9-3
扉を開けた香衣良は明らかに臨戦状態だ。
この顔を知っている、大きめの契約を交渉するときや、無理難題を突き付ける依頼者を説き伏せるときの顔。それが、俺に向けられている。
それはほんの一瞬のことで、その鋭い色は別のものへと変わった。
「翔一君……顔色わるいよ?」
浮かんだものをそのまま零してしまったかのようにはっとして彼女は手を口元に運ぶ。
「うん、ちょっと最近疲れが溜まってて」
特に繕う努力もせずに言う。「大丈夫なの」と訊かれるが、さすがに「大丈夫じゃない」とは言えないので黙って部屋に上がらせてもらう。
豪華な食事も、飾りもない。出されたのは温かいお茶。これは有意義な時間を二人で楽しむ場ではなく、音にするべき言葉を交わす場だから。
その結果がどうなるかは、彼女も俺も分からない。
本来、一日中何を言うべきか考えて、大方考えを整理して、どう話すのか準備しておくものだろう。俺は、意識をどこかにやっていたので、それは上手くいかなかった。
何を、どこまで打ち明けて、どんな反応を期待しているのかも分からない状態でここまで来た。そして、お茶を啜ってようやく、身体に自分が戻ってきたように感じる。
「疲れてるのに来てもらってごめん」
目の前に座る香衣良が困ったような視線で言う。
どれだけ酷い顔をしているのだろう。会社を出る前に少しくらい仮眠をとった方がよかったかも。と、できもしないことを考えてみる。
「いや、こっち来るって言ったの俺だし。見た目ほどヤバくはないから」
取り敢えず言ってみただけだ。無論、説得された様子は全くない。声が空中に漂って、気まずい沈黙が暫し続く。
「君は、元気にしてた?」
ただの時間稼ぎなのかもしれない。それでも、その答えによっては俺も多少言葉を選ばなくてはと思ったのだ。
「うん」
きっとその先にあるはずの『翔一君は?』の解答があまりに明らかで躓いたのだろう。彼女は短く答えてまた口を噤む。
「そっか、良かった」
大した時間稼ぎにはならなかった。彼女が今、気を遣っていることが分かる。そんな状態では話す意味もないのではないか。だから、俺は切り出した。
まだ着地点も何も見えていない。しかし、妙に頭が冷静だ。
「香衣良……この間の話だけどさ」
お茶の入った黄色いマグカップに添えられた彼女の指先が固まる。
「やっぱりさ。俺達、別れた方が、いいと思う」
驚くほどすんなりと言葉が出てきた。
それでも狡いと思う。これは彼女が差し出してくれた道だから。でもやはりこれ以上、彼女を利用するなんてことはできない。多分そこには、一層自分を嫌悪してしまいそうだから、という身勝手な理由もあるのだろう。
俺がどういう風に転がっていくかなんて分からない。身勝手でも彼女を道連れにはしたくないのだ。
彼女の表情は何も通さない。固まってしまった呼吸だけがその動揺を物語っている。何となく予感しているのと、実際にそれが言葉にされるのとでは別のことだから。
「……どうして?」
絞り出すように言った彼女の声は震えてはいない。あくまでも落ち着いた、論理的な口調だ。それが何故か逆に心を締め上げる。
「俺は、ずっと君を、利用してきた。自分の理想を投影して、実現しているように見せるために。俺は、君の自由を奪っているし、このままじゃ、ずっと奪うことになる」
その言葉を集めて意味を見出そうとするように、彼女は一度ゆっくりと瞬きをする。「どういう意味?」と彼女が言うと、『いつもの逆だな』と思う。俺の抽象的な言葉を彼女が理解しようとしている。
「ちゃんとした社会人……」
自分の言葉で悪寒が背筋を走る。
「俺の、人生の理想形、みたいな。ずっと、そんなものを追っかけてたような気がする。その中には結婚して家庭を作る、ってのもあって。でも、本当にそれが俺自身の理想なのか。分からなくなった。俺は形だけでも、そんな理想形に近づけようって。そう、自分に言い聞かせるために、君を利用したんだ」
思っていたよりもよっぽど明確なものだった。
詰まるところ、俺は自分の存在意義を疑問に思い、今まで何を築いてきたのか、何を手に入れてきたのか、見失っている。
