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空魚  作者: 白雨 梦乃
第十章・海鴉(うみがらす)
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10-5


 まるで、最初からそうであったかのように、すれ違っていた。

 こんなことまで不器用な俺たちは、空回りし続けている。

 しかし、それでも翔一は浜音に向かっている。


 その意図は分からないが、一歩踏み出す決心がついたのだと思う。その一歩で向かおうとする場所がどこであれ、俺はそれを受け止めると決めた。

 俺に会いに来てくれている、何かを伝えようとしている、それだけで言い表せない感情が止め処なく湧き出てくる。


 翔一の父親に伝言を頼んだ。もし彼から連絡が来たら、今向かっていることを伝えてほしいと。

 牧野さんにもメッセージを送った。彼女はどんな気持ちでそれを読んだのだろう。決して気分のいいものではないと思う。しかし、そこも信頼なのかもしれない。

 元々彼女はその可能性を考えて俺に連絡してきたのだから。どこかで翔一がちゃんとけじめを付けるだろうと。



 確実に睡眠不足なのに、全く疲れを感じない。

 それはそれで危険だと思い、慎重に運転したが、それでも自宅に向かう三時間はあっという間に過ぎていった。

 珍しく晴れ間の窺える空模様と大人しげな風に歓迎されて。吸い込む空気の底はやはり冷え切った磯の味がする。


 民宿に着くと、人の気配はなかった。

 俺は自転車に乗り換えて、海岸沿いに進んだ。この寒い空の下でどこにいるのだろう。どうしたら彼のもとに辿り着けるのだろう。

 時間が過ぎて行けばそれだけ焦燥感が募った。

 町中の方かもしれない。そう思い始めていると、浜辺に人の姿があった。



 やっと、見つけた。



 急いで路傍の柵に自転車を止めて、手摺にしがみついて、目を凝らした。そこに止まっていた鴉が一羽、恨み言を零して飛び去って行く。

 人影は海の方を向いていて、表情がよく見えないが、見間違えるわけがない。


 古そうな灰色のコートに、下は黒いジャージ。髪も髭も整っておらず、顔がやつれている。翔一の印象とはあまりにもかけ離れた姿。

 不調が明白に現れた草臥れた様子。しかしそれでも、この世で一番素敵な美しく格好良い人の姿だった。

 鼓動が狂ったように強くなる。ずっと会いたかった翔一がすぐそこにいる。この心持ちで会ったらまた勝手に暴走してしまうのではないかと、落ち着くため何回か深呼吸する。

 爽快な空気が体内に巡って、少しだけ思考が整理された。


 俺は浜辺への階段へと回り、ゆっくりと翔一に近付く。彼は、足を止めて海を眺めている。考え込んでいるのか、俺の足音に気付かない。

 怖がらせたくない。だから十メートルくらいの距離で俺も立ち止まる。


「翔一!」


 呼びかけると、無感情な顔が向けられる。やはり具合が悪そうだ。瞳に体温が吹き込まれるまで少しかかった。焦らすことなく、無言で待った。

 そして眉間に皺を寄せて、ありえないものを見つめるような顔をした。そんな視線ですら、俺に向けられているだけで目頭が熱くなる。


「浩太……」


 翔一の表情は今にも泣き出しそうに歪んだ。寒いから店行こう、と提案しようとした瞬間。

 突然、翔一は反対方向を駆けだした。


「え、なっ! うそだろ⁈」


