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空魚  作者: 白雨 梦乃
第十一章・勇魚(いさな)
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11-4


 なぜ逃げようとしたのかは、自分でもよく分からない。

 きっと、ずっとそうしてきたから身体が反射的に動いたのかもしれない。

 名前が呼ばれて、見えた姿に心の底から脱力するような感覚が一瞬怖くなったのかもしれない。

 もう少しだけ、自分の中で整理がつく時間を稼ぎたかったのかもしれない。


 転んだ体を受け止める腕はどこまでも優しくて。感情を堰き止められるものは何一つ残っていなかった。

 最初に明確に感じたのは、浩太を傷付けてしまった罪悪感。前のように自分を弁明する手段ではなく、純粋に。大事な人を傷付けてしまったことへの後悔だった。


 建前も何もなくなってしまった、空っぽのような俺の手を引くように浩太は民宿まで連れて行った。

 液体のように形が保てない。入院中に感じていたような、放心状態だった。促されるまま座って、毛布を掛けられ。浩太の顔を覗くのが恐ろしくて只管俯いていた。

 自分のことを無様だと思えるほどの余裕すらなくて、一度落ち着いてもまた涙が、潮の満ち引きのように押し寄せてきた。


 出されたラーメンは、もしかしたらこの世で一番温かいものかもしれない。凍り付いていたなにかが溶けて、再び涙が出た。

 この男はどうしてこんなにも優しいのだろうと思った。どうして、ここまで俺のことを気に掛けてくれるのだろう。こんな俺を、なぜ好きになってしまったのだろう。

 自分のことながら、浩太を不憫に思った。



 浩太は香衣良の連絡を受けたと言う。

 それほど心配させてしまったのだと、改めて思い知った。彼女は俺がいずれここに来ることが分かっていたのだろうか。それは、どんな気持ちで受け取ったのだろうか。

 榎田や笠貫さんまで巻き込んで。浩太は躊躇いもなく名古屋へ車を走らせて。これほどの迷惑をかけることを避けられたのだろうか。いや、当然避けられた。

 けれど、必然でもあったのかもしれない。


「皆、心配してて。こんなにお前のことを思ってくれてる人がいるんだって、俺ちょっと感動した。でも、お前はきっと、今は電話に出るのも辛かったんだよな?」


 どうしてこれほど理解してくれようとするのだろう。

 これ以上の優しさを今の俺は抱えきれないような気がした。その零れてしまう分に乗せて、話し始めた。

 今、自分が分かっているだけの須田翔一という人間の気持ちを。彼に出会って、決定的に変わりつつある自分の気持ちを。

 しかし、最後に踏み込めない。言葉を濁してしまう。彼に伝えたかった核心。もっと、傷付けてしまうかもしれないから。


「……翔一は、それを話してくれるために、浜音ここまで来てくれたのか?」


 背中を押されるような気がした。

 首を横に振って、深く息を吸ってみた。俺に残っている勇気を搔き集めるように。

 効果、期待値以上。


 顔を上げると浩太の視線と合った。その瞳が含む温もりが体中に伝わった。

 憤りを全く感じていないとは思わない、それでもその目は俺に『好きだ』と言ったときと同じくらい包み込んでくるものだった。


「浩太と……。浩太と、ちゃんと向き合いに来た」


 彼は驚くような顔はしなかった。俺が浜音に来ている時点で、ある程度察しはつくのだろう。

 優しい表情のまま頷いて、俺に言葉を探す時間を与えてくれる。



「もう、浩太のこと傷付けたくないんだ。もしかしたら、俺たちの間にあったことは既に浩太の中では整理がついていて。そのままにしといた方が、いいのかなって。でも……」


 また言葉がつっかえてしまう。視線を落としてしまいそうになる。

 それを感じ取ったのか、浩太は深くて静かな声で言った。


「なんでも聞くよ。翔一の言いたいこと、ちゃんと知りたいから」


 俺は唇の裏を噛んで、じっくり言葉を選んだ。


「……浩太の気持ちを知ったとき。関係が崩れるって。その……。それだけが理由で、あんな行動とったわけじゃ、ないんだ」


 彼の瞳に疑問符が現れたが表情は変えなかった。


「俺、ずっと隠して生きてきたんだ。周りにも、自分にも。本当は、どこかで気付いていたのかもしれないし。浩太の視線や口調にも……。でも、俺認められなくて。今でも、それは難しくて。でもこのままじゃ、お前はずっと誤解したままで。あんなに傷付けたのに、分からないままなんて狡くて……」


