11-2
太平洋が吹いている。
鼻の先や耳に北西風がぶつかってじん、と痛む。
夜の名古屋港周辺の工業地帯は昔から好きだった。高く入り組んだパイプや建造物が赤や白の光を夜空に刺し、コンテナヤードのクレーンが怪獣のように首を伸ばして、どこか寂しさを帯びたオレンジ色の常夜灯が辺りの輪郭を濃くする。
近くの橋がトラックや車の低い走行音を飛ばして、それらが全部、黒っぽい水面に細かい縁取りの光を浮かび上がらせる。
その光景を、少し外れた埠頭から一望すれば、大海の厳格な未知が文明の心許ない瞬きを反照する、不思議な境界線が見えるのだ。
パリッとした空気に二人分の息が形を作る。
防寒具はばっちり装着しているが、流石にスマホで潮汐表を操作するには指を湿気った冷気に晒すしかない。
「満潮は七時四十分。下げが効くのは八時半頃だって」
「んん。行けるかもしれんで」
父親は呑気に持参の保温ボトルからコーヒーを飲む。
本命であるシーバス釣りならこの時期、バチ抜けに当たれば期待値も上がる。所謂イソメやジャリメが属する沙蚕類が産卵のために水中へ一斉に出てくること。
魚にとってはビュッフェ状態で、この時期は渋い傾向のシーバスも集まった小魚を狙って活性が上がる。
釣り人にとっては最高の隠れ蓑というわけだ。
必ず起こるわけではないが、潮回りや時間帯、流れのヨレを上手く読めば少しは予測できる。俺には難儀な業だが、上級者の父は今晩は可能性が高いと踏んでいる。
バチ抜けは満潮の引き始めが狙い目なので、取り敢えず時合まで流れを見る程度に釣り糸を垂らす。
手袋は嵌め直したが、片手はポケットに突っ込んでカイロを掴む。
どこからか工場音がする。コンクリートの護岸を洗う波音と、心地よい無言。何となく、『これは間違いなく俺自身だ』と思える形をした感情がそこにある。
ホッとするのだ。何も言わなくていい。何者でなくてもいい。そんな瞬間。
それを共有できたのは今まで父の他には浩太だけで、どうしても彼の横顔がチラつく。前ほど罪悪感はなくなったのかもしれない。
ただ、今でも胸を灼く感情。会いたくなって、会えないことを思い出して、目頭が熱くなる。鼻を啜っても寒さのせいにできる。
俺は父の視界から外れていることを確認する。どうしても涙が溢れてしまうから。暖色の常夜灯がそれに染みて、夜に溶かしてくれる。俺と海以外、誰にも気付かれないように。
「なぁ、翔一。シーバスの和名は?」
唐突に訊いてきた。
俺は咄嗟に頬を拭って振り向くと、幼い頃に見たそれよりずっと小さく感じる背中が見えた。
「何急に。出世魚だろ。セイゴ、マダカ、スズキ。あと、地域によってはフッコとか、ハネとか……」
「へっへっ。まぁ、そりゃ知っとるわな」
教えた張本人だろうに。
鱸の名前の話となれば次に来る蘊蓄も知っている。父が好きな語源の一説。一言一句真似できると思うけれど、少し声を聞いていたい気分だった。
「成魚になる前、まだ子どもだで、セイゴ。スズキって呼ぶにゃまだ早いで、マダカ。一皮剥けて、すすいだみたいに清らかになったら『すすぎ』。それが訛って、スズキ。魚の成長を見守って名前を変えるなんて、昔の人も物好きだわな。へっへっへっ」
魚も人間も成長するに連れて色んな名前を貰って、どんどん広い水域を泳いでいく。
大学に入ったばかりのときに言っていた記憶がある。新しい『大学生』という名を思う存分生き抜け、というような話だっただろうか。
定番の持論を混ぜた雑学。何かを伝えたいとき、いつもそうして遠回しに言いたがる。嫌いではなかった、少しだけ父の見ている世界が覗ける気がして。
「俺なぁ、最近思ったんだわ。スズキって、自分が人間にそう呼ばれとるなんて、思ってもみないだろうなって。ましてや、わざわざ大きさで名前変えられとるとかな。知ったら思うわな。『人間ちゅうのは、ほんとたぁけだがねぇ』って。へっへっ。セイゴでもマダカでもスズキでも、自分はなんも変わらんのに、ってなぁ。人間のよく分からん都合で呼び分けとるだけで」
目を見開いて父の背を見つめた。何も映さない後ろ姿はそれでも何かを訴えていた。
初めて聞いた持論が何を指しているのか。いや、何を察した上でそんな話をしているのか。
コーヒーをまた一口飲むと続けた。
「そいつはそいつだわな。それでええのになぁ」
俯いた鼻先から冷えていきながら零れる雫が地面に跡を付ける。震えているせいで、上手く声が抑えられない。息が乱れて、視界もぼやけて。
