11-3
「いつから。その……気付いてたんだ?」
落ち着いた沈黙が続く帰りの車内、唐突に尋ねた。
引っ掛かっていたのだ。父にとって俺の振る舞いが明確だったのか。或いは別の事柄を経由して勘付いたのか。
しかし、どうにも言葉にできなくて、結局よく分からないタイミングで喉の奥から出てきた。
立ち入った会話をしてこなかった父にその質問をする歯痒さと、それが差す実態を今でも押し殺してしまいたい衝動とが相まって、主語を濁した言葉をそのまま察してくれることを祈った。
道路に視線を向けたまま、天気の話をするような口調が返ってきた。
「年明けぐらいにな、桂子さんから電話がきてな。話聞いとったら、何となくそんな気がしただけだわ」
母だったか。
やはり俺が言おうとしていたことを理解していたのだ。少なくとも、誰かを責めなくてはいられないくらいには。
容易に想像できた。憤怒に駆られて、『あんたのせいよ』と凄まじい剣幕で父を怒鳴りつける母の姿。
記憶を辿れば、母の言動にはずっと違和感があった。きっと、俺よりも早くそのことに気付いて、ずっと恐れていたのではないだろうか。だから、あれほど徹底的にその種を潰してきた。
沈んでいく感情の重さで体が小さく屈もうとする。
「大丈夫だ。納得するまで少し待ったりゃあ。本当はあの人が一番よう分かっとるんだわ」
今まで受け入れられなかったのに、そんなことがあるのだろうか。
それは自分にも突き付けた疑問に思えた。
流れる街の様々な明かりを眺めて、そんな日が訪れることへの不信感を押し返した。
「お前自身が納得しとるんなら、の話だけどな」
流し目で父が加える。
納得。酷く浮いて見える言葉だと思った。自分がどうしたいのか、答えはまだ出ていなかったし、明確に名前を付けた実態もいまだ受け止めきれる気がしなかった。
耐えて、抗うべき対象としか見てこなかったのに、今更それを受け取れるような心の形になることはできるのだろうか。
ただし、今は俺の本性を知っていても何一つ関係が変わらない存在が、この世にひとりはいる。
父にこのような感謝と尊敬の混ざった気持ちを抱いたことはあっただろうか。歳をとった姿は、それでも今までになく心強かった。
それだけで、少し頭の霧が晴れるような気がした。
父は何一つ聞き返してはこなかった。
なぜ、今になって悩んでいるのか。なぜ、体を壊すまで抱え込んでいるのか。知ったような顔をしているわけではないし、軽視している様子もない。ただ俺の話せる範囲以上には踏み込まないと示しているようだった。
家に帰り、普段と変わらない様子で満足そうに鱸を三枚に下ろした。俺は大きさを揃えた切り身を竜田揚げにした。味はきちんとついているはずなのに、チューブの味噌だれを掛けた父との討論が白熱した。
その夜、あの夢を見た。
いつの間にか醜悪な悪夢に変わっていた光景が、前のような静かなものに戻っていた。
渡り鳥はやはり来なくて、代わりに聞いたことのない軽快な声が魚に語りかけていた。内容を聞き取れなかったのか、忘れてしまったのかは分からない。
けれど目が覚めるとなぜか、少しだけ胸の中の散らかりが片付いた気がした。
俺はずっと自分の輪郭に拘ってきた。
こうあるべき。そうするべき。ああなるべき。
社会や環境に提示された形に嵌れば間違いはないと思ってきた。その形を保つことこそが「立派な大人」であることだと思ってきた。それが、人間の核心だとすら思っていた。
しかし、そのルールに自分自身が追い付けなくなった。
そうして初めて自分を問うことになった。
こうありたい。そうしたい。ああなりたい。
俺の中にはその形式の言葉への答えはなかった。義務、常識、世間体、それは手段ではなく目的だった。ずっとそれが正解だと思っていた。その正解を追っていくために、俺は逃げる必要があった。
どこかで理解していたのだ、自分の危うさに。決められた枠から零れてしまう、収まり切れない。そんな焦燥感がずっと俺を突き動かしていたのだろう。
全部、無意識に放り込んだから、浩太に出会ってもすぐには気付かなかった。
彼と一緒にいると『自分』というものがとてもよく見えた。その感覚が新鮮で、嬉しくて。
非の打ち所がない理想を追い求めている生活の平行線で、浩太を通して俺は『自分』に出会った。少なくとも、俺自身が好きになれるような、『自分』。
一度も考えたことがなかったのだ、社会の柵とは関係なく存在する自分と向き合うなんて。それがあまりにも肌によく馴染むから、危機感を抱かなかった。
気付いたら、逃げられない場所まで辿り着いていた。
どうなりたいのか、何がしたいのかなんて抽象的過ぎて分からない。
けれど、今までの積み重ねを無視してでも身を投じた『自分』の形があった。
浩太の瞳に映った俺の姿。そこまでしたということは、実際に求めていたということではないだろうか。
義務と願望が重なる場所にひとつだけ明確なものがある。俺は前を進まなくてはならないし、進みたいと思っている。
そうするためには、時間が止まり、仮面が崩れ始めた、あの決定的な瞬間に戻る必要があるのだと思う。
浩太に『好き』と言われて、逃げた瞬間。その二文字に湧き上がった形容し難い感情の渦に飲まれ、自分の奥深くに仕舞い込んでいた秘密が暴れ出し、今まで積み重ねてきたものが崩壊し始めた。
