10-3
早朝六時。
まだ青白い空が欠伸をしているように曖昧な時間。乾いた寒風が囁き程度の街の声を運んでくる。浜音の野生的な冬とは違い、名古屋のそれは多少飼い慣らされたものに感じられる。
牧野さんとは翔一のアパート前で待ち合わせをしていた。待たせないように少し早めに着いていると、早々に道角に彼女は現れた。その隣にはもう一人、知らない男が歩いていた。
「お待たせしました。あの、こちら……」
「榎田と言います。須田の同僚です」
男は無表情で会釈する。
牧野さんが翔一の行方を調べるために俺と会う約束をしたと聞いて、念の為同行したと言う。その『念のため』とは、素性も何も分からない俺と二人きりになることに対してだろう。
話を聞くと、『うきぐも』のことを牧野さんに伝えたのもこの人だそうだ。
「あ、じゃあ、去年、翔一と一緒に浜音に来る予定だった、ミシマオコゼの?」
「え、いや、多分そうですけど。オコゼ?」
初めて翔一が浜音に来たとき、体調を崩して一緒に来られなかった同僚とは彼のことだった。翔一が笑いながら、どれほど酷い顔をしていたのかを説明したのを覚えている。
思い描いていたよりも遥かに爽やかな印象の人で驚いた。榎田さんは一層怪訝な表情で俺を見つめていた。
牧野さんがどこまで俺のことを話したかは分からないが、多分多くは語っていないのだろうと思う。
三人でアパートの二階に上がり、翔一の部屋のベルを鳴らした。
今朝も牧野さんが電話をしてみたそうだが、やはり電源が入っていないようで、中からも何の反応はなかった。僅かに期待していたのだろう。牧野さんは溜息を零すと、鞄から合鍵を取り出して、扉を開けた。
「あの、結構散らかってて……」
「うわ〜。なにこれ、マジであいつどうしたの」
砕けた風に榎田さんが零した。釣り仲間と聞いていたが、やはり翔一と仲が良いのだろう。
部屋は厚いカーテンが引いてあって、暗い。
腐敗臭はしてこないが、明らかに雑然としている。キッチンスペースにはプラスチックゴミの袋が散乱していて、調理台周りにもゴミが積もっていた。床には衣類や本やビール缶などが乱雑に放置されている。
暫く空気が淀んだままにされていたような、乾いたアルコールや生乾きの服のような、形容し難い匂いがする。
これは、何かを諦めた人の空間だ。そんな考えが浮上して、落ち着いていたはずの焦燥感が蘇る。
牧野さんは何も言わずにカーテンと窓を開け、透き通った冷気を招き入れた。
きっと、彼女もこの部屋を見ていなければ、俺に連絡してまで彼の居場所を突き止めようとはしなかったのではないだろうか。
しかし、話によれば、翔一は会社で倒れてからここには戻っていないはずだ。或いは、軽く荷物だけ取りに来たのかもしれないが。これは、必ずしも今の彼の心情とは結び付かない。
どこかで、この乱れた状態の部屋と彼の現在の心模様を重ねてしまうので、自分で安心しようとする。
「島崎さんは来たことあるんですか?」
玄関で固まったままの俺に、榎田さんが尋ねてきた。
咄嗟に俺は牧野さんの方を窺った。窓の前で背を向けて表情は見えないが、聞いているのだろう。
「まぁ、一度だけ。ちょっと寄っただけですけど」
曖昧な返事をして部屋に上がった。
「あ……」
真っ先に目に入って来たのは、リビングの隅に置かれた空っぽの水槽。俺はそれに近付く。埃ひとつない。それが部屋の状態と噛み合わないような気がする。
パックマン、死んでしまったのだろうか。
「知ってるんですか? 翔一君、なんか変な名前のコイ飼ってたんですけど。十月くらいに死んじゃって。結構、ショックだったみたいなんですけど」
「……ええ、まあ」
既に距離を取っていた時期だ。教えてもらう機会がなかったのも仕方がない。それでも、パックマンと一緒に翔一との思い出もなくなったみたいで、胸が痛む。
水槽を見つめていると、牧野さんが隣に来た。
「何か手がかりになるかもしれないので。知ってるなら教えてください」
真剣な眼差しだった。
「……。近くの矢田川で一緒に釣りしたんです。傷だらけだったので翔一が保護して……」
牧野さんは案の定、眉を顰めて顔を背けた。
その時は純粋に友人としての時間だった。そんなことを訴えても意味はないのだろう。
「昨日行ってみました、でもまあ、夜中でしたし。また後で見に行こうかと」
彼女は小さく頷いて、散らばった本を拾い、本棚に片付け始めた。
そのやり取りを要領を得ない風に眺めていた榎田さんは、少しピリついた空気を感じ取ったのか、
「上司に確認してみたんですけど。やっぱり緊急事態じゃないのに須田の緊急連絡先は教えられないって。あ〜、俺あのとき、なんで聞いとかなかったんだろう‼」
少し大袈裟に頭を抱える彼は気の利く人なのだろう。知らず知らずにこの状況に巻き込まれていることを申し訳なく思う。
