9-5
俺は社会人生命の中で何度かやらかしたことはある。会社に損失を招いた案件だってある。しかし、いまだ嘗てこれほどの失態を起こしたことはない。
ぼやけた映像が途切れ途切れに浮かぶ。多分榎田の姿、水のグラス、知らない誰かの声、ちらつく光、白い車内の振動。
瞼を開ける前に浮かんだ第一の思考。母さんに怒られる。
その次に会社。連絡や状況整理に迷惑かけるだろうな、とか。チームに負担がかかるな、とか。休職することになったらどうしよう、とか。
次に個人。榎田はただでさえ心配していたのに、更に追い詰めないだろうか。緊急連絡先、誰にしていたっけ。香衣良に連絡が行くだろうか。
そして最後に、なぜか浩太。会いたいな、と。
そして漸く重い瞼を開ける。白い蛍光灯の硬さが網膜を襲う。
辺りから規則的な電子音や遠慮のない足音が聞こえてくる。消毒液と、判別できない複雑な匂い。
視界が定まる前にここが病院だと理解する。
「お、目ぇ覚めたか、翔一」
酷く喉が渇いている。口の中がねっとりしていて気持ち悪い。体を起こそうとすると筋肉が鉛のように重たく思うように動けない。
「動いたらかんて。今、点滴しとるだろ」
確かに腕に煩わしい感覚がある。
曖昧で散乱する輪郭が収束していく。そこには父がいて、その後ろに更に二つの影が見える。
「か、看護師さん呼んできます」
この声は榎田だ。まだ動揺しているように聞こえる。礼を言うと父はこちらを向く。
「お前、会社で倒れたんだと。今は病院だでな」
父はいつだって落ち着いた口調をしている。小さい頃を思い出して、少し安心する。
俺は小さく頷いて、父の後ろのもう一人に目を凝らす。
「部長……」
「大丈夫か須田? ビックリしたぞ」
「すみません、迷惑かけて」
部長は手ぶりでそれを打ち消した。
「気にすんな。お前、最近調子悪そうだったのに注意しなかった俺も悪い」
昔気質な部長らしい発想だった。何度も注意はしていただろうに。後ろで人事部や総務部に色々言われるのだろうと思うと、やはり居た堪れない。下手したら労災の疑惑が浮上して、責任問題に発展するのではないか。
榎田が看護師と医者を連れて戻ってくる。
医者は真横のモニターに目をやり、看護師にいくつか確認すると、状況説明と質問を交えながら検査を進めた。
気を利かせてか、部長と榎田は会社に連絡するために病室を出た。父がそこにいる手前、ここ数週間の俺の生活を説明するのには気が引けたが、状況の判断くらいはできる。
入念に会社や仕事のせいではないことを主張しながら、不眠、食欲不振、頻繁な飲酒を語る。
「脱水と低栄養、そこに睡眠不足が重なって、身体が血圧と血糖の調整が上手く出来なくなったんでしょう。数日は入院して、点滴と食事の再開。血液検査の推移に応じて、様子を見ましょう」
その説明をされる頃には部長たちも戻っていた。
具体的にどのくらい入院するのか訊くと、どうやら順調に回復すれば三日、しかしすぐには仕事に戻れないとも言われる。
榎田は青ざめた顔でいた。部長は何ともない顔で一足先に会社に戻る。改めて謝罪を重ねると、「お前も人間なんだな」と笑いながら去って行った。
その足に続こうとした榎田を引き留める。
「榎田、本当に悪かった。心配するなって言っといて、即倒れるとか……」
なるべく軽い口調で言ってみる。困惑するような表情を浮かべた彼は、病院にしては少し大き過ぎる声で言う。
「お前、マジでさ。なんで頼んないんだよ?」
俺は呆気に取られて、笑って見せるしかできない。
本気で怒られている。それがなぜだかとても嬉しい。
看護師に咎められて、謝罪する榎田に、
「そうだな。ごめん」
小言を言いながらも帰って行った榎田を見送った父が、寝台の横にある椅子に腰を掛けてまた穏やかに言う。
「ええ友達だな」
小さく頷く。変な境界線張ってないで、もっと早く気付けば良かった。
「父さん、ごめんな。仕事大丈夫だった?」