 浩太は益々分からないような顔をした。

 どれほど探しても正しい言い方などないように思えた。そのもどかしさなのか、俺の感情自体の苦しさなのか、再び涙が溢れてきた。

 それでも、視線を避けるわけにはいかなくて。


「浩太の気持ち……本当は。本当は……俺も。そうだった……」


 暫く沈黙が続いた。

 どれだけ経っても浩太は言葉の意味を理解できないように、少し困惑した顔をしていた。

 妙な間が空きすぎたあと、「ん?」とひとことだけ彼が言うと、もう一度大きく息を吸って、ちゃんと言葉にしようと思った。

 しかし、目を見たままではどうしても上手くいかず、遂に視線を落としてしまった。



「浩太が、……好きだった。その、浩太と同じ意味で……」



 そこまで言っても、なんの言葉も返ってこなかった。涙を拭う手に隠れながら、彼の顔を窺った。

 眉間に皺を寄せて固まっている。胸に重い圧力を感じる。でも、それも受け入れる覚悟でここに来たはずだった。

 だから、震えないように歯を食いしばって、手を下ろす。


「翔一……それは…………、え? ちょ、ん?」


 少し気の抜けたような声だった。

 様子から見て、あらゆることを受け止める気持ちで俺の話を聞いていた。しかし、これは想定外の内容だったようだ。

 それもそうだ。まさに正反対の行動を取り続けていたのだから。

 しかし、漸く言えた。あのとき、言うべきだった言葉。


「ずっと、認められなかった。浩太と出会うより、ずっと前から。押し殺してきたんだ。俺が、その、そうだっていうのを。普通じゃないとか、気持ち悪いって言われたくないから。だから、あんなに簡単に言う浩太が、怖くて。自分が分からなくなって。今までどうやって生きてきたのかも、どんな顔していたのかも分からなくなって。ずっと苦しくて。浩太のせいにして。酷い形で、お前に八つ当たりして……」


 押し寄せる嗚咽を堪えようとするけれど、上手くいかない。

 何度か口を開けて何かを言いだそうとする浩太は、俺が「本当に、ごめん」と言い終えると、酷く苦しそうな笑顔を見せた。


「俺も……、本当に翔一の生活、めちゃくちゃにしちゃってたんだな。なんにも考えてなかった。独りよがりで、勝手に単純化して。思ってたんだ、もしかしたら翔一も同じ気持ちなんじゃないかって。でも、それがお前にとってどんな意味かなんて、考えてなくて。俺も、ごめんな翔一。こんな、しなくてもいい、苦しい思いさせて……ごめん」


 浩太は言葉を繋げている内に声が裏返って、絞り出すように言った。


「本当に、出会わない方が良かったな……俺たち」


 縮こまるように顔を片手で覆って、掠れた声で彼は言った。

 こんなことになっても、まだ逃げ道を与えてくれている。しかし、今度はそこに走り込むようなことはしたくなかった。


「俺は本当に救われてたんだ。いや、今だって。時間かかって。正直、今でもよく分からないけど。でも、いつかはこうなってたんだ。一生仮面被って生きていく覚悟なんて、本当はできてなかったんだ。だから、そのきっかけが、浩太で良かった。出会えて、良かったんだ」


 彼はまたその痛々しい微笑みを向けた。


「思ったよ。名古屋に行ってお前の周りにいる人たちに会って。翔一は仮面被って生きてきたつもりかもしれないけど、お前の周りはちゃんと、本当のお前を見てるんだなって。お前が思ってるよりもずっと、お前のこと分かっている人が沢山いるんだって」



