10-4
翔一は、父親のところ。
形容し難い感情が三人の間を風のように駆け抜け、全員が胸を撫で下ろした。俺よりも先に事態を案じていた二人は、さらに明白に緊張が解ける気持ちだろう。
探し求めていた情報を掴んだ安心感を噛み締める様子を見て、隣人は戸惑うように付け加える。
「念のために連絡先も控えてありますけど……」
その言葉にいち早く反応したのは牧野さんで、食い気味に男に近付く。
「お願いします、教えていただけないでしょうか。彼、退院したばかりなんです。だから心配で」
切実な勢いに押されて男は頷く。
「すみません、私も出勤時間なんで、妻を呼びます」
そう言って男は自宅に戻り、奥さんに事情を掻い摘んで説明したようだった。「少々待っててください」と会釈をして男は階段を下りて行った。
「あ、ヤバい。俺も仕事に行かなきゃ……」
榎田さんはスマホの時刻を見て言う。翔一が取り敢えず無事なことを察したように、表情が柔らかくなっている。
「香衣良ちゃんもだよね?」
「う、うん……」
「じゃあ、ここは島崎さんに任せるのはどう?」
事情を知らない彼は晴れやかな口調で言う。彼女は無論、快い顔をしない。彼女としては、この事態を招いた張本人が翔一に連絡してしまうのが心配なのだろう。
「あの、俺はこのあと帰るので……」
「え? 何で? 須田を迎えに行かないんですか?」
「大事にはなってないことも分かったし。それは、牧野さんが行った方が良いかと」
彼女は目を逸らして黙っている。そうしていると、女性が長身の男の家から出て来た。手には翔一のお父さんの番号が書かれているであろうメモ用紙を持っている。
それを受け取って牧野さんに渡そうとする。しかし、彼女は黙ったまま受け取らずにいる。
榎田さんに視線を送るが、同じく状況を理解できてないように首を横に振った。
「あとで、送って下さい……もしそうしたいなら、帰る前に全部綺麗にしてから行ってください。あとから濁るようなことはもう嫌なんです」
そう言って彼女は踵を返して、階段へと歩いて行った。腑に落ちない顔で榎田さんが慌てて、「須田に会うなら伝えてください」と、伝言を託し足早に彼女に続いた。
俺は呆けたように、メモ用紙を差し出したまま固まっていた。
詰まるところ、『あなたが掻き回したんだから、片付けなさい。ただし、これ以降はもう関わってくるな』と、そう言われたのだろう。
翔一の抱える罪悪感。それだけでないのは何となく分かるが、俺になんとかできるのはそれくらいだろう。
逆に悪化させる可能性もあることを彼女は知っているのだろうか。俺は、この番号にかけない方が良いのではないか。
彼女にとって、この先の動きを俺に任せることは果たして、どれほど不本意なのだろう。
彼女と翔一の共有してきた時間を何一つ知らないが、愛情があるのは分かる。もっと深いところを言えば、信頼がある。
だから、悔しくても俺の判断に任せるような真似ができてしまう。
「あのぉ……」
いつまでも廊下先を眺めていたら、背後から声がした。奥さんのことを忘れていた。
「あ、ああ、すみません。本当にありがとうございます」
そう言って、取り敢えず俺も敷地を出ようとしたところで、奥さんに引き留められた。
「あなたが主人の言っていた『須田さんと喧嘩していた人』ですよね?」
不安になるのも無理はないだろう。端から見れば、あの情景がどう見えたのか想像できる。十中八九、ストーカーにでも思われたのだろう。似たようなことをしていたわけだから、間違いとも言い切れない。
そんな男に、預けられた連絡先を渡すのには良心の呵責が起こるのだろう。
「あ、あの。俺はかけるつもりないんで、安心してください」
「そんなこと、心配してませんよ」
夫人は呆れたような笑顔を向けている。
「少し、お話いいかしら?」
そう言われて、笠貫さんと名乗る隣人の部屋に招かれた。
