9-4
「私は、貴方の抱えきれない分も抱えられる。全て、受け止められる」
捉えて離さないような視線で香衣良が言う。
また、俺の逃げ道になると、そう言っている。身震いする。
その言葉に、彼女の執着が垣間見えるからだ。同性愛者だと疑っている俺を手放さないその覚悟が恐ろしく感じる。彼女は、俺の気持ちだけを信じて、そこに縋っているように見えてくる。
それは、俺が彼女を突き放そうとしているからか、それともそこに計り知れない香衣良自身の薄暗さを感じるからか。
「か、香衣良……君は……」
その先の言葉が自分でも分からない。
俺が抱いてきた幻想のせいなのかもしれない。聡明で自由な女性という偶像。その姿を再び纏おうとしている彼女。恐ろしいのは、俺が彼女にさせようとしていることなのかもしれない。
俺は立ち上がる。
「ごめん。今日は、帰る」
「え?」
「やっぱりこのままじゃ駄目なんだ。君を苦しめる。俺がちゃんと、自分で理解しなきゃ。だから、今日は、ごめん」
俺は急いで玄関の方に向かい、後に続く彼女に見向きもせず、ドアを潜り抜けた。
背後から「今、苦しいよ」と呟くような声に息が苦しくなったが、俺は振り返らなかった。
他のことみたいに時間が解決してくれると思っていた。彼女が自分から気づいてくれると、俺の正体を明かせば当然離れていくと。
そこに俺の気持ちは関係なかった。ただ、全てから逃げたい一心で、全てが自ら遠ざかっていくことを期待していた。でも恋愛はそんなに簡単ではない。
恋愛は執着だから。俺自身の感情が問われる。
慈悲深い女神のように手を差し伸べてくれても、その手に縋ることが憚れるのは、代償があるからだ。
少し前ならひとつの迷いもなく差し出せていたもの。愛だ。
それでもし、もしその気持ちに確信が持てないとなったら。彼女は更に傷つき、俺は多分ずっと後悔する。縋ってしまいそうになったから、立ち去る以外になかった。
確信なんて持てるはずがない。
何もかもが曖昧なこの心の中に、何が正しくて何が偽りかなんて。香衣良に今まで抱いてきた感情と、浩太に芽生えた感情は同じ性質のものなのか。全く別のものなのか。
『好き』って結局なんなのか。『愛』ってなんなのか。
人生の彩り。そう解釈してきた。多分、最終的な『家庭』という終着地への通過点。そうも捉えていたのかもしれない。自分を根底から揺るがすようなものだとは。
周りの色恋に翻弄されている人達を、どこか馬鹿にしていたような気がする。それは俺の香衣良に対する感情がその程度のものだから、ということだろうか。
純粋に、信頼に基づいた関係を築けているから安心して心を預けているのだと思っていた。
よく考えれば、自分を演じていたのであれば、本当にそこに信頼はあったのだろうか。いや、きっと別の話だ。信頼云々ではない。
俺が自分で望む姿を作り出したのだから。その向こうに、俺が彼女のことをどう思っているのか。
大切な人だ。傷付けたくないし、幸せを願っている。
彼女がその幸せが俺だというのなら、それを叶えたい。それはれっきとした愛情ではないだろうか。
もう一歩踏み込む。では、彼女に見えた執着。それは俺にも備わっているものだろうか。
確かに彼女以外にはいないと思った。プロポーズを断られても、認められたいと関係を続けたことも、確かな執着だ。
その根底はしかし、自分を欺く執着で、彼女自身へのそれではなかったのではないか。やはり、それが答えなのではないだろうか。
人より恋慕の情が淡白だとは昔から思っていたし、言われてきた。
それなりに居心地がよく、気の合う異性なら、それは自分の物差しでの『好き』なのだと思ってきた。
香衣良と出会うまで感情任せの喧嘩も、喉が詰まるほどの別れもしてこなかった。だから彼女は特別なのだと思った。
そこには、俺が投影した理想も重なっているのだろう。俺より遥かに自由で、寛容で、生き生きとしている香衣良がどこまでも美しく、愛おしく思えた。
これが、人並みに言う『恋』だと。
しかし浩太に出会った。
今になって初めて言葉にできる関係がそこにあった。身体が近付くだけで居た堪れなくなる焦燥感。笑顔を向けられるだけで胸の奥に炭酸のように弾ける感覚。生活の節々に染み込んでくる姿。