俺は緊急連絡先に父を指定していたのを忘れていた。東京に住む母より、同じ名古屋に住む父の方が、何かあった場合早急に対応できると思ってのことだ。
「丁度、明け番」
父はタクシードライバーをしている。隔日勤務で、朝から深夜まで乗務した翌日は明け番、所謂休みになる。
母とは真逆で父はあまり干渉してこない。昔からそうだ。だからといって、無関心というわけではなく、いつもただ穏やかな口調で一言二言、落ち着いて話すだけ。
だから、俺の不摂生についても特に言及はしてこない。
「そっか。疲れてるのに、ごめんな」
「へっ、お前が言うかね」
実に可笑しそうに父は言う。
大学とかで同じ離婚家庭の友人が何人かいた。
その数人が大多数という根拠はないが、少なくともそこでは皆、父親との折り合いが複雑だった。無関心、或いは無責任。そんな父親像が多くて、俺は首を傾げた。
父はあまり会える存在ではなかったことは確かだ。離婚後に東京に戻った母に連れられて、物理的な距離があった。
そのときからこの仕事に就いていた父は、疲れていても何時間もかけて俺を月に何回か迎えに来た。
父との思い出が多いわけではない。寡黙な父と二人で笑い転げるような記憶は寧ろ無い。
でも、俺にとっては良い父親だったし、仕事の愚痴ひとつ、母の悪口ひとつ言わないところも尊敬してきた。
安心するのだ、何も言わずにそこにいるだけで。
何か必要なものはあるかと訊かれて、少し考え込んだ。
今までならきっと香衣良に頼むところだろうが、そうもいかない気がした。仕方なくいくつか指示を伝えた。
「もう休め。明日また来るでな、なんかあったら呼びゃあ」
「あ、父さん。母さんには……」
父は何も言わずに頷いた。
誰もいなくなった病室はそれでも静かではない。少し開いたドアから漏れてくる様々な音がある。
深い溜息を吐く。母の声が聞こえてくる。『体調の管理もちゃんとした社会人の仕事』と口煩く言われて、理解しているはずだった。
しかし、本意を貫くことがついにできなかった。惨めで、やるせない気持ちでいっぱいだ。
俺は頑張ってきたはずだ。自分で見極めて、歩んできたはずの道だ。なぜ、こうなってしまったのだろうか。
病室に紛れ込む外の音が別世界のもののように思える。まるで、俺以外の全てが動いていて、俺だけ微動だにしていないような。そんな孤立感がある。
先程の医師は、分かりやすい言葉で説明してくれた。『身体が限界だったんでしょう』と。
身体だけではないように思う。満身創痍、憔悴疲憊。何もかもが負担に感じる。投げ出してしまいたい、この道則自体を。
そうすれば、香衣良を利用することもなくて。浩太を悲しませることもない。誰も心配しない。そんな現実がどこかにあるのかもしれない。
入院という言い訳があるからだろうか。
俺はここ数週間、感じなかった脱力感に落ちた。俺の意識が少し不快な微睡に滑り落ちていく。しかし、不穏な物音で目を見開く。
ごぽごぽ、と。
沸騰する水のような音が病室の反対側からしてきた。目をやると自然と不敵な笑みが浮かぶ。
「おまえ、こんなとこにまで来たのか」
黒くて粘度の高そうな染みが沸き立つ。向かいの壁一面を覆うように広がって、そこからゆっくりと頭部と二つの目玉が現れる。
「意外と寂しがり屋だったり? 結構似てるな」
軽口を叩きながら、首を持ち上げているのも疲れて、ソレから目を離して枕に沈む。
視界の下部に少しずつのし上がる黒い影。ずっと大人しくしてたのに、今更何の用だ、と言いたくなる。
魚ないし鯨の怪物は天井を覆い隠すように俺を覗き込んでくる。ゆっくりと頭部がぱかりと開いていく。
醜く歪んだその大きな口の奥から異臭と共に腐った風のような声がする。
「だれ、だ。よ……お、まえ」
「……こっちの、台詞だよ。なんなんだよ、おまえは」
ずっと近付いてくる。
もう何か月もその存在を近くに感じてきたからだろうか。不思議と怖くはない。圧し掛かってくることも受け入れているように、身体が動こうともしない。