今、俺の中に偽りではない何かはあるのだろうか。そんな空虚を埋めるように、俺は香衣良という存在に縋ったのだ。俺が勝手に押し付けた自由の象徴として、俺自身に俺の本性を隠してもらうために。
「それは……初めから気持ちなんてなかった、ってこと?」
目を見開いた。ここでそうだと言えば、確実に終わる。それでも、二人の過ごした時間全てが策略だった、そんなのはあまりにも報われない。
俺の香衣良への気持ちは確固たるものだ。その本音を伝えることが善なのか悪なのか、判断がつかない。自分の声が震えるのを感じる。
「ずっと、愛してきたよ。本気で。誰でも良かったわけがない。俺は、君となら、って」
そんなもの微細な違いだ。しかし彼女の肩は少し力を抜いたように見えた。
改めて香衣良の透き通った視線が向けられる、今度こそ揺らぎのひとつも見えない。
「私は、それでいいんだけどな」
余裕すら感じ取れる、困ったような微笑みを向けてきた。また、形成は逆転して、慣れ親しんだ疑問を抱く側へと戻っていく。
彼女は瞼を僅かに伏せて続ける。
「だってきっと、みんなそうだから。私も、翔一君のこと利用してる。自信のない私を応援して、自立するようにしてくれた。いつも素敵な場所に連れてってくれる。本当に自慢のパートナー……」
彼女の指は黄色いマグカップを装飾するオレンジ色のラインに沿うように弄っている。言いかけた「だから、それは」を彼女は優しく制止する。
「みんな、そうだと思うよ? ホントに。でも。ううん、だからこそ。その先に行かなくちゃいけなくて、その為に一番必要なのは、多分愛情」
「……その先って?」
「貴方のそういう不安定なところを知っていても、愛せるか。私の不自由で打算的なところが見えていても、愛せるか。逆に、私達はお互いに、一番薄暗い側面も見せられるのか。そんなところかしら」
「なにを。君が打算的だなんて、俺は——」
言い淀んだ。そう思っているからではない。彼女に幻想を押し付けてきた俺が何を以って言い切れるのだろうか。
確かなのは、彼女がそう思っているということ。
「打算的よ? この間会いに行ったのも、その前も。私から離れないように、って思っていたんだもの。貴方の本心を聞きたいのに、私はそれでも貴方の望む私でいたくって。ね? それに……貴方が思っているよりずっと自由じゃない。そんな人間、いるわけないじゃない」
彼女の口調は強くも柔らかくもあった。
落胆はしない、それは俺が勝手に作った偶像。或いは彼女が見せた幻影。真っ赤な嘘でもない。ただそこだけ見えるように、そしてそれは俺もまた同じで。
世の恋愛とはそういうものなのかもしれないと思った。
「生きていること自体が柵の定義なのかも。食べるのも、飲むのも、命を繋ぎ止める鎖で。そして、人間はね、仲間内でもそういう柵を作るんじゃない? 友情も、恋愛も、家族だって、一種の檻なのかも。錨って言った方が、なんかいいわね。自由は好きよ。思考とか感情を束縛されるのも嫌い。それでも、自由は心細いの。私は錨が欲しい。でも、逃避とか幻想じゃなくて、ちゃんと二人で決めた、実在するそれを選びたいの」
言い終えると香衣良はマグカップから一口飲んでから続ける。
「だから私はそれでもいい。ううん。それを知って初めて、ちゃんと貴方に出会えてる気がする。翔一君はどう? 私の話聞いて、気持ちが変わった?」
それでも彼女の表情に不安が浮かんでいる。
俺の中には今なにがあるんだろう。これは俺の感情だろうか。心臓が苦しくなっている。まだ、全部話せていない。話すつもりはなかった。
彼女にちゃんと愛していたことを伝える判断は無駄な希望を生んでしまった。平穏ながら心細さが滲んだ視線に堪えられず、俺は俯く。
「それだけじゃないんだ、香衣良」
「え?」
緊張感のせいか、思ったより鋭い口調になった。それに彼女も反応する。言える気がしないのに、言わなければならない。
彼女が普段どう思っているのか知っている。でもそれは、彼女の彼氏と名乗る人達ではないから。別の人に心が移ろっただけで裏切っているのに、その相手は男だ。
