見上げていると、ある少年に声を掛けられた。初めて見る空飛ぶ魚に驚いた少年に、これまでのことを話した。優しいその子はあの手この手で魚を水中に戻そうとした。身体を掴んで海に沈めてくれると、久しぶりに息ができた。しかしまた浮いてしまうのだ。海藻に尾鰭を括りつけられると、確かに浮かないが、身動きが取れずに気持ち悪い。その他にも色々試してくれたが、どれも上手くはいかなかった。
少し残念に思いながらも、落胆はしなかった。魚が望むのはどうせ、鳥たちの舞う空だからだ。寂しくないと言えば嘘になる。それでも空には孤独に耐えるだけの価値がある。そう思っていた魚は、少年に感謝を伝えると、ちょうど戻ってきた鳥たちへと胸を弾ませ、泳いで行った。
季節が過ぎると、魚はまた長い長い間、ひとりぼっちで待った。別の少年がやってきて、また助けてくれようとしたのだが、上手くはいかなかった。上手くいかないのなら、始めから何もしない方がいいのに、と魚は少しだけ苛々したので、やがて手を差し伸べる少年たちに応えることもしなくなった。
どんどん、どんどん、水の感触を忘れてゆく魚は息の仕方も忘れてゆく。どんどん、どんどん、鳥たちのいない時間が辛くなってゆく魚は自分がひとりぼっちなことにも気付かなくなってゆく。
どれほど季節が流れたのだろう。鳥たちはなぜか戻って来ない。とても心細くて、とても息苦しい。そうして初めて空飛ぶ魚は自分を問い質した。自分が望んだものは一体なんだったのだろう、と。鳥たちは自由で楽しそうで、魚はその自由を手に入れたかった。しかし鳥たちの真似事はできても、やはり自分は魚なのだ。彼らの帰りを待って、息苦しさに堪えている自分は果たして自由と言えるのか。水の中で夢を描いていたときよりも、ずっとずっと、不自由ではないのだろうか。もう、普通の魚に戻る方法など分からなくなってしまったのに。
魚は、水面に映る自分の姿を見て、大粒の涙を零している。季節が巡っても、ずっとずっと、泣いている。
あるとき突然、その水面下に何かが通った。知らない形の魚だと思った。それは何度か右へ、左へと、速い動きで舞い踊っているように泳いでいる。空飛ぶ魚が不思議に思っていると、近くでバシャンと飛沫を上げて何かが飛び出した。そこに現れたのは、軽快に飛び回る海鴉だった。海鴉は見たこともない光景に驚いて、魚に尋ねた。
「君は魚だよね? どうして空中に浮いているんだい?」
空飛ぶ魚は渋々身の上話を始めた。もうずっと、鳥たちが戻って来ないのだと告げると、また涙が溢れてきた。海鴉は少し困った顔をした。
「ぼくは海鴉。鳥だけど、泳ぐのがとっても上手いんだ。君の逆だね。だから一緒だね」
「君もひとりぼっちなの?」
「ううん。ぼくはひとりで旅をしているけれど、ひとりぼっちじゃないよ。世界中に、たくさんの友達がいるんだ!」
海鴉は得意そうに言った。魚はその言葉がとても気になった。
「世界?」
「そう。世界には色んな空があって、色んな海があって、色んな大地があるんだよ。だから色んな友達ができるんだ」
魚はどこに行っても同じ海と同じ空が続いているのだと思っていた。どうして鳥たちが旅立つのかを訊いたこともなかったのだ。色んな空とはどういうことだろうと魚が背鰭を傾げると、海鴉も同じような動作で尋ねてきた。
「君はずっとここで待ってるの? 旅には出ないのかい?」
魚は呆気に取られた。自分が旅をすることなど考えたことがなかったからだ。
「ひとりで旅をするのは怖いよ。それに、ぼくはもう鳥でも魚でもないから、どこに行ってもきっと仲間外れになるよ」
そうすると、海鴉はとても不思議そうな顔をして、少し考えた。
「ぼくの友達はみんな違うんだ。違うけれど友達だよ。鳥でも魚でもないなら、君は君ということだよ」
「ぼくは、ぼく?」
「うん。君は空飛ぶ魚だから、空魚くんなんてどう? ぼくと友達になろうよ」
