9-2
会話と呼ぶにはあまりに一方的な母との対面以降、何かが乖離した。
当然の報いと言えるし、血の繋がりには逆らえないとも言える。受け入れ難い感情に直面したとき、相手に返答する間も与えずに言葉を尽くす姿は俺自身と重なった。
浩太が名古屋に押しかけて来たとき、俺も母のような形相で捲し立てたのだと思う。
何を言おうとしていたのか。何を期待していたのか。自分のことなのに、何も分からない。或いはただ、母親を困らせたかっただけなのかもしれない。
その翌日に、俺は名古屋に戻ってきた。
去り際の母は、まるで何もなかったかのように、出発を二日早めたことにも触れることなく、本音かどうかも怪しい『ちゃんとご飯食べてよ』とか『風邪には気を付けて』とか言っていた。
母は悪い人ではない。立派な母親だ。
俺が風邪を引くと、お粥を作ってくれたり、本を読んでくれたりした。仕事や勉強で大変でも、俺がテストで良い点を取ると必ず一緒に祝ってくれた。誕生日を忘れられたことはないし、進路に口出しすることもなかった。
ただし条件があった。それは俺が『努力』していること。『ちゃんと』していること。
どこかで反発していれば、母の意思に背いてもその愛情が揺らぐかどうか、もしかしたら分かったのかもしれない。俺は臆病だからそんな懸けに出られるわけがなかった。
父は家族からいなくなったのだ。母だってそれは可能なのではないか、とずっと恐れていた。
大学をきっかけに独り暮らしを始めたとき、就職して東京から離れたとき。俺は何かを変える機会があったのではないか。
しかし、自分が自由ではないことすら気付けずにいたのだ。目に見えないものを渇望することなんてできない。
俺はずっと自分の輪郭を周りに合わせながら、本当の輪郭をどこかに忘れてきてしまったように思う。
そして今それを取り戻そうとしても、不透明で、高密度な泥に手を突っ込んで、形も分からないものを探すようで。到底叶いそうにない。
俺は、ずっとこんな息苦しさの中で生きてきたのだろうか。なんのためにそんな生活を自分に強いてきたのだろうか。
もう、考えたくない。ただ息がしたい。
知らなければ問題はなかった。
気付かなければこのまま、平穏で不満のない生活を続けられた。それが見え透いた茶番でも。
しかし、俺にも吸える空気があると知ってしまった。阿ることを求められない生き方があると気付いてしまった。
島崎浩太に出会ったから。
ひとりの人間が俺の人生をここまで掻き回すなんて、どうして予期できただろうか。浩太にそこまでの力を与えたのは俺だ。
初めて会ったときから、彼の求める俺の姿が全く想像もつかなかった。須田翔一というシステムが対応しきれないバグのように。彼の前では、何者にもなることはできなかった。
そして同時にどんな自分であっても、彼が変わることはなかった。同じように喜んで、同じように耳を傾けて。初めて、どんな俺でも受け入れられている気がした。
もしかすれば、今までもそんな人はいたのかもしれない。
香衣良もきっと、奥底で求めているのはそういうことで。それでも、求めていることに変わりはなかった。求められれば演じてしまう、そんな病気なのだろう。
浩太は、何も求めていない。俺が勝手に思っただけ。しかし、そう思ったから、息ができた。
あの日にあの言葉を言われても尚、彼はきっと何かを求めていた訳でもない。どこかでそう感じている。いや、実際には求めていないことはなかったのだろう。
ただ、こんな醜い俺でも彼は受け止めた。受け止めて、手を離してくれた。
浩太に会えば、また呼吸できるようになるのだろうか。
会って、どうする。その先に何がある。全ての元凶なのに。出会わなければ、こんな気持ちになることはなかったのに。
なのに、会いたいと思うのか。
滑稽だ。
多分、生命維持の役割しか担っていない食事を摘んで、平日から勢いよく飲んでいる。アレが臭くて邪魔で、そのくらいしていないとまともに寝ることもできないから。
浩太の言っていた真逆のことをしている。感情も何も求めていない、命を繋ぐためだけの食事、摂食。
魚のように。
そうか、水槽の中で無心に漂ってる魚のような、今の俺はそんな感覚なのだ。人間ですらなくなってたのか。だからアレも大人しくしてるのか。
妙に納得がいく。
突然沈黙を破る振動音に筋肉が強張る。
継続的に鳴り続ける着信に苛立ちが湧いて、発信者の名前を見て罪悪感が込み上げる。呪文を唱えるようにスマホを見つめていると、振動は止まった。
しかし、数秒してまた鳴り出した。溜息を吐いて、渋々応じる。
「……もしもし」
「あ、翔一君、ごめん遅くに」
「や、うん、大丈夫」
「もしかして、飲んでる?」
「ん? あぁ、少しな。それより、どうかした?」
「……」
香衣良の無言に刺々しい視線を感じて、またささくれのような不快感を抱く。
このまま切ってしまいたい衝動を抑える。
「明日、会わない? 私そっちに行ってもいいし。何なら外で食べるのも」
「ごめん、明日はちょっと」
無論、予定があるわけではない。