そんなことをどうやって告げられよう。それに、俺自身、折り合いをつけているわけではない。しかしこの場を逃せば、俺はまた香衣良を欺くことになる。
ずっと俺の言葉を待っている。口を開けては閉め、閉めては開ける。
「……、き、気になる人が、……いた」
「……え?」
「何も起きてない。起きてないけど……ごめん」
「…………」
「その人さ、……前に話した奴。その、俺に、こ……告白、してきた」
自分をこれほど曝け出したことなんてない。傷口の奥の無防備になった心臓を差し出しているようで、あまりにも恐ろしくて。
或いは言葉に初めてした感情があまりにも不格好で。涙が溢れ出そうになり、唇を噛んだ。
俺はそのまま帰ってしまおうと思った。しかし、立ち上がろうとしたところで香衣良が漸く声を出す。
「そ、そう、なんだ……」
もう少し時間をくれと言われたようで、浮き上がる寸前の腰はまた椅子に体重を預ける。
「翔一君は……ゲイ?」
はっきりと発音されたその二文字を自分ではまだ心の中でも唱えていなかった。浩太に纏わる形でしか考えていなかったから。
しかし、香衣良への気持ちは確かなものだと思う。だから、そんなはずはないのだ。そう断言できるほど、俺の脳裏は整然とはしていない。
堪えられずにいると、彼女は少し身を乗り出して、切実な表情で言う。
「でも、じゃあ、私が好きっていうのは? やっぱり……」
「分からないんだ、香衣良。でも、君への気持ちは偽ってない。これは確信してるから……」
だから何だというのだろうか。
二人の時間は虚勢と自衛だけではなかった、確かな愛情があって、確かな温もりがあった。そう思うこと、そう伝えることに意味があるのだろうか。
俺は今、どうしたいのだ。香衣良と別れて解放することか。香衣良に懺悔して許してもらうことか。意を決して彼女の顔を見つめる。
彼女は静かな涙を流していた。
俺には、その光景はとても直視できるものではなかった。大事な人を泣かせた。そんな事実が喉を締め付け、心臓を突き刺した。俺もまた、涙を堪えられなくなった。
彼女の隣に座り直した。
「香衣良っ。ごめん。ごめんっ」
俺の中にはまだ感情があった。
やっぱり閉め切れていなかった心の扉。衝動に任せて彼女の頬を包み込むように両手で触れる。潤む瞳を真っ直ぐ覗いて、
「好きだ、香衣良……でも、こんな俺じゃ君を幸せにできない。君にはもっと、ちゃんとした——」
「言わなくていい。そういうの……」
彼女は指先で口を塞ぐ。俺は彼女の涙を拭う。少し自虐めいて、
「今なら、ちゃんと貴方の写真取れそうなのになぁ……」
とても残念そうに言うと、柔らかな腕が首に回ってきた。
耳元で囁かれるように言う。
「翔一君は、どうしたいの?」
「だから、それは——」
「私のためとかじゃなくて、翔一君が、どうしたいの?」
「……無理だよ、香衣良。俺はもうめちゃくちゃで。何も分からない……」
彼女は頬にキスを落として、真っ直ぐ俺を見つめる。
「知ってるでしょ、私は貴方が男を好きだとしても、変だなんて思わない。だから、私とその人、貴方の気持ちがどうしたいのか。それだけが大事なの」
俺にはそんな選択肢はないように思えた。
なぜならこの狼狽をどうにもできないと思っているから。だからもう全部、手放してやれば。せめて大切な人を巻き込まないで済むのではないか。
浩太への気持ちは香衣良に対するそれほど明瞭なものではない。なのに、どうしようもない引力があって、それはきっと俺のもっと深くに潜む何かを触発するから。
俺は、本当にそんな深淵まで潜るしかないのか。
「香衣良。頼むから……俺はもう抱えきれてないから……」
だから別れてくれ。そこまで紡ぐことができない。
人生は不公平だ。
こんなにも愛しい人を自分の手で傷付けるなんて。
いくらでも良い出会いができたはずの彼女は、よりにもよってこんなボロボロな男に恋するなんて。
それでも、誰かを愛するには、俺はあまりにも自分のことを知らなすぎる。




