9-1
逃がすことのできない汚泥が自分という存在の奥底に沈殿している。多分それは昔からそこにあった。
気付かぬうちに得体の知れないものが一滴、また一滴と溜まっていって、今ではもう、手に負えない。
俺は、人間として欠陥品なのかもしれない。
ああ、アレがずっと居座っている。
部屋に収まる位の大きさなのに、視線を向ければまるで空間が捻じれるかのように、途方もなく巨大に見える。魚というより、最早鯨の類だ。
無数に生えていった腕は、鈴生りのように両側から伸びて、絡まって、蠢いて。まるで禍々しい黒翼に見える。
部屋中が異臭に支配されている錯覚に陥る。いや、案外錯覚でもないのかもしれない。
恐怖はもう、殆ど感じない。ただ、気持ち悪さだけ。
毎日、この化け物に押し潰されてしまえれば、どれほど楽になるか、そんなことばかり考えている。
なのに積極的に威圧してきたソレは、今やただ大人しく、部屋の片隅で埃を被る水槽の横で、じっと俺を見ているだけ。
実家から帰ってきてからずっと微熱を帯びたまま。
気に留めることすら馬鹿らしくなった。
アラームが喚いて何も見ずに止める。勝手に身体が布団から起き上がって、勝手に窓のカーテンを開けようとする。そんな光を部屋に招き入れたくないので、手を止める。
冷蔵庫に入っていない水のボトルを直接飲む。生温い。
トイレ。歯磨き。洗顔。髭剃り。鼻毛処理。美容液。嘔吐。また歯磨き。着替え。多分、普段の二倍は時間をかけている。
空の水槽とアレを素通りしてベッドに腰を掛ける。何も考えられずに、虚空を見つめる。
午前七時四十分。玄関に立って、吐き気を抑える。鞄、鍵、財布、社員バッジ。持った。靴、ドア。
ルーティンって何だっけ。
何も考えないで身体が動いてくれるためのものだっけ。ならば、意味を成している。俺が俺でなくなっても、きっとあるべき俺の生活を体が機械的に送ってくれる。
一日が長すぎるから、意識をどこかにやって、器だけの存在で、もういいや。
そうすれば、隣人の嫌悪する視線も、会社の忍び声も、彼女の通知も、それほど気にならなくなる。
手帳に記したもの以外に何も残らない一日が終わって、大人しく家で留守番するアレのもとに帰るだけでいい。
どうせ逃げられないから。
出勤時間が重なった隣人に何か言われるが、きっと的外れな返答をした。それでも取り繕う余力なんてないから、待たずに階段を下りていく。
一番心地が良いのは通勤中の無名にしてくれる不干渉だ。そのまま溶けていってしまいたい。無機質な街の一部として、自我も無いただの部品として機能するだけでいたい。
会社に着いて、空っぽの挨拶、空っぽの笑顔。何か言われることはない、仕事は指先に染みついている、脳が反射的に処理してくれる。心なんて必要ない。
それでも陰口は生じる。内容だって大体察しが付く。『須田リーダー最近冷たい』、『顔色悪い』、『大丈夫だろうか』。そんなとこだろう。噂なんてどうでもいい。
休暇から戻ると、何度か相沢が話しかけてきた。なんと言ってあしらったか覚えていないが、多分酷いことは言わなかったと思う。
榎田も初めは根気よく話しかけてきた。飲みに誘われたり。釣りに誘われたりした。けれど、頑なにそれらを断っていたら、漸く諦めてくれた。
人と関わらなければ、この調子を崩すことはないだろう。俺は、これでいい。
あとは、香衣良だが——そのうち気付くはずなのだ。こんな男と付き合っているだけ無駄だと。卑劣だとは思う。思うが正直、心が動かない。
只々放っておいてほしいのだ。
感情の扉を閉じたのは、意図したわけでもないが、それでも紛れもなく自分だ。
母に『ちゃんとしなさい』と言われたから。ちゃんとするには、全部閉じた方がいいと判断した。
抑々感情に振り回されることに疲弊しきっていたから、そんな理由もあったのだろう。そうしたら、多少はやりやすくなった。
きっと、無理があることも、どこかで破綻することも知っている。恐らく、思っているほど閉め切っていないことも。今までのことを振り返れば明らかだ。
しかし、他にどんな方法があるというのだ。その帰結が自分が壊れるということならば、もう壊れてしまえばいい。
欠陥品なのだから仕方がない。
年末に帰省して数日、俺は何をするでもなくぼうっとしていた。
名古屋の自宅よりは息苦しくなかった。久々に会う母は過剰なほど俺の世話を焼きたがっていた。ずっと抱えていた切迫感が幾分解れた。
やはり、母というのは唯一無二だと思った。
マザコンと言われればそれまでだ。
香衣良は一度もそんな疑いをかけてはこなかったが。それでも俺を育てるために母がしてきた苦労、差し出した犠牲。全部見てきたのだ。
別に母のために生きるべきとは当然、思わない。母だって、息子が自立することを願っているわけだし。しかし、せめて心配させないくらいの人間になろうとはしてきた。
それが母の努力に報いる、俺に可能な最低限。
どんな感情だっただろうか。
朝から呆然と窓の縁に肘を立てて、興味を引く何かがあるわけでもない街並みを眺めていた。
買い物があると言われれば付き添い、洗濯回せを言われれば従い、食事ができたと言われれば卓に就いた。
『ねぇ、なにがあったの?』
『なにも。なにも、なかったんだよ』
首を傾げて明らかに納得いかないようだった。
俺は最低限を果たせなくなってしまった。母は抜け殻のような息子を心配して、それを安心させるような言葉を持ち合わせていなかった。