コレが俺の何を現わして、何を求めているのかなんて分からない。何をしようとしているのか。しかし、漠然と今がそのときなのだろうと思う。
「お………れ。…だぁ、れ」
「なんで聞いてくるんだよ。知るわけ——」
そんなはずない。
俺の中で生まれたのだから。知らないわけがないのだ。
触れられてもいないのに、この化け物を覆う粘膜が俺の内側から溢れ出ようとしているような気持ち悪さ。喉に入り込んだように息が苦しくなる。
そして大きな虚ろな目玉は俺しか見ていない。
俺は。この怪物の名前を知っている。
大学の頃。慧輔という友達がいた。
よく講義が被って、顔を合わせるうちに仲良くなった。しかし、あの頃、俺はちゃんと知っていた。
男が男を好きになることは気持ち悪い事なのだと。ちゃんとした大人はそんな歪んだ愛情は持たないし、そういう人とは関わらない方がいいのだと。
俺は気持ち悪い人間ではありたくなかった。関わらない方が良い人間ではありたくなかった。
だから、慧輔に彼氏ができたことを知ったとき、俺は彼と関わるのを止めた。
高校の頃。基樹という友達がいた。
何人かのグループでよくつるんでいた。しかし基樹が男と遊んでいたという噂がグループ内で流れた。
なぜか彼は俺に必死に訴えかけた。違うのだと。彼はそんなことしていないと。俺は彼を信じてグループの連中から少しハブられるようになった。
結局彼は転校し、俺はハブられたままになった。母は、『貴方は違うよね。気持ち悪い噂が広まっちゃった友達を守りたかっただけよね?』と教えられた。
基樹との連絡は途絶えて、友達との居場所だけ亡くした。
中学の頃。成就という友達がいた。
クラスで一番気の合う奴で、結構ずっとくだらない話をして、かなりずっと一緒にいた。
周りは彼女だ彼氏だ、と騒いでいていまいちピンと来なくて、二人でそれを揶揄っていた。
ある日、成就は照れくさそうに『彼女ができた』と言ってきた。なぜだか俺は涙を耐えるので必死だった。
分からなかったので母に相談したら、『貴方は違うわよ。友達を取られたようで悲しかったんでしょ?』と教えられた。
母が言うならそうなのだと思って、俺も彼女を作った。
小さい頃。小学生になったばかりだろうか。
やす君という友達がいた。近所に住んでいたからしょっちゅう遊んでいた。大好きな友達で、一緒にいると楽しくて、だからそう伝えた。
大好きだ、と。
やす君も喜んで、ぼくも大好き、と言ってくれた。しかし翌日からやす君は公園に来なくなった。
その日、家に帰ると母さんが『やす君にちょっかい出しちゃダメでしょ』と怒って叩かれた。『男の子は他の男の子に好きとか言わないの』と教えられた。
僕はもう、やす君に会えなくなってしまったことがただ寂しかった。
そうだ。この化け物は、長い年月の中、いくつもの名前を持ってきた。
慧輔、基樹、成就、やす君。相沢。そして浩太。ああ、もうひとつあった。須田翔一。
化け物は無数に入り組んだ腕でできた翼を大きく広げた。
禍々しくも神々しくもあるその姿。虚ろな目は涙を零している。
これほど悍ましい姿なのに、大粒の涙は痛いほどに澄んでいる。
俺の目からも、とめどなく涙が溢れ出る。
胸が押し潰されるほど、喉が潰れるほど。涙が止まらない。
痛くて、痛くて。収まらない。
多分忘れてた。いや、忘れるように仕組んでいた。
俺が彼らと同じだったこと。
ずっと昔から、同じであること。
それを只管無視していたら、こんなに、こんなに醜いものになってしまった。
「こ、浩太…………、浩太ぁ……」
ベッドに蹲って噎び泣く俺の傍に看護師が慌てて駆けつけてきた。それでも止まらない。
どれだけ殺してきたか分からないものが、今生きようとしていて、それが痛くて仕方がない。
止まらないんだ。
浩太に会いたい。
浩太の声が聞きたい。
大丈夫だと言ってほしい。
俺はゲイだ。
好きの対象が男である、ゲイだ。
好きの対象が浩太の、ゲイなんだ。