どうやら、翔一が倒れたときに居合わせていて、病院にも付き添い、彼の父に会ったそうだ。
「榎田さんは、確か翔一の同期なんですよね。何か聞いてたりとか……」
言い終えると彼の表情に陰りが生じた。
「いえ、何も。俺、あいつがなんか悩んでるって知ってたんです。でも、何もできなくて。いつの間にか変な距離ができて、一層話しづらくなっちゃって……」
何かしら責任を感じているような言い方だった。ここにも俺が巻き起こした事態の影響が見えてくるようで居た堪れない。
「翔一君、元々そういうこと話さない人だから。榎田君のせいじゃないわ」
温かく言う牧野さんの視線は対照的に俺を冷たく見つめていた。
「いやでも、友達だから。何もしてやれなかったのがさ……まぁ、そう思ってるのは俺だけかもしれないけど」
「そんなこと……」
室内に新しく入って来た空気さえ一層暗くなった。
俺の外に翔一の普段の生活があるのは当たり前だし、理解していた。それでも、何となく、孤独な感じがしていた。
彼のことで右往左往している二人を見ていると、違う実態が見えてくる。
そして、多かれ少なかれ自分も大事な人を蔑ろにしていたことに気付いたからだろうか。こんなに心配してくれている人達を顧みない翔一に対して、確かな怒りを覚える。
「よく釣りに行ったりする同僚がいるって。そう言ってました翔一」
「え?」
「社会人になってから気の合う友達ができるなんて思わなくて、同僚でもあるし、距離感を掴むのが難しいって。でも、ありがたいことなんだって。そう聞きましたよ。あいつも、ちゃんと友人だと思ってるんじゃないでしょうか」
俺がそのことを言うのは違うと思う。しかし、翔一がはっきりしないから皆悩むのだ。簡単だとは思わないが、相手が信用に値する人物かそうでないかくらい、彼なら判断できるはずなのに。
大事なことを言わないから、相手が自分をどれほど大切に思っているのかも知らないまま。自分で孤独を増やして、飼っているのだ。
迎合しているだけでは、人として足りない部分は補えない。
それを証明するように榎田さんは目を潤ませている。牧野さんは複雑な感情を帯びた視線をまた逸らした。
俺が勝手に翔一を語るな、と。そう言いながらも、実のところ外してはいないことを理解している。
昨日の言葉の意味は分かる。彼女にとっては俺が単純に悪人であった方が断然楽なのだ。それでも、俺はできれば翔一を大切に思う人たちを敵にはしたくない。
俺もそのひとりだから。
動揺を隠すように、榎田さんは何があるとも思えない風呂場の方を探しに行く。彼に聞こえない程度の声量で、
「私、やっぱりあなたのこと嫌い」
牧野さんにそう告げられた。
棘を含んだ言葉はそれでも冷たくはなく、凛とした女性からの妙に子どもじみた発言が少し可愛らしく思えて、申し訳なく笑ってしまう。
少し片づけながら部屋で何らかの手がかりを探したが、アドレス帳もメモも見つからなかった。
牧野さん、榎田さんもそうこうしているうちに仕事に向かわなければならない時間帯になった。
俺はこれから隣人を訪ねて、それでも情報がなければ、改めて矢田川の河川沿いや釣具店を当たってみると伝えた。それでも、成果が出なければ、牧野さんとの約束通り、帰らなければならない。
しかし、思いの外気重に感じてはいない。それは、二人に出会ったからだ。
俺がその順序で体験したから同じとは限らない。しかし、翔一が少しでも自分の内側から外へと視線を向ければきっと、気付くはずだと思う。これほど心配してもらえるということは、自分で思っているほど酷い人間なわけがないと。
きっと大丈夫。
七時四十分頃、牧野さんが翔一の部屋に鍵を掛けると同時に、隣の扉が開いた。
当然、異様な光景だろう。翔一の姿はなく、女一人と男二人が彼の家に鍵を掛けているのだから。
出て来た男は呆気に取られたように固まって、三人を交互に見つめる。
背の高い、細長いの男だ。
どこかで見たことがあるような気がして、記憶を探っていると、殆ど同時に、
「あ」
と声が出た。
翔一からの連絡が途絶えて、名古屋まで押しかけてきたとき。翔一が恐喝されているか何かと思って止めに入った隣人だ。
その後も部屋まで送り届けていたし、割と友好的な関係ではないだろうか。或いは、何か知っているかもしれない。
「貴方、あのときの……」
「その節はご迷惑をお掛けしました。あの、すみません、しょ——須田さんに連絡が付かないんです。何かご存知だったりしますか?」
不審者扱いなのだろう。前回のことがあったから、仕方がない。
しかし、他の二人は正真正銘、翔一の身近な人たちだ。その旨伝えると、牧野さんが「お願いします、何かご存知でしたら教えてください」と付け加えた。
「須田さん……今週末までお父さんのところに行くと言ってましたけど」