 まさかここに来て逃げるとは思っていなかったので、ふざけた声が出た。

 寒さのせいか、疲労のせいか、何度も転びそうになりながら走って行く。


「待てって、翔一っ!」


 そうしない方がいいのかどうか判断が付かないまま、俺は追いかける。何度も呼びかけるが頑なに振り向かない。

 苛立ちが顔を見せるが宥める。翔一にとってこの状況がどれほど怖いものなのか、俺は知らないから。


 数十メートル、そんな鬼ごっこをしていると、体力が続かない翔一は愈々転び落ちそうになった。

 俺は「あぶなっ」と零しながら力いっぱい飛び込んで、彼を受け止めた。


「おまえ、マジッ、ここまで来て、何やってんだよっ……」


 息を切らしながら言うと、仰向けになった翔一の顔が見えた。

 目元や頬を真っ赤にして、大粒の涙を流している。すぐに両手で顔を隠して、辛うじて言葉に聞こえる声で嗚咽している。


「っ……ごめん……浩゙太ぁ、ごめん……ぅ……」


 他にも何か言っているようだが、聞き取れない。

 冷え切っている翔一の体温と、確かな輪郭を感じて、安堵と悲しさが混ざり合ったような感情が溢れ出る。


「寒いから。店行こう。な?」




 正直、困った人だ。

 突然何も言わずに姿を消すわ、探しに行ったら逆に地元の方に来てるわ、会えたと思ったら逃げ出すわ、逃げ出したと思えば泣きながら謝ってくるわ。

 この人、今までどうやって社会で生き延びて来たのか疑問に思うほど、困った人だ。

 けれど知っている。今までこんなことがなかったから、彼はこれほど狼狽しているのだ。

 俺に出会ったから。


 店に戻ってすぐ暖房を回し、熱いお茶と毛布を何枚か用意した。

 ずっと泣いている。その様子が愛おしく思えてしまう俺は、どこかおかしいのかもしれない。


 彼が少し平静を取り戻すのを待ちながら、俺は温かい食べ物でも出そうと思った。

 家を空けていたから作り置きはないし、米を炊き始めたら時間かかるし、直ぐに作れるものもない。だから、インスタントラーメンにした。

 爺ちゃんの好みで昔から常備してあり、今でも同じ、正しい奴の塩味。キャベツともやしと人参をさっと炒めて、厚揚げと卵を加える。昨日店で出す予定だった越前ガニも折角なので入れてみた。


 翔一の下に戻ると、流石に落ち着いたようだった。俺と視線を合わせようとしないが、目が赤くなっているのが分かる。

 目の前にラーメンを出すと肌に少し色が戻ったような気がした。


「インスタントだけど、食べて。あったまるから」

「ありがと……」


 彼の正面からひとつずらした席に、自分の分を置いて座る。

 ふたりで何も言わずにラーメンを啜る。店内も漸く少し温まってきたようだ。「うまい……」と聞こえてきたので、翔一の方を見ると、また泣き始めていた。

 麺を啜っていると咽たようだ。


「あーあーあー、もう」


 ティッシュを持ってきて渡すと、「ごめん」と何十回目の言葉を言う。それに自ら泣きそうになって、また「うまい」とか呟きながら麺を啜る。

 俺の本音は、今すぐにでも彼を抱きしめてしまいたいところだ。苛立ちや鬱憤はある。同列に愛情と可愛さもある。そしてもっと色々と。とても複雑で、とても単純な感情。

 多分、前よりもずっと好きになっている。だからこそ、すごく穏やかな気持ちになる。次が何に繋がったとしても、もう一度、この人と同じ時間を過ごせたことだけで満たされている。