丁度、中学生くらいの息子さんと入れ違いになり、不審者を見るような表情で挨拶された。正しい警戒心だと思う。
「ごめんなさいね、ドタバタして」
「いえ、全然……」
奥さんは急いでテーブルの上を片付け、布巾を掛け、お茶を出してくれた。
俺は改めて注意を食らうのか、はたまた全く別の理由で引き留められたのか、心構えが定まらずに居心地が悪い。
「島崎さん、でしたよね?」
俺は不安を抱えたまま頷く。
「どこからお話しようかしらね」
湯呑を軽く両手で包み、一息吐くように、温和な口調で奥さんは言う。
「私達一家がここに越してきたのは、須田さんと同時期なんです。その時は、なんというか、色々あって。前に住んでいた家が、火事になっちゃってね。主人が苦労して建てた、夢の一軒家だったから、とても辛くて」
このような話を見ず知らずの俺にしていいものだろうか。それ以前に、俺はどのような顔でそれを聞けばいいのか。
「須田さんには、そんな話を少ししただけなのに。彼、すごく気にかけてくれて。特に敏明——息子ですけど、色んな手続きや後処理で追われていた私達夫婦の代わりに相手をしてくれたり。家事とか手伝ってもらったりして。彼自身、まだ社会人になりたてで、忙しかったのに嫌な顔ひとつしないでね。断っても、もう強引っていうくらいで。ふふふ」
容易に浮かぶ光景だ。
俺が知っているどこまでも温かい翔一がやりそうなことだと思い、目を細める。奥さんもまた思い出すかのように瞼を伏せてお茶を啜る。
「須田さんは、何でもないことのように思っているみたいだけど。私達は本当に救われるような気分だったんです。一回りは年上なのに情けないね、と夫婦で話してると、重苦しかった空気にまた笑いが出てきたんです」
奥さんは間を置いて、穏やかな表情のまま俺に真っ直ぐ視線を向ける。
「そんな須田さんが声を荒げているところなんて見たことがないんです。だから、主人もあの日とても驚いていて。言い合いの内容で何となく察したみたいなんですけど。その翌日に須田さん、うちを訪ねて来て。私はそのとき家にいなかったんですけど。とても真剣に『誤解なんで』と何度も言ってたそうで。何が誤解なのかも、はっきり言わなくて。正直、少しおかしな精神状態だったみたいだと主人が」
これは注意の方向だろうと察した。
「私達が首を突っ込むようなことではないとは思うんです。それでも、須田さんには恩があるし、本当に良い人だから、困っていたら放っておけないでしょう? 主人は貴方が一方的に須田さんを困らせていると思ったみたいで、近付かせないように気を付けようと言い始めて。ああ見えて、あの人、熱血な方なの」
ここにもまた、翔一を大切に思ってくれる人がいる。
自分自身の未熟さというか、浅はかさを既に受け入れているからだろうか。彼の周りにある温かい輪がただただ嬉しい。
俺は笑顔を零してしまわないように気を付けながら、続きを待つ。
「でも、私は少し違うものを感じたんです。覚えていないかしらね、あの日、私も貴方にお会いしているんだけど?」
そう言われてやっと思い出した。
昼間のうちに、翔一が出勤していると教えてくれた隣人がこの人だ。彼の安否すら分からない状態で、その言葉のお陰で心から安心したのだ。
口を開いたまま驚いていると、奥さんは微笑んだ。
「あのとき、須田さんが無事だと知った貴方は、本当に安堵して。私、そんな顔する人が須田さんに悪い事するとは思えなくて。主人の話を聞けば聞くほど、違和感があって。だって、須田さん、ずっと貴方は何も悪くないと言っていたそうよ? 一体、誰の誤解を解きに来たのか分からないくらい」
また小さく笑って見せる笠貫夫人の言葉を飲み込むまで少しかかった。本当にどこまでも他人本位な翔一。
自分は焦って好き放題言う癖に、俺を悪者にはできないのだ。
奥さんはまたお茶を啜ると、物憂げな表情になった。
