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誰しも心の中に小さな星の欠片を持って生まれてくる。それを大事に育てるのだ。
たったひとつしかない、大切な『自分』という欠片。
この世に生まれて、出会いを巡る度、それは膨らんで、輝いたり、くすんだり、濁ったり、様々な色で煌めいたりする。
しかし、その形自体は変わらないのだ。
俺はそれを変えられると思った。母さんもそう思った。
枠が大きければ、上手くはまってしまう。別の形になれたと思えてしまう。
けれど、それは膨らみ続けるのだ。
人生がつけていく小さな傷がひとつ増える度。
知らない誰かの別の欠片と出会う度。
そうしていつしか収まっていたはずの枠が窮屈になる。
また、新しい枠を用意する。そして繰り返す。
そんなことをすればするほど、収まらない自分の形が歪に見えてくる。
自分のしていることがただの応急処置でしかないと悟ってしまう。
そのとき、自分はどんな色で輝いているのか。
果たして、輝いてすらいないのか。
この世には、もうやめてほしいほど、涙が溢れている。
俺は戦争や貧困に苦しむ遠いどこかで生まれたわけではない。暴力と憎しみに溢れた家庭に生まれたわけでもない。
平和で安定した国で、普通にいい人たちのもとで生まれた。
大きな事故に生活を一変させられたわけでも、抗えない運命を強いられたわけでもない。
仲の良い友人と、普通にいい先生に囲まれて健康に育った。
俺のこの涙は何のために流れているのだろう。
俺に危害を与え続けてきたのは、家庭でも社会でもない。自分自身だ。
自らの欠片を拒絶して、別の何かにしようとした。
世間の偏見に傷ついたと言えるほど、真っ直ぐに生きていない。
社会の残酷さに絶望したと言えるほど、真剣に生きていない。
ずっと逃げて、逃げて、逃げて。
まだ、傷ついてもいいところにすら立てていない。
それなのに、誰かが好きになってくれた。その誰かを俺も好きになった。
ぎゅうぎゅうに詰め込んだ欠片から枠を取り払って、沢山の温かい光を注いでくれた。そうして育まれ、成長して、もうどこにも収まりそうになかった。
しかし、スタートラインに立てていない俺は、歩き出さなくてはならない。
自分の形を受け止めて、受け入れて、輝かせて。
だからその一歩をひとりで踏み出さなければならない。
浩太はずっと俺の心に居座るのだろう。
今はそれほど醜くもないあの怪物の隣で、いつだって笑いかけてくれる。
俺が、自分を受け入れる他ないほどに、受け入れようと思うほどに、恋をした人。
そしてずっと願う、心から幸せになってほしいと。
俺よりもずっと強い形をした欠片に出会えるようにと。
俺は浜音から帰って香衣良と榎田に連絡を入れた。
ふたりとも安堵を隠さない声で叱ってくれた。
今度、榎田と釣りに行こうと約束した。そんな遠出ではない、佐久島にでも行って、のんびりと。
香衣良とはきちんと話そうと約束した。確かに愛した彼女が今度こそ、自由に羽ばたけるように。
診療所に通うことにした。分からなくなってしまった自分の形を取り戻すために。抱え込んで、また自分を投げ出さないために。
浩太に約束した通り、自分の幸せを作り出せる人間になれるように。
明日、会社に復帰する。過去数か月が嘘のように穏やかな心模様だ。
相沢に謝らなければならない。俺を導いてくれようとしていたのだ、ずっと。
自分の性的指向を受け入れられるかもしれない、そうではないかもしれない。それでも、飛び越えられないほどの断崖に見えていたものも、少しだけ脅威性が鎮まった。
俺を形成する全てのものの、ごく一部でしかないように思えてきたのだ。
母にその話題を振るつもりはもうない。自分が向き合うのだけで精一杯だから。
ずっと感謝しているし、責める気持ちは微塵もない。母も、精一杯なのだ。
俺自身が意思を持って歩み出せば、理解してくれなくても諦めてはくれると思う。俺を育てた長い年月の中にあった愛情は、勘違いではないはずだから。