 交わることを頑なに拒んだ二つの世界が交わってしまって、それは思いの外壊れなかった。

 俺もまた、思っているほど壊れてはいないのだろうか。

 そんな優しい世界が本当にあるのだろうか。

 少なくとも浩太の瞳に映っている世界は、本当にそうなのだろう。


 本当は確認したい。俺への気持ちは今もどこかにあるのか。

 そして伝えたい。今でも浩太が好きだということ。

 しかしそれは彼をまた傷付けてしまう選択だった。気持ちが繋がっていたとしても、俺の内側が突然変わるわけではない。

 浩太の望む——いや、浩太に相応しい関係性を作れるほど、強くないから。

 そして、俺自身の生活は今、あまりにも荒れているから。


 同じことを察してか、彼もまたそれは確かめてこなかった。

 目元を拭いながら、思いついたように言った。


「そうだった。榎田さんから伝言あったんだ。『ミシマオコゼ呼ばわりは許してやるから、連絡寄越せ。じゃないと絶交だ』だって」

「浩太、それバラしたの?」

「ふは、わるい。ついな」



 みっともない状況だった。

 三十前後の男二人が顔をぐしゃぐしゃにして。青臭くて。不器用で。気持ち悪いかもしれない。

 でも、自分がこれほど人間らしいと思ったこともない。

 奥底に溜まっていたものが一気に軽くなったような気がする。消えたわけではないし、浄化されたわけでもない。ただ、軽くなっただけ。

 「あとそうだ。ちょっと待ってて」と言われて、浩太は店の奥に消えていった。


 少しして戻ってきた彼から一枚の絵を受け取った。

 白紙を埋め尽くす鮮やかな色彩で、民宿が描かれていた。中央に描かれた人物はすぐに判別できる。

 浩太が言っていた胡桃ちゃんの大作。あの日のバーベキューの記憶。

 そういえば、あのとき、胡桃ちゃんに冷汗をかかされた。浩太が助け船のつもりで言った『おう、翔一も大好きだぞ!』には、胡桃ちゃんの質問よりも動揺した。

 それにも、俺は気付いていたのだろう。


「ありがとう。大事にする」


 できる限りの明るさを浩太に向けた。

 なんとなく分かっている。俺も、彼も。

 これが最後なのだと。


「大丈夫か?」


 可愛らしい絵を見ながら小さく頷いた。


「うん。きっと大丈夫。浩太は?」

「ああ。もう大丈夫だ」




 夕方に差し掛かり、そろそろ帰ると言った。

 遅いので泊まって行けば良いとは言われなかった。

 しかし、入口で挨拶を交わすと、思い立ったように浩太は早口で言った。


「翔一。ごめん。お前が嫌ならいいんだ。けど、あのときのやつ……その、もう一度だけ、ちゃんとやっちゃだめかな?」


 すぐには分からなかった。

 しかし、浩太もまた別の意味で、あそこで止まった時間があるのかもしれないと思った。

 本音は嬉しかった。俺たちの未来は変えられない。過去もそのままだ。けれど、その隙間に一度だけ、ほんの一瞬、違う可能性を信じてみた記憶を残す。

 俺は頷いた。

 浩太はゆっくりと深呼吸をした。



「翔一、話したいことがあるんだ」


「うん」


「俺は、翔一に出会えて本当に良かった。友達として、すごく大切に思ってる」


「うん」


「けど、いつの間にか別の感情も生まれて。お前には迷惑かもしれない。それでも……それでも、お前にだけは嘘を吐きたくないから」


「……」


「好きになった。今でも、大好きだ」



 もっと早く自分のことに興味を持っていれば。

 あのときも、今も、別の結末があったのかもしれない。

 この真剣な眼差しで見つめてくる男に、応えることができたのかもしれない。


 両腕を彼の肩に回す。

 爪先立ちしないと届かない、幅の広い、男の肩。

 それが小刻みに震えて、躊躇いの残る腕が腰に回されて。

 普通じゃない。

 異常なはずだ。

 なのに、俺は今、どこよりもそこに居場所があるように感じた。

 だから俺の真実をこの一瞬にありったけ詰め込んだ。



「俺も、大好きだ」



 腕に一層力がこもって、体を持ち上げられそうなほど。

 そして、喉奥が窄んでいるような声が呟く。



「翔一。幸せになってほしい、誰よりも。お前の笑顔が一番好きだ」







 こうして、俺と浩太の始まらなかった『恋』は終わった。


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