いつだって声が聞きたくて、会いたくて。頑なに『友情』と言い聞かせたそれも、やはり『恋』なのではないか。
ひとつの形に拘らなくてもいいのかもしれない。
誰かが、愛情の形は十人十色と言っていた。香衣良だっただろうか。
彼女への気持ちが純粋で崇高なものに見えるのに対し、彼へのそれはもっと本能的で動物的に感じる。
俺は前者のような愛し方を選びたい。それが相手を裏切らない、本当の愛であるなら。
宙吊りの状態を解決したいと思う。せめて香衣良に関しては。
しかし夜を費やして思考を巡らせても、やはりひとつも綺麗に片付くものなどなかった。
どれほど睡眠が取れたのかも分からない状態で始まる、幾度となく同じ光景を重ねる一日。
それでも、初めて誰かに浩太のことを打ち明けた。思っていたより自分の中でその形はしっかりとあると感じて戸惑いはあるが、少しだけ身が軽くなった気がする。
相変わらず部屋に居座るアレに変わりはなく、相変わらず何もかもが億劫だ。それでも、少しだけ身体が軽い。
ふわっとさえしている。
昼前、企画部にまた榎田が現れた。少しは放っておいてくれると思ったのだが、甘かった。
彼はごく自然な動作で近くのオフィスチェアを転がして、デスクに並んだ。
「昨日はどうだった?」
明らかに嫌な顔を見せつけるが、彼は臆さない。
「どんな返事期待してるんだよ。どうもこうもないって」
その返事自体にさほど興味がないのか、榎田はそのまま続ける。
「今日、昼飯行くぞ。どこがいい?」
「はぁ? 俺は無理だよ、確認しなきゃいけない資料があるから」
「だめだ。同期命令だ」
らしからぬ強い口調だ。俺は適当な会議でも口実にすればよかったと後悔する。
所在のよく分からない心の中で、彼との蟠りが少しばかり解消されているように感じる。多分、嬉しい。
それにしても、『同期命令』を発動。飯を驕る代償を払って、飯を食いに行くとはいかに。
半ば無理矢理に作業を終わらせられ、誰か止めてと投げ掛けたチームへの目線は派手に無視された。
逆に「これ私やっときます」、「じゃあこの件は僕が」と挙って仕事を持っていく。その根拠は分かっている。
俺の体調の心配をする部下が気を利かせているというわけだ。
為す術なく、榎田に連れて来られたのはラーメン屋。よりにもよって台湾ラーメン。
食欲のない俺は、食べる前から胃が凭れる感覚に襲われた。平常なら食欲をそそる辛みの効いた脂っこい匂いが、入店前に並んでいるところから、もうつらい。
「いやぁ、久しぶりだなぁ」
感慨深く告げる榎田は、俺の苦境に気付いていない。
会社から近いのもあり、昔からよく来ている店。台湾ラーメンは名前とは裏腹に、名古屋発祥の料理だ。台湾風の具材と味付けを施した、辛くこってりとした正真正銘の名古屋飯。
とても今の俺の胃袋が納得しそうにない内容なのだ。
久しく会う大将に挨拶をして、開いていたテーブル席に座る。
榎田はやはり看板メニュー。俺はせめてあの唐辛子の効いたスープを避けようと、まぜそばを注文する。
脅威の速さでそれらは卓に出される。
ニラ、ニンニク、唐辛子。胃が更に重くなる。
醤油ベースの鶏がらスープはしっかりと赤みを帯びて、その上にミンチ、ネギ、もやしなどが気前よく乗せられている。
まぜそばの方はというと、スープを除いて大体同じ内容だが、叉焼と卵黄が加わっている。
日々奮闘しているサラリーマンにはありがたいスタミナメニューなのだが、この皿を終えられる自信が俺にはない。
暫く仕事の話をしている榎田に適当に相槌を打ちながら、慎重に食べていると、途中で榎田が沈黙したことに気付く。
視線を上げると、彼は神妙な面持ちでこちらを窺っている。
「なに?」
「須田さ、俺……なんかできること、ないか?」
俺にとってはあまりにも急展開な話題。何を指しているのか分からず、彼が話していた案件を思い出そうとする。
そうしていると、彼は視線を手元に落とす。
「ずっと、余計なことっていうか。空回りしてるだろ。俺」
「榎田、ごめん、なんの話?」