この部屋の荒れようと一緒で、俺の中にあったはずの彼氏の仮面がどこかに埋もれていて見つからないのだ。探すのが面倒なだけかもしれない。
「翔一君さ」
「ん?」
「……、別れるなら、ちゃんとそう言ってよ」
そう思われても仕方がないだろう。年末に会ってから、連絡も碌にせず、ずっと上の空だったのだから。あのときの会話だって、決して春風駘蕩なものではなかった。
「は? そんなこと一言も言ってないじゃん。なに、急に」
この期に及んで何を取り繕おうとしているのか。情けなくて笑いが出てきそうだ。呂律も回らないのに必死な振りをして、白々しい。
「否定も、しないのね」
「いや、だから、そうじゃ……。はぁ、分かった。明日会おう。君の家でもいいか?」
「……うん、分かった」
当然、彼女の声には不満の色が濃かった。なぜだか通話終了音さえいつもより鋭いように感じた。
霧がかった思考で会話をしても無意味だと思って、そう提案した。何を言うべきなのか、分からない。何を言いたいのかは、もっと分からない。
しかし、俺は全てから逃げたとしても、彼女にだけは向き合う義理があるように感じた。
幻想を見ていたのも、それに巻き込んだのも。ずっと俺だ。
何が『彼女の自由を守る』だ。一番彼女を繋ぎ止めているのは俺自身ではないか。彼女だけが俺を『あるべき俺』にしてくれるような気がして、少なくともその証明になってくれると思って、今までどれだけ利用してきたのだろう。
ああ、俺は浩太と出会うよりずっと前からクソ野郎だったのか。
考えると止めどなく溢れ出てくるどろどろした思考。まるで自分の体が自らに牙を剝いているよう。しかし、ある意味心地が良い。
多分、自分にずっと言いたかったことが沢山あるのだ。目を逸らしてきた罪悪感やら鬱憤が。
出し続けたら身の薄っぺらいものしか残らなくて、無害なそよ風にでも吹かれて、どこかに飛んで行ってしまう。そんな自分を思い浮かべる。
夜が長い。だからずっとそんなことばかり。
柔らかいものも、優しいものも、俺の人生には沢山あったはず。なのに常闇の中は何もかもが尖っているようで、その中でじっと見つめてくるあの虚ろな目玉が憐れむようで、却ってそのくらいしか好意的に見えない冷たい夜がどこまでも。
どこまでも。日が昇っても、結局夜なのだ。
起きて、身体に俺の主導権の全てを引き渡す。
会社で性懲りもなく榎田が寄ってきた。運が良ければ別件で企画部に来ただけ、と最後の最後まで視線をパソコンに向ける。
「須田……あのさ、今晩——」
「わるい、今晩は無理だ」
「そっか……」
それでも立ち去ろうとしないので、漸く顔を向けて細胞のどれかが覚えている笑顔を模倣した。
「香衣良と、約束でな」
「そ、そうか! それは良かった、うん。よし、楽しんでこいよな」
妙なアドバイスを口にした榎田は嬉しそうで、安心したようだ。
善意なのは知っている。しかし、それすらが煩わしい。
嘘ではないし、そう言えばきっと暫くは放っておいてくれるのではないだろうか。そう思って、体から離れた所にあった意識がぼんやりと『また彼女を利用している』と嗤っていた。
あの、居酒屋での一件から榎田のよそよそしさが解消することはなかった。俺もまた、どんどん調子が崩れていったので、それで良かったのかもしれない。
いい友人だと思っていた。今でも思っているのだろう。
人には色んな思惑があるのは当然だ。大抵は他人の目につかないところに仕舞い込んで、処理していくのが大人の行動だろう。
だから一概に、榎田の行動の起因が俺だけにあるとは思わない。色々大変なのかもしれない。そして、相談に乗ってやれない俺は、友人としてやはりどこか欠落しているのではないか。
少しの間、気まずい空気になったということだけで、結局突き放したのは俺なのだろうか。
そんな考えでさえ、遠いどこかで行われるものだった。
作業に何の支障を来すこともなく、多分脳が保存して、今夜にでも突き付けてくる。そうやって苦しむことに懺悔に似た効果を求めているのかもしれない。
ひとつひとつ溜め込んできた棘を、大事に皮膚に刺していくような、そんな法則なのかもしれない。刺す棘がなくなったらどうなるのか。
自分を赦すことはできるのか。
他人を赦すことはできるのか。
こんな自分に仕上げた命を、赦すことはできるのか。
俺の人生には染みが存在する。初めから、ずっと。
どこかの平行世界ではそれを個性として受け入れる自分もいたのかもしれない。でも、この世界では、染みを消そうと、隠そうと——そうして生きてきた。
よく分からない処置を繰り返し受けてきたそれはいつしか毒になっていて。浩太という存在によって身体中に広がった。
もうどうにもならない。
自分の結末なんて誰にも分からない。しかし、俺はこれから碌な人生が待っているとは思えない。
たった一本の線を辿って来たのだ。引き返そうと振り向けばそれは途方もなく遠い場所にあるようで、進もうとしてもそこにあったはずの道は輪郭が見えなくなった。
じゃあ、もう、線から飛び出して落ちるところまで落ちるしかない。
その先が、いいものだなんて、思えるはずもない。