俺の心はその逆を行く衝動に駆られていたからだ。手放してしまいたい、腹にずっと抱えている重みを。
しかし、そんなもの、母に吐き出してなんになる。悲しむ顔か、怒りか、嫌悪か、落胆か。何ひとついいと思えるものがない。
ずっと浮遊している感じだった。
指示されれば従うのは簡単で、ずっとそうしていれば、いずれ息もしやすくなるのではないかとさえ思った。
痺れを切らした母は、ある晩、食事の場で切り出した。
『翔一、あんた何があったかしらないけど、そんな顔で帰ったら職場で心配かけるでしょ。ほら、母さんに話しなさいよ。どうせ、香衣良ちゃんのことなんでしょ?』
母性本能というものには直観的な力があるというけれど、きっと見たくないものには働かないのだろう。
もう、疲れていて。あの夢を毎晩のように見ることに。考えることに。吐き気に。疲れて、顔の作り方も分からなくなるほど。
『香衣良……』
そこに逃げ場はあったのだろうか。そうとは思えなくて首を横に振った。
母への返事ではなく、ただそこにも縋る藁はない、と実感しただけ。
『じゃあ、なんなのよ?』
茶碗から米粒を箸で摘み上げる母は、俺の目も見ていない。
急に、母が憎くなった。
離婚したばかりの母は精神的に参っていた。失敗したような気持ちだったのだろうか。
酔うと、今更母親の世話になるなんて、この歳で就職活動だなんて、なんで私がこんな目に、こんなはずじゃなかった。
ショート動画のように繰り返していた。
そんな姿がただ悲しくて『大丈夫だよ』と背中を撫でてあげると抱きしめられ、『翔一はいい子でいてね。母さんをがっかりさせないでね』と言われた。
それが何度も、何度も。
俺は母の支えなのだと、誇らしかった。しかし、それから母は、言うことを聞かなかったり、悪戯をすると、俺を打つようになった。なんで言うこと聞けないの、なんで分からないの、ちゃんとしなさい、と。
それは長くは続かなかった。仕事がある程度安定して、訪問介護士になるという目標を得て、前の少しだけ口煩いけれど優しい母に戻った。
このことを覚えていないらしい。一度、なんとなく口にしたとき『何を言ってるのよ、人聞きの悪い。そんなことするわけないでしょ』と怒られた。
しかし俺は鬼の形相をして拳を振りかぶる母は、いつだってすぐそこにいるように感じている。分かるのだ。
気に入らないことを言ったり、したりする度に、瞳が一段暗くなって母の周りの空気が変わるのだ。いつからかそれを回避する方法を身につけていた。
壮絶な幼少期を送った訳ではない。
母の人生に辛い時期があった、ただそれだけだ。それ以外はごく平凡なものだったはずなのだ。それでも。
そんな母のために俺は、ちゃんとした人間になろうと努力してきたのではないだろうか。俺の中にあるその理想像は本当に俺のものなのだろうか。
存在しない記憶が蘇った。
いなかった公園の友人。
寄らなかったゲームセンター。
かけなかった近所迷惑。
しなかった着信無視。
吸わなかった煙草。
行かなかった夜遊び。
全部、母が心配するから。
胸の奥で黒い感情が滾っている。
心配ならなぜ俺を見ない。大体、何に心配しているのだ。俺か。どうせ何も聞くつもりもないくせに。母さんの望んだ息子で有り続けた、周りの望んだ友人で、会社の望んだ社員で、恋人の望んだ彼氏で。
俺は。
俺はいったい誰なんだ。
『母さん……もしさ……』
雑誌を片目に食事を続ける母。
俺の声に籠っているはずの絶望を聞き取らない母が、憎かった。同じくらい、今、俺を見てほしかった。息ができないから、心臓が痛いから。
安心させてほしかった。
『もし、俺がさ……』
『ん? 何よもごもごして』
『……、俺がさ。……その。男が……。……。男が、す——』
ガチャンッ、と強くて鋭い音がした。
母が勢いよく箸をテーブルに叩きつけた。母の表情を窺おうとした俺はどんな顔をしていたのだろう。母も知るわけがない、手元を凝視してこちらを向くことはなかったから。
『ん、ごめん。ハエが、ね。なんだっけ』
そんなわけなかった。瞳が濁っていたのだから。
もう、子どもなんかじゃないし、本当はどうでもよかったのかもしれない。
壊れるなら、もう全部壊れてしまえ、と。
『だから、もし俺が——』
『やめなさいッ!』
やっと向けられた視線は、心配する母親のそれではなかった。強く咎めてくる、ねっとりしたものだった。
俺はまだ、母のことが怖いのだろうか。今、打たれたところで痛くもないだろうに。
『あんた、やっぱり疲れてるのよね。だから、変な方向に考えちゃうのよ。仕事頑張ってたから。しっかり食べて、しっかり寝なさいよ? ちゃんとした社会人は体調管理も仕事のうちなんだから。きっと香衣良ちゃんも分かってくれるから、ね?』
それからいつもより早口でずっと喋っていた。
俺はその光景が信じられなくて、やはり今でも母のことが恐ろしいと思った。
暴力ではない何かが、恐ろしかった。
『頑張る』ってなに。『ちゃんとした』ってなに。
そんな努力の結果が今だよ。
なんで聞いてくれないんだ。
俺はなに。俺はいったいなんなんだ。
母さんが分からないなら、俺、どうやって。
そう言いたくても、母は一言も話させてはくれなかった。
深海に沈んでいくように、体中から力が零れ落ちていった。
多分、同時に他のなにかも。
でも、もういいのだ。
なんでも。