父との関係は少し、変わりそうな気がした。劇的なものではない。ただ、前より連絡をとりたいと思うようになりそうなだけだ。
口下手で、人間よりも釣りと向き合う時間の方が圧倒的に多い人だけれど。その分、余計な執着がないのかもしれない。
今回のことで少しだけ、親子の繋がりを感じたのだ。
浜音から帰ってきたときに、父は「あの人は誰だったんだ」と、珍しく踏み込んだ質問をしてきた。「俺が好きになった人」と答えた。
相変わらず不思議な笑いを鳴らせて「ええ人そうだわ」と的外れの返事をしたので、もう終わったんだと伝えた。
一瞬、訝しげな視線を送ったが、それ以上なにを訊くでもなく「ほうか」とだけ言って、新聞を読んでいた。
きっと、浩太と俺の話はありふれたものだ。
話を美化すれば、いくらでも運命や劇的な出会いを語ることができる。しかし、現実にはどこまでも泥臭くて、不格好で、平凡な話なのだ。
人生観が根底から変わったわけではないし、全てを犠牲にして恋に生きようと思うような破滅的な感情が生まれたわけでもない。
唯一無二と言えるほど、お互いを知る時間すらなかったのだ。
互いに抱いた感情はきっと強かった。しかし、それを育む余地はなかった。
俺が俺で、彼が彼だから。
それでも、運命的な出会いだったのかもしれない。
少し。ほんの少しだけ、自分を顧みるくらいには。
ほんの少しだけ、より良い自分に成長したいと思えるくらいには。
それもまた、俺が俺で、浩太が浩太だったから。
人は知らないけれど、少なくとも俺はそう簡単に変われる人間ではなかった。だから、そんな僅かな影響でも、確かに俺たちが出会って、好きになった証なのだ。
浩太に出会って、俺は自分を問い直して、自分を受け入れようとしているのだ。
俺も、少しは浩太に良いと思えるものを残すことができただろうか。
向けてくれた『好き』の気持ちが少しでも報われるくらいの。ほんの僅かな変化でも。
そうすれば、俺もまた浩太の人生にちょっと残ることができる。
自宅に帰ると直ぐに笠貫さんが家族で訪ねてきた。
香衣良たちのおかげで少しは片付いていた部屋はさすがにまだ人を招き入れるほどではなかったので、逆にお邪魔させていただくことにした。
敏明君は酷く苛立った様子でどこに行っていたんだ、と怒っていた。
俺の知り合いが突然、行方不明だと騒いで押しかけたから、実は何かあったのではないかと。心配していた。
中学生になって自意識がだいぶ芽生えたのか、素直には言わなかったが、そうだと理解した。
ご夫婦は息子を宥めると、なぜか頭を下げてきた。とても驚いた。
俺は浩太との一件があってから、息子への影響を懸念して笠貫さんは距離を取っているのだと思っていた。
それに、結局間違いではなかったが、俺の性的指向の疑いを晴らすことができず、嫌悪していたとも。
ご主人は、どう接するべきか分からなかったと言った。悩んでいるようなのに、俺は踏み込むなという気配を出していたから。ひとまず、様子を見てそっとしておこうと思ったと。
しかし、体調は崩すわ、急に父のところに行くわで後悔してしまったそうだ。
奥さんもまた、あの手この手で俺が相談しやすいようにしていたそうだ。
ずっと前の洗濯機事件もそんな試みのひとつだったと打ち明けられた。
「須田さんは、私たち家族にとっては、ただのお隣さんじゃないのよ」
と目を潤ませて言っていた。
なぜ、そこまで俺のことを思ってくれているのか不思議でならなかった。
そして、心配をかけていたこと。俺が信頼していないと、悲しませたことに心を痛めた。
浩太の言う通りだった。
俺が思っているより、ずっと周りは俺のことを見ている。
求める俺の姿なんて関係なく、ただの人として関わろうとしてくれている。
なぜ今まで気付かなかったのだろう。
自分が途方もなく愚かに思えた。
もうひとつ課題があるのだと気付いた。
人の好意をちゃんと受け入れられる自分になりたいと。
そういう願望が生まれた。
部屋に戻ると、リビングの隅に置いたままの水槽が目に入った。
今度、新しい魚を迎えようと思った。