魚は初めて自分が空魚なのだと知った。名前を与えられて嬉しくなり、空魚は小さく頷いた。
「よし! じゃあ、空魚くん、ぼくと一緒に旅に出よう!」
力強く言うと、海鴉は魚の身体を掴んだ。魚は驚いて、どういうことかと尋ねる。
「君は空飛ぶ魚で、ぼくは泳ぐ鳥だ。ふたりならきっと、もっと遠くへ行けるよ」
笑いながらそう言うと、海鴉は軽やかに翼を羽ばたかせ、ふたりは旅に出た。
沢山の冒険があり、沢山の友達ができた。海鴉の言った通り、誰ひとり同じような動物はいなかった。みんな違う場所で、みんな違う生き方をしていた。それでもみんなと仲良くできた。魚はいつしか自分が魚でも鳥でもないことが、それほど大きな悩みではないと思うようになった。海鴉の翼で空を駆けて、自分の尾鰭で海を掻き分けて辿り着く場所はいつも新しい発見があり、驚きがあった。
あるとき空魚と海鴉はとても綺麗な宝石を手に入れた。赤と青に光り輝く、美しい宝物。海鴉はその宝石を真っ二つに分けて、赤い方を空魚に渡した。
「これで、ぼくたちはどこにいてもお互いを見つけられるよ」
そう言う海鴉を空魚は心配そうに見つめた。
「海鴉くん、どこかに行っちゃうの?」
海鴉は嘴を鳴らして大笑いした。
「行かないよ。でもぼくたちは自由だからね。もしかしたら、どこかで別々の冒険に出ることもあるかもしれない。そのときは、別々の場所にいてもお互いのもとに戻って来れるように、この宝石の欠片を持っておくのさ!」
空魚は深い赤の透き通る宝石の欠片を見つめて微笑んだ。
星々はぼくの願いを叶えてくれたんだ。けれど、ぼくは憧れを手に入れても、何かに憧れ続けた。願いがもう叶っているのだと信じられなかった。ぼくは、ぼく以外の何かになりたくて。だから、いつもひとりぼっちだったんだ。
ぼくは、ぼくでいいんだ。海鴉くんにそう教えられて初めてぼくは空魚でよかったと思ったんだ。ぼくが、ぼくのままでいたら、沢山の友達ができた。ひとりでもひとりぼっちじゃなくなった。今は大切な宝石の欠片を持って、もう片方には帰る場所がある。そう思うと、今までよりずっと大きな自由を手に入れられた気がした。ぼくが探し求めていたものはこれなんだ。
空魚が笑うと、つられて海鴉も笑った。
*
「で、結局その宝石ってなんだったんだ?」
晩夏の朝、辛うじて涼やかな潮風がそよぐなか、翔一は首を傾げながら尋ねた。
「なんだよー、感想それだけ? せっかく続き考えたのに」
防波堤を穏やかに撫でにくる波の規則正しい呼吸が心地よく、邪魔をしないようにふたりとも声を抑えている。
「ごめんごめん。ははは。浩太、ずっと気になってたもんな、あの魚のこと。素敵な続き考えてくれて、ありがとな」
軽くあしらわれたようにも思うが、そう言う翔一の笑顔があまりにも柔らかいので、俺は満更でもない。気になって当然だ。あの魚は彼自身なのだから。
「そういえば最近、見なくなったな、あの夢」
「ふは。冒険に出かけてるんだな」
「なるほど」
大人の対応をする翔一。
「てか、まだ宝石の件答えてもらってないけど」
「そうかぁ、気になるかぁ」
「もったいぶるなよ」
「じゃあ、ヒント。ふたりがそれぞれの宝石を繋げると『家族』になります」
「え、なぞなぞ? 抽象的だな」
文句を言いながらもぶつぶつと考え込む彼が堪らなく愛おしく見える。そうしている内にも、空はどんどん明るくなっていく。
「いや。マジで分からん」
「仕方ねぇなー」
俺はすぐ隣に座る彼の耳に小声で言う。
―――― 片方が「いま」、もう片方は「ここ」だよ。
翔一は納得のいかないような表情で見つめてくる。
それでも「なにそれ」と笑って、
一陣の風が彼の髪を揺らす。
漣が穏やかに唄う中、俺もつられて笑って、
淡く染まりゆく朝焼けよりもずっと、
ずっと優しい口付けを交わした。
「空魚」完
最愛の人へ。
あなたの「いま」と「ここ」が、
いつだってつながっていますように。