ずっとそこで足踏みをしているのだ。だから、進むには向き合うべきだと思った。浩太に、本当のことを打ち明けるべきだと思った。
仕事中の父に留守番電話を残し、食事だけ用意して、俺は浜音へと車を出した。
日本海を目指す道のりは寂しげな風景がずっと続いていた。
たかが季節が違うだけの、同じ景色のはずなのに、以前の高揚も鮮やかさも解放感もどこにもなく、単色の冷たい空がどこまでも広がっていた。
殆ど何も考えずに家を出た。
こんな思い付きのような衝動に従ったことなんてあっただろうか。今だからそんなことができるのだろうか。
俺は敢えて自分自身に視線を向けていた。なぜなら目を逸らせば、浩太の方へと思考が向くから。
しかし、いつかの琵琶湖を通り過ぎたところで心臓が強く主張してくるようになった。
浩太は、もしかしたら会ってくれないかもしれない。とっくに終わった話だと、冷笑してくるかもしれない。今更なんだと軽蔑の視線を向けられるかもしれない。
全部、俺が彼にしてきたことだ。話す余地すら与えなかったのだ。そうなって当然でしかなかった。
最後に聞いた浩太の声が記憶の奥から響いてきた。あのとき、どんな気持ちで彼は『大丈夫だから』と言っていたのだろう。
俺は脅威に感じる自分の感情をただ遠ざけるのに必死で。それを罪悪感なのだと勝手に思い込んで。彼の話なんて取り合わなかった。
それでも、確かに聞こえてきた。彼が、俺のために、諦める音。
そこまで追い込んでおいて。そこまで傷付けておいて。それを知った上で、俺は向かうのか。今更、話したいと。
自分が遂に逃げ切れなくなったから。どの面下げて。虫が良すぎる。だいたい、何を伝えに行くのだ。それで何が変わるというのだ。
何度も引き返しそうになった。
しかし、その度に浩太の『大丈夫』という声がして、自分を言い聞かせた。彼には俺を明確に拒絶する権利がある。そして俺は彼に事実を伝える義務がある。最後に、俺は彼にちゃんと向き合いたいという願望がある。
高速の看板を見る度に、出口車線を目掛けて回してしまいそうなハンドルを強く握りしめた。
到着した浜音は記憶のどこにもない町に見えた。
数分走れば、浩太がいる。そう思うと愈々体が硬直した。一度車を停めて、頭の中で何度も彼との会話を思い描いて、反復して。
また踵を返してしまいそうで。全てが無意味に思えてきて。だから、俺は一度浜辺を歩くことにした。また逃げてしまう手段から少し離れるために。
風が容赦なく襲ってきて、海の声も低く轟き、見知らぬものに感じられた。まるで拒まれているような気持ちになり眉を顰めた。
父から借りたコートに手を突っ込んで海岸線に沿って歩き出した。
途中スマホに電源を入れた。数分間に渡って不在着信と通知が続いた。
香衣良、母、榎田、その他にも友人知人からの何気ないメッセージ。絶えず振動する端末を睨んだ。点けなければよかった。
しかし、父には何かあれば連絡するように伝えているので仕方がない。案の定、最新の通知で父からの留守電が入っていた。
そして、その少し下に浩太の名前が表示されていた。
あまりの偶然に心臓が早鐘を鳴らす中、留守電を確認した。
先ずは父の穏やかな声がした。
「おう、翔一。メッセージ聞いたで。分かったわ、運転気ぃつけてな。あと、お前の知り合いっていう人から連絡あったぞ。お隣さんに電話番号聞いたらしいわ。お前が浜音に行っとるって伝えたら、そっち行くって言っとったぞ。えーと、島崎さんだったかな。ほいじゃあな、何かあったら連絡してこい」
どうして浩太が父に。疑問の波が脳内を襲った。
整理できないまま、香衣良からのメッセージが再生された。プレッシャーをかけないよう気を遣った内容だった。ただ、連絡してほしい、せめてどこにいるのか教えてほしいと。
スマホを消していたから気付かなかった。心配して当然だ、せめて居場所だけでも伝えておくべきだったと思った。
続いて聞こえたのは浩太の声だった。
少し焦っているような、苛立ちも感じる口調だった。しかし、その声が聞こえてきた途端、喉が詰まった。胸の中に漣のように熱とも不安とも言える感情が広がった。
「翔一、浩太だけど、お前いまどこにいるんだよ? 嫌だろうけど、これ聞いたらせめてメッセージだけでも送って。な? 俺これからそっち行くから」
状況が掴めないメッセージだった。
なぜ浩太が名古屋に行く必要があったのか。父の言う隣人は笠貫さんしかいない。では、彼は自宅まで行ったということで、俺を探しているということになる。
冷静に考えれば無数に不明点が浮かび上がる。しかし、俺は浩太の声を聞いただけですでに許容範囲を超えていた。
胸が苦しくなって、気付いたら涙が零れそうになっていた。
俺を探しに行ったということは、まだ話してくれるということだろうか。俺には、まだ彼と向き合うことが許されているのだろうか。
声を聞いただけで、これほどにも会いたくなる。同じくらい怖くなる。
どうすればいいか分からず、スマホをポケットに仕舞って、また砂の上に足跡を作っていった。
記憶のなかより暗い海に、所々、日差しが小さな煌めきを生んでいる。
俺はどうすればいいのだろう。民宿で浩太の帰りを待つ。いっそのこと電話してみる。
行動を決めあぐねて、暫く何もできずにただ海を眺めていた。
「翔一!」




