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空魚  作者: 白雨 梦乃
第十一章・勇魚(いさな)
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11-1


 速く。もっと速く。

 もう全部振り切れるほどに。

 全部置いていくように。

 足に無数の釣り糸が絡みつくように、砂の中を走っているように、重くて仕方がなくても。


 速く。もっと速く。

 捕まってはならない。

 逃げ切らなければならない。

 生きるために。こんな糸ぶった切ってやる。


 波が叫んでいる。風も。いや、海と世界全体の咆哮が聞こえる。

 目を瞑る。知らない。知らない知らない。

 逃げるんだ。速く。もっともっと速く。もっと遠く。



 浩太にあの言葉を言われてから、ずっと走っていたような気がする。

 彼の瞳に映る自分の姿は歪んでいるのだと思っていた。そこから垣間見えてしまう世界は間違っていると思っていた。

 だから逃げて、逃げて。

 しかしどんなに遠ざかっても、自分自身はどこにでもついてくる。

 気付けば歪んだ姿のまま、どこまでも。


 それまで鏡に映っていた俺の姿も、世界の形も疑ったことがなかった。それこそが歪んでいるなんて思ったことがなかった。

 なのに、どうしてこうも何もかもが気持ち悪い。今まであった形に戻れない。そう思えば思うほど、俺は逃げ続けた。


 俺は何回、自分を殺してきたのだろう。

 最初の自分が分からないほど、何度も何度も、そうしてきた。自らの形を整えて、合わせて、削いで。

 しかし、結局何のためだったのだろう。俺は何を恐れてそう生きてきたのだろう。


 父の不在、母の拒絶、友人の視線、会社の評価。

 内から崩れているのにそれが何になるというのだろう。いや、本当に恐れていたのはきっと、自分の本来の形があってはならないものだと知ることだ。


 何事に対しても一定の距離を保ってきたつもりだった。傷つかないように、綻びがバレないように。

 けれど酷く無様だ。一番距離を置きたかったものにだけは、どうしたって過剰に反応してしまう。

 同性愛への生理的な忌避感が、結局自分自身への嫌悪だったなんて。それを無意識にでも曝け出してしまうほど、脆い防壁だったなんて。



 この俺の形をどうすればいい。



 病院でその事実に気付いてから、呆然とそんなことばかり考えている。

 気付いたからと言って何を変えられるわけでもない。先が見えない、この人生のゴール、向かうべき未来図。

 不思議とここ数か月感じていた強迫観念は引き、平穏とも言える空白を感じていた。


 公の場で意味もなく泣き崩れた俺のもとに、病院の心理士が訪ねて来た。

 抱えきれなくなっていた不安は穏やかに誘導されて、はっきり言っていないにも関わらず先生は理解したようだった。

 自分自身を欺いてきた俺が、目を背けられないほど追い詰められていること。それを受け入れたくはないのに、拒むことも叶わなくて、持て余していること。

 長々と話して、無論何一つ解決するわけではないが、胸の奥にある静けさはそのお陰のような気がする。

 その先生が言った。


『名前を付けるか付けないか、受け入れるか受け入れないか、正解があるものではありません。生き方は本当に人それぞれです。ただ、須田さんが今感じている戸惑いや苦しさは、確かにあるものですから。ちゃんと見てあげましょう。一緒に、その声を聞いていきましょう』


 心の整理がつくわけではない。時間がかかって当然だと言われた。

 自分のことを分析されるのは気分の良いものではないが、安堵のようなものを感じた。俺の人生に何の関係もない人が、寄り添ってくれている。

 必死に否定する能から、とにかく現状を把握する能へと移行した。


 だから俺は何も言わずに退院した。一度、全てをさらに戻す必要を感じたのだ。

 特に香衣良を心配させることが気がかりだった俺に、『自分と向き合う時間は、結果的に、周りとどう向き合うかを考える時間にもなると思いますよ』と先生が勇気づけてくれた。


 彼女とはちゃんと話すべきだとは思った。

 しかし、とにかく様々なものと一度距離を置かなければならないと感じていた。

 社会人として身勝手な行動だと、母は怒ることだろう。実際に正しいのかもしれない。それなりに掛かる心配や迷惑も想像できていた。

 しかし、その『ちゃんとしていない社会人』の行動に、心が動いた。まるで息を吹き返すように。



 父のアパートに転がり込むことにした。

 何も聞かれないだろうし、小さい頃、殆ど使わなかった自分の部屋があるから。泊まっていくような友人がいるとは思えないが、それは今でも物置になることなく存在し続けている。

 俺は隣人の笠貫さん、そして部長に、今週いっぱいは連絡先として父の電話番号を渡した。それもまた、父は何も尋ね返さず承諾してくれた。


 俺は多分、人生で初めて、意図的に無責任になった。悪意を持っていたわけではない。純粋にそうする必要があると感じていたことが、結果的に無責任に当たった。

 それに対する罪悪感に翻弄されること自体に、自分の歪みを感じてしまっていたのだ。自暴自棄とはまた少し違う感覚だった。

 逆に心のどこかで立ち上がる段階として冷静に見ている部分もあった。


 自分の部屋に荷物をいくつか取りに行くと、室内の有様に絶句した。しかし、生ものもなかったし、一刻も早くこの部屋から出たくてそのまま放置することにした。僅か数日のことだから。