「あれから須田さん、どんどん体調を崩しちゃって。入院まですることになっちゃって。心配で色々考えたんですけど、やっぱり貴方との事がきっかけなんじゃないかなって。だから、貴方がもう一度ここを訪ねてくれないか、ちょっと期待していたんです」
「それは。いや、あの。確かに翔一の不調は多分、俺のせいなんです。でも、俺にはどうすることも……多分、もう関わらない方がいいと思います」
「貴方、須田さんのことが本当に好きなのね」
「はい」
奥さんは拍子抜けしたような顔になると、抑えきれないように笑い始めた。その行動がよく分からなくて、俺は小首を傾げた。
「潔い人なのねぇ。ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけ。こんなにあっさり言ってくれるとは思わなくて」
会話の流れがあまりにも自然で、特に考えずに返事した。
それは奥さんから全く警戒心を感じないからだ。話の趣旨こそ明確に見えてこないが、何かを責めるような口振りでもない。
「貴方たちの間に何があったのかは、勿論分からないし、詮索するつもりもないわ。でも、もしそれが今の須田さんの状態に関係があるなら、関わらない方がいいなんてことはないように思うんです」
「……。どうして、そこまで?」
「おばさんのお節介よ。ふふ。でも、私はずっと違和感を感じているの。あれほど尽くしてくれても須田さんはいつも少しだけ達観しているというか。一線を引いているというか。誰かに感情的になって怒鳴るなんて、想像できなくて。だから貴方は、彼にとってそれだけ意味のある人なんだろうな、って。勝手な想像だけどね」
「いや、それは……」
「私には分からないですよ? ただね。もし、友人でも、恋人でも、なんでも。須田さんが一度でも心を開いたのなら。後悔してほしくないの。誰かを信用して、気兼ねなく付き合える人間関係を築いたことを、『もう二度と』なんて思ってほしくないの」
翔一にとって、俺達の関係が大切なものだったのは知っている。何度もそのようなことを言っていた。だからこそ、裏切られたと思ってしまったとき深く傷ついた。
俺は彼の周りに沢山の人がいるのを知っている。なぜ、彼は今までそれを見てこなかったのだろう。なぜ、俺とはその関係を作れたのだろう。
このままにしたら、『もう二度と』と思ってしまうのだろうか。いや、そんなはずはない。
彼の周りを見ていれば、支えている人が大勢いる。歩み出せるはずなのだ。しかし、万一そんなことがあれば。それすら彼はずっと見えないままなのだろうか。
ちゃんと翔一を包み込んでいる優しさや思いやりや愛情。俺とのことがあったから、信頼を預けられない彼のまま、ずっと。
俺は手元に置いたままのメモ用紙を見る。
これ以上傷つけてしまったら。これ以上追い詰めてしまったら。しかし、牧野さんの言う通り、これは結局、俺と翔一の問題で、向き合うべきなのは、やはり俺と翔一なのだ。
決意を固めた。
笠貫夫人は何を思って、連絡を躊躇う俺に話しかけたのか。それは翔一のためを思ってだが、ただのお節介でもなさそうだった。
俺と翔一の間には独特の空間があった。その空間は彼が意図的に、外気と一切交わらないようにしていたのだと思う。
だから、普段どのように過ごして、どのように人と関わっていたのかが分からなかった。自分では気づいていないようだが、彼が思う以上に周りの人は見ているし、気にかけている。
気付いてほしいと思った。俺が特別だったわけではない、彼次第でもっと楽に生きられるのだと。
笠貫家から暇を取ると、心臓が早鐘を打つ中、もらった番号を入力した。
疲れ気味の名古屋弁が顕著な男の声が出た。翔一の父親。
友人を名乗り用件を伝えると、息子は今朝方出かけて行ったと言われる。
行先を尋ねると、固唾を呑んだ。
翔一は、浜音という町に行ったのだと。




