8-6
与えられた猶予はほんの僅か。営業前なので当然だ。
先程からずっと、何を作ればいいのか考えている。親方が頷くような料理。一時間で力量を披露できるだけの。何より、俺がその一品を通して何を伝えたいのか。
昼膳に出てきた蕪蒸しを思い出した。
あの、冬が椀に浮かんだような感覚。一番、親方に言いたいのはきっと、今の自分なら『命を繋ぐ、更に向こう』を少しだけ理解できた、ということだ。
村田に確認すると、必要な食材は揃っていた。
語らいたいことも多いが、村田もまた俺にとってこの課題がどういう意味を持つのか理解してくれている。
厨房まで食材を取りに行ってもらっている間、調理器具を準備しながら心の瞼を閉じてみる。
料理に込めたい感情がある。嶺北の乱暴な吹雪のように暗く荒ぶる季節に灯る明かり。大切な人の笑顔。あの、どんな氷も溶かしてしまいそうなほど温かい感情。
それを込めたいのだ。
『人を笑顔にする仕事なんだよな。マジでカッコいいわ。俺もほら、めっちゃ笑顔!』
翔一、もう一度お前のために、料理してみてもいいだろうか。
本当は届かないけど、記憶のおまえだけでも、笑顔にしたい。
きっとこの気持ちは他の誰かも笑顔にできるはずだから。
寒鰤の霙椀。
風雪に煽られる民家、窓に揺らめく火影。この風景を届けたい。
技術的に外してはならないのは鰤の下処理、出汁の引き具合、火の入れ加減、そして全体的な口当たりと見た目。飾らないからこそ、腕が見える。
村田が食材を運んでくると、指示を出して調理にかかる。
まずは要の一番出汁を昆布と鰹で引く。味付けは控えめに、酒と薄口醤油をほんの少し加え、塩で輪郭をつける。
上等な鰤の切り身には薄く塩をして、水気を布巾で押さえる。臭みの処理が肝心。血合いの匂いを残さないために、骨の際まで指先で確かめ、バーナーで皮面を焼き霜にする。ちり、と縮む音とともに奥深い香気が立つ。
続けて、霙に見立てる蕪をおろし、ざるに上げて水を切る。なるべく甘みを残すため自然に切れる分だけ。
葛を薄く引いた出汁を温め直して、味を再度整える。沸かしすぎないよう気を配りながらおろした蕪を解いていく。吸い地の濁り具合を見定める。
透き通る空気を切り裂く、荒ぶる吹雪。
親方が戻って、台所の隅にある椅子に腰かけたことに気付かないほど集中していた。暫くして大女将まで横に並んだ。
腕を組んで作業を眺める親方の姿が目に入り、思わず動揺が走る。しかし、それも一瞬で目の前の料理に向き直す。
鰤を吸い地に入れて、弱火で温める。最終的な口当たりを意識して、絶妙な頃合いを狙って火を止める。
村田に予め温めてもらった器に鰤を置き、霙出汁を静かに張る。仕上げに針生姜と芹、そして柚子の皮を乗せる。見た目を眺める。
控えめだが、俺なりの『冬』がちゃんとある。それを蓋して閉じ込める。
「お待たせしました」
そう言いながら、親方と大女将の前に椀を出す。
村田は自信ありげに親指を立てた。師匠を前にした弟子特有の緊張感で手に汗を握る。呼吸はしているが、きっと必要最低限にしか酸素を取り入れていない。
蓋を取った親方の表情は何も零さない。大女将は実直に「まぁ」と微笑んで、多少の安堵感を与えてもらう。
派手な細工はない。魚を扱う技術と気持ちを伝える情熱だけで勝負に出た一品のつもりだ。
黙然と評定が進む。
暫くして親方は、静かに椀を卓へ置いた。
固唾を呑んで、迫り来る言葉に身構える。
「せやな、味は……まだ、うちでは出せんな」
判決は議論の余地もなく下された。
それが、今の俺の技量なのだ。『桜喜亭』で出せるような料理を作れると思い上がってはいなかったはずだ。
それでも、その言葉に胸の内側から崩れていくような落胆を抑えられない。俺は込み上げる慙愧の念に視線を床に落としてしまう。
しかし、たっぷりの間を空けて、親方は続ける。
「せやけど、まぁ、上等や。冬を照らす笑顔……そんな味やな。おまえらしい一品や。ええ料理人になったな、島崎」
勢いよく顔を上げると、親方は貫禄のある姿勢で真っ直ぐな笑顔を向けていた。隣に座る大女将もまた「うちも、ええお味やと思います」と厳粛な口調で言い添えた。
喉の奥底から震えが来るのを感じる。
それと同時に、より確かな実態を持った何かが一緒に、駆け上ってくる。全く言葉が出ない。
師匠にとって『料理人』という言葉の本当の意味。そこに少しは届いていると、告げられた気がした。
みっともなく「あ」の一文字を繰り返しては喉がつっかえる。抑えきれなくなる前に恭しく頭を垂れる。
「あ、ありがとう、ございますっ。師匠……」
言葉にして伝えるつもりだった想いは、親方に伝わっただろうか——今の、俺の料理として。
感謝していること。師匠の薫陶にずっと従って突き進んでいること。いつか、胸を張って師匠にまた料理を振る舞いたいということ。ずっと師匠の弟子であること。
霙椀の残りは、夜席の準備が始まった厨房へと運ばれた。当時の仲間は揶揄いながらも、喜んでくれた。
