10-1
二月の暴風雨は密室を作る。
辺りを激しく荒らして、飛ばして、揺するけれどその声は届けない。届く前に風と雨が掻き消してしまうのだ。
窓を震わせる音に微かに聞こえる高波の文句程度。自分のいる空間の境目が狭まって、捕らわれている感覚があるのだ。
浜音ではこの時期、決して珍しくない天候。
こういう日は海が時化て仕事にならない漁師達が挙って押しかけるか、客一人現れないかのどちらかだ。
波浪警報が出ない限り、店は開けるが、どちらにも転べるような軽い仕込みで様子を窺っていた。
七時を回っても誰も来ないので、今日は無しの日だろうと思う。ラジオから近辺の交通状況や注意喚起が繰り返し流れてくる。
俺は半分店仕舞いの用意だけしておいて、民宿客もいないので、カウンターで伝票の整理をしていた。
外で風がやたらと主張する中、スマホの着信音が場違いなメロディを鳴らして響く。
「はい。民宿うきぐも」
「も、もしもし。民宿の、ご主人さんですか?」
「はい、そうですけど」
電話越しに聞こえる声は妙に緊張しているように思える。
たまにあることだが、オンラインの予約を実施しておらず、連絡先が携帯番号だけなので、苦手な人は一層気構えて電話をかけてくる。
帳簿から目を離し、ペンを置く。
「突然すみません。私、牧野と言います……」
「えっと。ご予約ですか?」
言い淀んで話を進めないので、こちらから伺ってみる。
「あ、違います。あの、須田翔一、ご存知ですよね」
その名前が出されて身体が強張った。
あまりの驚きに状況が呑み込めず、通話相手が説明してくれることを期待して短く返事をする。
「は、はい」
「そちらに伺っていたり、してませんか?」
焦ったような口調で訊かれる。
質問の意図が理解できず、応えられずにいると声は更に確認してくる。
「いるんですか?」
「え、あー、いや。暫く会ってないすけど……えっ、翔一に何かあったんすか?」
返事をしていると胸が突然ざわついた。
翔一の所在を聞かれるということは、彼に何かが起きたのだと。それを尋ねる相手が誰かによって意味は変わってくる。
返ってきた声は安堵とも落胆ともつかない色をしていた。
「そうですか。すみません……えっと、私、彼の交際相手なんです」
目を見開いた。
翔一の、交際相手。
ちゃんと気持ちの整理はできているはず。それでも、彼が誰かと付き合っている事実が酷く生々しいように感じる。
濁った感情が湧き出るのが分かる。
「いえ、ごめんなさい。今は少し、ややこしいんです。貴方のことが、あるから……」
意味深に言いかけるが、つまり牧野と名乗る女性は俺のことを知っている。どういう風に言われたのかは分からない。
状況がやはり全く掴めない。
「いや、ちょ……ちょっと待って。どういうことなんすか?」
「入院していたんです、翔一君。先週、会社で倒れてしまって。ずっと睡眠も食事もまともに取れていなかったみたいで」
思いもよらない情報を告げられた。
最後に翔一と電話で話したときの、壊れそうな声が蘇った。当然、俺が無関係だとは思えない。
しかし、そうなるまで、追い込んでしまったのだろうか。
「そんな……大丈夫なんすか、あいつは?」
「え、ええ、体調の方は順調に回復していて。三日前に退院するはずで。私が迎えに行く約束していたんですけど。当日病院に行ったら、もう退院したって。伝言はあったんです。『少しひとりで考えたい』って。でも、それから連絡が取れなくなってしまって、自宅にも帰っていないみたいで……もしかしたら、って」
翔一が消えた。
嫌な汗が噴き出す。皮膚の至る所に焦燥感が走って、息がしづらい感覚に襲われる。身体が勝手に店仕舞いを進める。
連絡が付かなくなって心配になった彼女は、翔一の同僚で共通の知り合いに連絡した。会話の中で『うきぐも』の名前が出てきて、検索したらこの番号が出てきたのだと話した。
彼女がここ数か月の状況を説明する。翔一がずっと何かに悩んでいるようだった、と。その話し方から彼女と彼はずっと前から付き合っていたことを察した。
振り返れば、ちゃんと尋ねたことはなかった。そんな話が一度も出ないので勝手にいないものと思い込んでいた。勿論、彼女にそんなことを言えるはずもない。
嫌な感触が腹の底から沸き立つ。しかし、思考が別の方向に集中しているからか、取り敢えずそれは放って彼女の話を聞く。
年末、実家に帰ってから、更に様子がおかしかったそうだ。彼女は彼と話し合い、初めて俺のことを聞いた。俺が彼に告白したのだと。
「本当はその前に一度、友達に謝らなきゃいけない、と話してくれたことがありました。でも、多分そのときは自分でも何が何だか分からなかったんだと思います。彼は……。彼は、多分……」