 あとは、彼が笑顔で生きていると分かっていればそれでいい。


 麺と鼻を啜る音だけが響く時間がどれほど続いただろうか。俺は、翔一が話すまで待つと決めていた。

 ラーメンも大分食べ終わったころ、彼はか細い声で言った。


「ごめん、突然来て。仕事、大丈夫?」

「店は臨時休業だから、大丈夫」


 なるべく当たり障りのない風に答える。


「名古屋……俺を探しに?」


 どうやら父親との連絡は取れていたらしい。牧野さんの話はしていないから、そこから話すべきだろう。

 しかし、翔一の心情を見逃したくないから、慎重に話す。


「怒ってる?」


 彼はいまだに視線を合わせず、器のスープを眺めて静かに首を横に振る。


「実は、昨日な。牧野さんから連絡があって」


 明らかに動揺するが、それでも顔を上げない。


「香衣良が、なんで……」

「榎田さん? に民宿の名前を聞いたらしい。お前と連絡取れなくて心配していたそうだ。もしかしたらこっちに来てるんじゃないか、って」


 僅かな機微も見逃さないように翔一の息遣いまでも見張る。しかし、驚きはあっても以前みたいな抑えようのない恐怖は感じ取れなかった。

 きっと、彼も彼で前進しようとしているのだと改めて感じる。


「それで、浩太も名古屋に行ったのか?」


 俺は掻い摘んで前夜からの動きを伝える。牧野さんとの妙な空気の部分だけ省いて。

 牧野さんとの会話、翔一の部屋、榎田さん、笠貫さん。一通り話すと、俺からひとつ聞いてみる。

 責めたり、押し付けのないように言葉を選ぶ。


「皆、心配してて。こんなにお前のことを思ってくれてる人がいるんだって、俺ちょっと感動した。でも、お前はきっと、今は電話に出るのも辛かったんだよな?」


 翔一は肩に掛かった毛布を寄せ直す。震えているのは寒いからではない。塩味のスープに水滴が零れる。

 この話の節々に自分を責め得る要素がある。人に心配をかけたこと、迷惑をかけたこと。今にも翔一は全てを背負ってしまいそうだ。

 だから今、俺から話した。その裏側も知ってほしいから。人の温かさも、優しさも、翔一自身が築いてきた人徳だということ。


「俺、もう、めちゃくちゃなんだよ……」


 そう言う翔一の輪郭が酷く曖昧なものに思える。罵声でも、謝罪でも、なんでも受け止める気持ちで彼の言葉を待った。


「浩太に会う前から、ずっと。めちゃくちゃなんだ」

「……。聞かせて、くれるか?」


 こくりと頷いて、それから言葉が出るまでにまた少しかかった。躊躇いを拭い切れないように、彼の視線は左右に揺れている。


「小さい頃から、嫌われることが、すごく怖くて。人の反応とか、ずっと見てた。求められる自分を演じている方が楽っていうか。その方が安心できたんだ。だから考えなかったんだ。自分が本当はどんな人間なのかとか。誰かに用意された枠組みの中で、それなりに伸び伸びできてればいいや、みたいな」


 彼は手で顔を撫で下ろして、溜まり始めた涙を抑える。


「そしたらさ。いつの間にか自然と他人が俺に求めているものが分かるようになってて。意識してなくても、それに当てはまろうとする自分がいて。でも、問題があるようには思わなかった。ずっとそう生きてきたし、誰かが喜ぶならそれは正しいんじゃないかって」


 何となく知っていることだった。しかし、改めて思うと翔一と俺はどこか対蹠的たいせきてきだと思った。

 人に受け入れられるため、求められたものを演じてきた彼。

 人の理解を諦めて自分の物差しだけで生きてきた俺。

 いつだったかふざけて「俺達、足して二で割れば丁度良いのに」というようなことを言って、翔一が笑っていたのを思い出した。


「初めてだったんだ。浩太が。俺に何を求めているのか全く分からない人」


 そんなことはないはずだった。

 少なくとも俺は仲良くなりたいと思っていたし、気兼ねなく笑ったり、話したりできる関係を作りたかった。

 でも、きっとそれは翔一自身の求めるものと重なったから、演じているようには思わなかったのではないだろうか。

 思考が零れてしまったかのように、翔一は小さく首を振った。


「いや、ごめん。多分そうじゃなくて。ただ浩太が求めていたものは、演じる必要が無かっただけなのかもしれない」


 自分の言葉に納得するように彼は小さな息を吐く。


「でもさ。そんなのがあるって知っちゃうとさ……。今まで俺がどれだけ息苦しかったのか見えてきちゃって。すごく不安になったんだ。今まで築いてきた何かが崩れてしまいそうな。ずっと、どこかでそんな感覚があったんだ。本当は、俺って何なんだろうって、初めて思って。その答えが全く分からなくて。まるで自分が空っぽのように思えて」


 とうとう瞳から零れる涙を見て、俺は口を結んで眉を顰める。

 本当はすぐでも言いたい、どんなに演じていたとしても、彼の奥底はそれでも温かいものとして周りに届いていたのだと。

 しかし、話を聞くことと説得することは全くの別物なんだ。対話と議論の違い。だから黙って聞く。


「壊れる前に距離を取ればよかったのかもしれない。けど。できなかった。浩太と過ごした時間にあまりにも救われていたから。不安定にバランスを取ってたその関係は、俺の中で変わってはいけないものだったんだ。だから——」


 俺の目頭も熱くなる。様々な時間が脳裏を過る。


「だから、浩太の気持ちは耐えられなかった。でも俺、その腹いせみたいに、ずっと酷いこと言って、おまえの気持ちも踏み躙って、傷付けて……。すげぇ大事に思ってたはずなのに、自分から壊して……」


 翔一は片手で額を隠して俯く。肩を震わせて無音の涙を流している。

 俺のたった一言がこんなに彼を苦しめていた。俺が俺で、彼が彼というだけの理由で、避けようのない結末のように、出会った時点で彼を泣かせてしまうことが決まっていた。

 しかし、それだけではないはずなのだ。俺も、彼も、その出会いで何かに気付いて、どうにか進もうとしている。


「……翔一は、それを話してくれるために、浜音ここまで来てくれたのか?」


 首が横に動いた。

 翔一は何回か深呼吸をしながら息を落ち着かせている。その姿に言い表せない懐かしさを感じた。

 ゆっくりと顔を上げて、赤く滲んだ瞳が不安を抱きながら俺に向けられた。

 震える声がする。



「浩太と……。浩太と、ちゃんと向き合いに来た」


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