涙腺よりずっと深い所から込み上げるそれは、俺でも得体が知れない。ただ、その言葉が自分の中に沈んでいく。大事に溜めた汚泥のところまで。
栓を抜くように、それが溶け出していったような気がした。そうか、この涙はそれか。
「……っ、……うぅ……」
どこまで理解して喋っているのか分からない。しかし、あまりにも的確に、心を抉る傷口を優しく抑えてきた。
父は見てきた。周りに諂い、薄れていく俺の生き方。それをどう思っているのかは定かではない。
父も当然、柵に縛られて生きている。どんな大人だってそうだ。何かを諭すには親子の時間は少なすぎて、いつだって微妙な距離がある。丁度、釣り椅子を並べたくらいの距離。
だから婉曲に言うのだろう。どうしても伝えたいと思ったときだけ。
「俺……、父さんっ……俺……っ」
打ち明けるべきか。
もしそれが想定とは違っていたら。もし突然態度が、視線が変わったら。
その先にある言葉がこの世に生まれていいものか、自分でも分からないのに。
「翔一」
「……」
「シーバスの話だ、シーバスの」
いつの間にか竿を上げて、困ったような笑顔を向けていた。「あっちの流れも見てくるわ」と言って埠頭の反対方向に足を向けた。
羞恥の重さで項垂れている俺を通り過ぎるときに、しっかりとした感触が頭の上に乗せられた。
「そういうのはな、お前がよしと思ったときに言やあええんだわ」
遠ざかる足音に届かないように気を張って、声を殺してずっと泣いていた。
涙が夜風に当たった冷たい感触がまだある。
父が定めたポイントで潮の様子を伺っている。水面をヘッドライトで照らしていると、赤錆びた糸屑のようなものが一本、また一本と流れてきた。バチだ。
大抵の人には確実なホラー映像だろう。かくいう俺もこの光景にはざわつく。流石に何十、何百という虫が濁った水の中、くねくねと泳ぎ回っていると、虫慣れしていても少しゾッとする。
父は予想的中に満面の笑みを浮かべて、細身のルアーを付けたシーバスロッドを緩やかに動かして、潮に乗せる。
俺もまた少し離れて同じ動きをする。
「巻かずに流せよ。バチは逃げん」
「分かってるよ」
最後に一緒に釣りをしたのはいつだったか。
多分、名古屋に越してきたばかりの一度切り。今でも子どもに教えるようにいちいち説明する。
それが少し可笑しくて笑った。
竿先で流れを感じながら、微妙に調整した。
暫く蠢く海面を眺めていると、クッと抑え込まれたのが伝わり、竿先がふっと重くなった。黒い波が横へ走ると水面が盛り上がる。
ひょっとしたらいきなり本命かもしれない。「おっ」と声を出すと、「お前が先か、生意気な」と笑っていた。
俺は竿を立てると、水面が白く割れて銀色の魚体が跳ね、首を振った。エラ洗いに対抗して竿を下げ、ラインの張りを保つ。
何度かドラグを鳴らしながら横走るが、やがて動きが鈍くなる。父がタモの柄を伸ばして、網を水面に落とす。
獲物の頭をその方向に向けさせて入れる。燥ぐ声でタモが引き上げられる。
「六十はあるなぁ!」
銀色の体が網の中で暴れると、キラキラとライトの照り返しを瞬かせる。見込み通り、六十二センチの鱸だった。
魚の腹を押さえ、鼻先を近付けた父は、「食べれるだろ」と曖昧に言う。血抜きを済ませて、氷の入ったクーラーボックスに収めた姿を見て感心そうにしていた。
「動きが滑らかになったな、翔一」
「そりゃどうも」
クーラーを閉める姿を見て、きっと大丈夫だと思った。
「あのさ、父さん」
「んん?」
「俺……、ゲイ、なんだと、思う」
初めて音になって口から出た二文字は諦念の味がした。
その言葉を発した安堵感も調和感も、誤魔化せるようなものではなくて、改めて胸に迫る。
父は振り返らずにただ、
「そうか」
「うん……ごめん」
父は立ち上がり、舌打ちをしながら俺を睨んだ。
一瞬怯んだ。
「たぁけぇ、お前なに謝っとるんだ」
すぐに表情は柔らかく解けて、頭に磯臭い手が添えられた。
「話してくれて、ありがとうな。へっへっ。勇敢な自慢の息子だな、翔一は」
受け入れられた。
こんなに醜い本性が、なんの嫌悪の色もなく。
俺は大袈裟にその手を振り払い、その勢いで目元を拭った。
背を向けて、全く感情を隠せていないことを理解しながらも吐いた。
「今更、父親ぶんなよ。それに臭ぇ」
澄み渡る冬夜の空気に父の「へぇっへっへっへ」という独特な笑い声が響いた。