若旦那と板長に至っては、涙ぐんで「成長したなぁ」と不思議な目線で感心していた。恐らく、一番迷惑をかけた二人なのだろう、と改めて申し訳なく思った。
この場所の空気を思い出して、どれほど自分にとって貴重で決定的な体験だったのかを感じた。
今度、浜音に社員旅行しよう、とか。こいつ今度結婚することになったんだぜ、とか。僅かだったが、旧友との時間はとても楽しかった。
村田は「また電話で話そうな」と言って、夜膳の準備に入った。
料亭の典雅な聚楽壁の続く廊下を親方が先導する。態々見送ってくれるという。
「親方、今日はお時間いただいて、本当にありがとうございました」
「まあ、たまには顔見せに来たらええ。うちのもんも喜ぶ」
「はい。来られて良かったです」
ふん、と笑ったのかどうかよく分からない鼻息が返ってきた。
別れ際に親方は肩に手を乗せて、ゆっくり話す。
「島崎、ほんまにあかんようになったら、戻ってきたらええ。せやけど、行けるとこまでは行き。その前に音ぇ上げるんは、許さんぞ」
細くて皺や染みの目立つ手は、それでも力強い。
以前、澄子が彼氏の浮気を話したときに言った言葉を思い出した。あのとき俺は、『大丈夫だ』と言ってやりたくても言えずに。彼女がそこで夢を投げ出すことが、何より最大の悲劇に思えた。
親方もそんな気持ちなのだろうか。もどかしくて、上手くやってくれ、と願うことしかできない。
俺は、あのときの澄子と同じ気持ちでここに来たのだろうか。
年末年始に出前をやって、それまで仕事に対して受け身になっていたことに気付いた。
決意が揺らいでいたのは、浜音に戻ったあのとき、心のどこかで言い聞かせていたからではないかと思った。
爺ちゃんが倒れたことや、婆ちゃんが困っていたこと。俺が店を継ぐだけの力を身につけた頃には『うきぐも』は無くなっているのではないかという焦燥。
本当は、選択肢なんてそれほどなかった。しかし、俺は『決意』という形で選び取った。
後悔していない。それは俺の方便なのだろうか。
つい、もう少しここで働けていたなら、と思ってしまった。
多分、どこかでまだ甘えたい自分がいる。己の両脚で立って、歩くことに躊躇している自分がいる。足りないものへと目を向けてしまいそうな自分がいる。この道を究めた師匠に肯定してもらいたい自分がいる。
覚悟を持って浜音に戻る決断をしたはずだ。
それからの俺は、その決断に誇りを持っていたのか、ただ強情に不安を隠してきたのか。少しだけ、確信が揺らいだ。
だから、俺はここに来る必要があった。己の決意を確認するために。
親方はそんな俺を認めてくれた。腕はまだ磨け、でもその方向は間違っていない、と。だから、少しだけ自信が削がれたのも強ち悪いことではない。
俺はただ、気付いていなかったのだ。一人で民宿を継いだことに疲れを感じていたことも。決意がどこかで、枯れかけていたことも。
また、ひとつ、恩ができた。親方の言葉でまた頑張る気力が湧いたのだ。
自分が決めたことを後悔しても無意味だと、思っていた。
それ自体は変わらない。しかし、俺が思ってきたほど、心は二極化できていないのだと気付いた。
俺はただ、簡単で分かりやすい世界だけを見るようにしていたのかもしれない。
父親も母親もいない家庭で育てられた疑問も、祖父母への愛情で埋め尽くせば、俺の選択になる。
他人の納得いかない言動も、自分はズレているから関係ないと思えば、俺の選択になる。
不透明な感情に苛まれても、自分探しの旅に出ると言えば、俺の選択になる。
正解のない帰路に立たされても、俺の夢は『うきぐも』だと言い切れば、俺の選択になる。
強情なまでに自分を貫いてきたのは、防衛本能だろう。
人生の理不尽や曖昧さに飲み込まれないために、己の無力さに立ち向かうために、変えられないものへの主導権を取り戻すために、俺はずっと選択してきた。
善悪の話ではない。俺には他のやり方ができなかった、ただそれだけの話だ。
俺自身の判断に責任を持ちきれないときだって、本当は、あるのだ。
後悔するとしないの間にある、曖昧な濃淡。後悔していないけど、とか。
ただその曖昧さを認めたくはなかった。
気を抜いたら、後悔の方へと引き摺り込まれると思ったのだろう。それは、また意思の外側にある何かに自分の在り方を決められることを意味してしまうから。
しかし、認めなくても、そこにあった。
曖昧というのが人に共通する本質なのかもしれない。その不明瞭と折り合いを付けながら、確証を持てないまま、皆が毎日進もうとする。
俺は、それを『俺の選択』という呪文で濁してきただけなのかもしれない。
いいのだ。
親方に言われた通り、変わる必要はない。
奥底にある性質は、どうせ変えられない。変えるべきでもない。
ただし、足踏みするのはよそう。
今、俺は自分の曖昧さを受け入れようとしている。
もっと自分を理解して、そうすれば大切な人も、もっと理解できる人間になれるのかもしれない。
少なくとも、誰かを傷付けて『仕方ない』で片付けるような人間ではありたくないから。
変わるのではなくて、自分の延長線を進むだけ。