 出かけ際に水槽が目に入った。いるはずのないパックマンが寂しくしていそうな気がして、お詫び程度に水槽の埃を拭いた。

 多分、俺の中ではそれだけはまだ、大事にしていたいものなのだろうと思った。



 仕事で生活リズムのズレている父とは、そうでなくても会話は少ないが、それが心地よかった。

 掃除や食事を全て引き受けて、少しだけ親孝行している気にすらなっていた。ご都合的な考えだが、久々に自分への嫌悪感が和らいだ。


 昼間は近所の河川敷や商店街を散歩したり、部屋で音楽を聴いたりしていた。

 特に何をしているわけでもないのに、不思議と自分の輪郭がはっきりしたような気がした。

 約束通り病院の心理士に経過報告の電話をした際に相談すると、逆に『須田さんはなぜだと思いますか』と聞き返された。


『よく分かりません。でも、圧迫感がないというか、息がしやすいというか……』

『なるほど。今は、人間関係や義務感から少し距離を置いている分、自分が何をしたいのか、何に楽しさを感じるのかが見えやすい時期なのかもしれません。須田さんの言う『輪郭』が、少しはっきり感じられるのも、そのせいかもしれませんね。自分を知るには、いい時間だと思いますよ』


 抑々、感情がおかしくなっていたからか、上司が理解を示してくれたからか、驚くほど罪悪感がなかった。

 何かを証明しなくてはならない、何かをしていなくてはならない焦燥感も感じなかった。確かに今は自分ひとりだけの時間だと思った。

 『自分』が、よく聞こえる状況なのだろう。



 香衣良のことを考えた。

 使命感というか、常識を取り払っても、やはり俺は彼女に対して特別な感情を抱いている。愛情だと思う。家族愛でも友情でもない。

 しかしきっと、彼女が俺に対して感じるものとも違うのだろう。人間として惚れている。そしてそれは慈しみと敬意に溢れた、とても高潔な感情にすら思えた。

 それでいいのではないかと思ってしまいたい。彼女が差し出した手を掴んで、二人でそれでいいのだと思い込んでしまいたい。

 けれど、いつかきっと後悔する。彼女も、俺も。


 浩太のことを考えた。

 きっと、誰もが形容する恋とは、俺が彼に対して感じているその感情だろう。制御が効かなくなりそうな、衝動的で理論の外側にある感情。

 怖いのだ。自分が勝手に動き出して、誤った方向に向かっていても止められない。そんな無力感がある。

 人はそこに酔うのだろうか。俺には脅威に見えて仕方がない。こんな感情を同性に抱いて、先があるようには思えない。

 どうしても、報われるはずがないものに見えてしまう。それでも、浩太のことを思うと心臓が普段よりも生きようとするのだ。


 俺のことを考えた。

 香衣良とのことも浩太とのことも結局、現象として存在するところで、根本は俺自身の内にある問題なのだと思う。

 自分が誰で、どう生きたいのか。どう生きていけるのか。結局のところ、実にありきたりな回答なのだ。

 俺がいつか自分の性的指向を受け入れられるか見当もつかない。頭は世論を信じてしまいたい。何もおかしいことはないのだと。

 しかし、心の方は信じない。おかしい、治せるはず、矯正できるはず、と無意味な主張を躍起になって並べる。

 だから気付いてしまったことはこのまま一生、薄暗い腹底に留めておくのかもしれない。

 それでも、少なくとも窒息しそうなまでに自分を崩したくはないと思う。



 勤務明けの父が昼頃起きてきて、用意していた生姜焼きを食べながら、なんの前触れなく宣言した。


「今晩、久しぶりに釣りでも行かんか」

「明け番じゃん、少しは休んだら?」

「へっ。釣りが労働だとは思わんわ」


 何気なくそう言って味噌汁を啜る父だが、俺は胸の奥で小気味よくパチパチと弾ける感覚が湧き上がった。

 三十超えた今でも、父との釣りは俺にとって一大事なのだな、と改めて思った。

 どこに行くつもりか訊いてみると、


「シーバスが食いたいで、港のほう行くぞ」



 たまに思うことはあった。母ではなく父の下で育っていたらどうなっていたか。

 生活には無頓着で適当な人だから、お互いに苦労しただろう。

 奔放な性格だから、かなり反抗したかもしれない。

 しかし、自分を押し殺すということを父は教えなかったと思う。

 今更どちらがいいのかなど意味はないが。少しだけ思う。


 しかし逆恨みなのは分かっている。

 多少の事実があったとしても、結局俺自身なのだ。母親から受け継いだ良いものも沢山ある。

 その分別ができなくて、自分を追い詰める方向にひた走って来たのは母のせいではない。

 俺が自分に都合のいいように解釈し続けた結果だろうし、この性格自体は父親に育てられても同じだったと思う。


 食事を終えた父がまた仮眠を取りにいくと、俺は釣り具や仕掛けを用意し始めた。


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