彼女はその先を続けるのがつらそうだった。
それはそうだろう。長年付き合っていた人が別の誰かの恋情で悩んでいる。身を削るほどに。彼女はどんな思いでその話を聞いたのだろうか。
急ぎ足で厨房と店内の片付けを終えると、ジャケットと防寒具を着用して喧しく荒ぶ屋外に飛び出した。すぐに風の濡れた手が身体中を嬲ってくる。
「貴方はなんで彼にあんなことを」
質問とは捉えられないような抑揚。
俺は乗り込んだ車のコンタクトを入れようとする指を離した。彼女もまた、翔一と同じ考えなのだろうか。そうでなくても、彼女と彼の関係を乱した俺のことを快く思うはずがない。
「牧野さん。お二人にご迷惑をかけたこと、本当に申し訳なく思ってます。そんなつもりはなかったんです。でも、結果的に翔一を苦しめて、貴方も傷付けてしまいました」
「……分かってるんです、なんとなく。翔一君、私のこと話さなかったんでしょう?」
何も言うことはできなかった。
彼女が何を察して、何を思っているのか。俺という存在がどれほど疎ましいのか。後ろめたいことのように彼女の存在を俺に明かさなかった彼にどれほど不信を抱いているのか。俺が決めることではない。
「俺、この辺りを探してみます」
「お願いします……」
翔一が浜音に来ている可能性は低かった。
そんなことをしたとしても、理由は俺と話すためだろう。そしてこの天候だ。三日間も音信不通なら、とっくに店を訪れているはずだった。
雨が車体を殴る中、町や浜沿いを走ったが、案の定誰もいなかった。
様々な考えが脳の中を飛び交う。ずっと背筋を悪寒が行き来する。
彼女は入院してから翔一の様子が落ち着いたと言っていた。それでも、つい最悪な方向に思考が向いてしまう。
俺もまた彼の番号を鳴らしてみた。電源が入っていないようだった。仕方なく留守電を残した。
一時間ほど経って、俺は牧野さんに連絡を入れた。
「翔一、こっちには来てないと思います」
「そうですか。もしかしたらって思ったんですけど」
「他に心当たりは? 確か東京に母親が」
「ええ。でも、連絡先分からなくて……お父さんも、会ったことはあるんですけど、電話番号までは」
「……俺、そっちに向かいます」
「えっ?」
当てがあるわけではない。
ただ、浜音で何もせずにいることに堪えられる気がしない。
「貴方に、何ができるの?」
「なんもできません。けど、あいつの生活狂わせたのはきっと俺だから」
「だったら尚更じゃない……」
「分かってます。顔を合わせる必要はありません。ただ、もし翔一が見つかったら、お願いです。連絡ください。それ以上は関わらないと約束しますから」
「……分かりました」
俺は一度帰って、いくつかの荷物を纏めた。店に臨時休業の張り紙を貼って、夜の風雨の中、名古屋に向かった。不義理な店主だと思う。
けれども、目を瞑って心に耳を傾けてもやはり、行かなくてはならないという声が聞こえる。
翔一には彼女がいた。
その事実がいまだに鈍い痛みを伴って脈打つ。臆病で、周りの顔色を窺って、自分で自分を追い詰めて、それで結局爆発して、更に自分を追い詰めて。そしておまけに彼女持ち。
つくづく、面倒な人を好きになってしまったと思う。
あの通話を境に彼も前を向けていると思っていた。
根拠なんてひとつもなかったけれど、そう思い込む以外に何ができたのだろうか。俺自身、歩を進めるくらいしかできなかったのだから。
翔一は、とことん生きるのが下手な人間だ。全て他人を基準に生きている。それはきっと、見方を変えれば美徳なのだろう。
しかし捧げた分だけ受け取れなければ、最後には何も残らなくなるのは当然だ。その生き方の根源がなんであれ、俺のせいでそのバランスが崩れたのだ。
たかが俺のせいで、崩れるようなバランスだったのだとも思う。
そんな不安定な綱渡りを彼はずっとしてきて、俺よりもずっと不器用な人間なのだと思う。
俺が彼の何かを理解しているとは言わない。少なくとも、もうそんな思い上がりに駆られて突っ走るようなことはしたくない。
しかし、翔一の奥底にあるもの。体調を崩してしまうまで彼を追い詰めるもの。彼は恐らく自分にだってそれを隠しているのだと思う。
俺が彼に恋をしたきっかけには、そんな生きづらさへの共感——共鳴もあったのかもしれない。
俺は翔一の残酷な一面を見て、彼のことを疑った。俺の知る男はもしかしたら本当はただの偶像だったのかもしれないと。
しかし、やはり断面されたものではない。俺に暴言を吐き散らす翔一も、自責のあまり崩れていく翔一も、温かい表情で笑い掛ける翔一も全部、同じ線上にある同じ人間だ。
その人のことが俺は今でも好きだ。
だから俺は、どこにいるのかも分からない翔一を、見つけに行く。