一向に思い当たる話題がないので、正直に謝る。気まずいような、申し訳ないような、視線が定まらないまま向けられる。
「え〜っと、だから。お前、ずっとなんか抱え込んでるじゃん?」
俺の話だった。
嫌な汗が滲む。料理の辛さのせいにするために、箸を進める。
「俺、いつも絡んでウザいかな、とか。あちこち、誘い過ぎかな、とか。色々考えてさ」
榎田が急に距離を置いたのにはそういう理由があったのか。
自分が馬鹿らしくなる。なぜ彼がそんな心配をする必要があるのだろう。
俺は、あの居酒屋の一件から何度か誘ってみたのに。断っていたのは気を遣っていたからなのか。俺が榎田を面倒に思っていると。無理に付き合っているのだと。
では、今日、昼飯に誘うことにも、不安を抱いたのではないだろうか。
「榎田……悪い、そういうんじゃなくって。全然ウザいとか思ってないから」
感情から距離を置いてから、なぜかそういう言葉が前よりすんなりと出てくる。不思議だと思った。彼がこんな繊細な心を持っているのも意外だった。
「俺のことだから、誰も悪くないし。それに、俺は、お前と釣りとか飯行ったりするの、結構気に入ってるんだけど」
作ってみた笑顔は多分表面的なものだ。しかし、きっと本心でもある。
榎田は口を開けて驚いた顔をする。いや、安堵かもしれない。
「……そっか。良かった。……でも、俺、ほかにもさ。その、ずっと調子悪そうだから、どうしたらいいのか分からなくて。だから、相沢先輩に相談しちゃってさ。何だかんだ俺らのことよく面倒みてくれたし。だから『相談に乗ってあげてくれませんか』って。先輩、なんか思い当たる節があるような感じだったし。でも、その後もっと調子悪そうにしてるからさ。俺、また余計なことした、って」
一息に罪を告白するような勢いで言い終えて、榎田はラーメンを啜った。
相沢を仕向けたのは榎田だったのか。どうりで急に絡んでくると思った。相沢は榎田に何をいったのだろう。『思い当たる節』ってなんなのだろう。
決定的なことを言っていたなら、きっと榎田に誘われることはなかっただろう。だから、大丈夫なはずだ。
俺は自分にそう言い聞かせる。
「その。心配かけて、悪かった……」
「いや、だから謝らなきゃいけないのは俺で。直接話せばいいのにさ……」
「そもそも俺の問題だから。仕事でミスらないようには、気を付けるよ」
榎田の視線に怪訝な色が映る。
「そうじゃないだろ。俺は、お前を心配してるんだ。須田がどう思ってるのか分からないけど、俺にとってお前は友達だ。仕事の心配してるんじゃないんだよ」
俺は彼を『仲の良い同期』という区分に押し込んでいた。
仕事がなければ友人と呼んでいただろう。しかし、仕事があるから同僚という肩書が先立っていた。
感じたのは罪悪感か、温かさか。
いずれにせよ、昼時のサラリーマンが犇めく台湾ラーメン屋で話す内容じゃないな、と思った。
あれだけ強引に連れ出すならせめて、夜に飲みにでも誘えばいいのに。
額を伝い、手に握る汗とは逆に、頭は存外冷静だ。
「心配するな。大丈夫だから。それより、伸びるぞラーメン」
そんな曖昧な言葉を返したと思う。
腑に落ちていない様子の榎田がまだ何かを付け足そうとするので「でも、ありがとな」と呟いた。
案の定、注文したものを食べきれなかった分を彼が美味しく頂いて、それ以上何も言わなかった。
俺は自分が疎ましい。
素直に友人の心遣いに感謝すればいいのだ。なのに、拭い切れない自責の念がある。
大の大人が同僚に迷惑をかけている。心配されるのは、ちゃんとしていないということ。失敗している。俺の人生、ずっと。
そんなはずないのに、そういう考えばかりが脳裏を蠢いている。どうすることもできない。それに潰されるか、放り投げるくらいしか、思いつかない。
会社に戻り、それぞれの部署へ向かい始めたときに、やたらと身体が浮くような感覚に捕らわれた。
特に動いているわけでもないのに、視界が何度か大きく揺れる。
妙に動悸が激しく感じ、身体中の血管が脈打つ。
最後に覚えているのは、切迫した声で俺の名前を何度も叫ぶ榎田と、いくつかの慌ただしい足音。




