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石畳の路地を犬矢来が連なり、時折軒先に南天が冬枯れ風景を刺すように立っている。
控えめな屋号のもと、格子戸を引くと、底冷えが遠のいて炭と出汁の香りが混じり合った暖かい空気に抱擁される。低い天井の下、磨き抜かれた床が古木の鈍い艶を纏い、客人を招き入れる。
『桜喜亭』である。
仲居に案内された座敷は、障子から差す冬の白い光が優しく静かな空間を作り出している。この空気も、香りも、色合いも、何もかもが懐かしい。
初めてこの店に足を踏み入れたのは、後に共に見習いとして入ることになる村田に誘われたとき。
歴史ある料亭には何度か訪れたが、ここの料理を口にしたとき、明確に魅せられた。信念というか矜持を、これほど味に感じたのは初めての体験だった。
村田と視線を交わしただけで、同じことを考えているのが分かった。『ここで学びたい』と。
俺は志半ばで故郷に帰ったが、村田は今回の話を通してくれた友人だ。ひたむきに努力し、今では俺より実力も知識も高いのだろう。
悔いはない。選択というものの結果で、それに不満など抱かない。
久々にここの料理が食べられるのがただ嬉しい。
昼膳の最初に朱色の椀が置かれる。蓋を外すと美しく彩られた吸物。
店の伝統でもある桜形に面取りされた聖護院大根や椎茸などが透き通る白出汁に浮かんでいる。一口含むと、冬に灯る囲炉裏の火のように、心が満たされる。温かさを求めた味の中で、吸い口の柚子が閑雅な味わいに晴れやかさを加える。
冬晴れの、肌に染み込む日差しの味だ。
続いて並べられる生麩や香ばしい甘鯛の若狭焼き、霜の降りた窓のように透き通る薄造りや、雪塊のような蕪蒸し。どれも冬を切り取って連ねたようだ。
頭を下げて去り行く仲居の足袋が粛々と畳に擦る音も含めて、小さな雪景色に迷い込んだような感覚。
そして箸を入れると、季節が解けていくようだ。
膳が下げられて程なく、仲居が趣のある小振りの茶碗に熱い薄茶を注いで、菓子を音もなく置く。控えめな声で言う。
「当主より申し伝えを預かっております。二時にはお目にかかれますので、今しばらくお待ちいただけましたら、とのことでございます」
感謝と了承を伝えると、仲居はまた慎ましい所作で座敷を後にした。
地元の知り合いは俺がこのような格式ある料亭にいることに違和感があるだろう。作法の『さ』の字も知らなさそうな見た目だから仕方ない。
浜音では何一つ気にせず生きて来られたが、一度外に出てしまえばそれが通用しないのは当然である。
旅に出て初めて俺は『社会に合わせる』必要性を受け入れた。
そのときは澄子も傍におらず、身につけるのに苦戦した。幸い、人には恵まれてきた。どこに行っても心の広い誰かと交友を築くことができた。
だが『桜喜亭』に仕え始めたころは、一挙一動が叱責の対象となった。何をしても、違う。何を言っても、違う。
辛かったが、信念を持って入ったので、心が折れるようなことはなかった。それでも、長らく悪戦苦闘していた。何をどう変えればいいのか迷走していた。
暫くして親方に言われたことがある。
『おまえがどういう人間だろうと、それだけで間違いなんてことはあらへん。せやけど、人はひとりで生きてるんやない。家にも、店にも、町にも、決まりと持ち場がある。違うもん同士が一緒にやってくには、要るもんや。
常識いうんはな、絶対の正義やない。人さんと生きるための節目や。せやから、おまえは変わらんでええ。ただ、自分の役目を見定めて、人さんとうまいことやってく術を覚えなあかんだけや』
きっと、板長が手こずるのに見かねたのだろう。今までになく長々と語りかけられた。
『変わらなくていい』と言われて漸く腑に落ちた。自分が変えなくてはならない性格の項目ではなく、覚えるべき社会のルールの箇条書きとして捉えると、みるみる内に改善することができた。
だから親方は料理の師だけではないのだ。
座敷で抑え気味に聞こえていた話し声や笑い声も少しずつ減っていき、約束の時間になると殆どの客は帰っていた。
俺は別の応接室に案内され、親方を待った。
相変わらず厳格な表情で入室してきた『桜喜亭』五代目当主、笹原宇隆は、やはり少し老けているが、更に箔が付いた空気を纏っていると感じる。
俺はすかさず腰を上げ、深く頭を下げる。
「親方、ご無沙汰しております」
「おぉ、島崎。待たしてしもたな。堪忍」
「こちらこそ、無理言ってすんません」
そう言っている間に、親方は座卓を隔てた向かいの長椅子に腰を下ろす。着席を確認して自分も座る。手元の袋を丁寧に差し出す。
「大した物ではないですが、地元では冬によく食べるんで。皆さんで召し上がってください」
水羊羹である。
あまり、考えの及ばない土産だが、京都に寄ること自体が急な決断だったので無難なところで手を打ってしまった。仰々しくそれを受け取ると、親方は無言で鋭い視線が向ける。
何に納得したのか、口角を僅かに上げた。
「ええ顔に、なったな」
「覚えて頂けていたのですね」
再び低頭しながら言うと、おかしそうに親方は言う。
「そらそうや。根性なしでもあらへんのに、四年で辞めたもんは、そうそうおらへんさかいな」
「その節は、本当に——」
苦笑するしかなかったが、向けられる声は存外温かい。親方は軽く手をあげて、取るに足らないもののように謝罪を遮った。
ノックが聞こえて、若い女性が湯呑を二つ運んで入ってくる。笹原はそれを受け取ると礼を言いながら口へと運ぶ。続けて俺も同じ動作をする。
「このあいだ、うちのご贔屓さんでな。鈴木さんいう人が来はってな。おまえ、知っとるやろ?」
直ぐに誰の話か分かった。
十月の閑散とした時期に民宿に来た釣客。夫婦で『桜喜亭』の常連だということを知って、話が盛り上がった。
俺はその名前が出されたことに驚きながら頷く。
「おばあさん、亡くならはったそうやな。大丈夫か?」
親方の口調は柔らかくなった。
店を辞めた当時も、爺ちゃんが倒れたことを親身になって聞いてくれた。笹原宇隆は、こう見えて家族を何より大事にしている人だ。
『うきぐも』を継ぐ意思を上手く切り出せずにいた俺に喝を入れてくれたことも、鮮明に覚えている。
「ええ。もう二年経つんで」
「店は。ちゃんとやれてるんか?」
「正直、ギリギリのところでやってます。はは」
「おまえは、昔から不器用やさかいな。みな、心配してはった」
その『みな』に、他の誰よりも親方が入っているのだと感じた。このような報告しかできないのが、悔しくなり、視線を落とす。
「情けない顔すな。自分で選んだ道やろう」
そうだ。そして、それは間違いにするわけにはいかない。師匠に心配をかけるような弟子は、まだまだ未熟だ。きっとそれが、早々にここを去った代償なのだろう。
俺は心の中で決意を結び直して、本気が伝わるように固く言った。
「すんません。俺は、いまでも後悔ないです。必ず、胸張って『店を継いだ』と言えるようにします」
親方は満足そうに口の片端を上げる。
手のかかる子供にひとつ、大事な教訓を教えた親のように、長椅子に深く座り直した。そしてまた、愉快そうに、
「鈴木さんがな、えらい褒めてはったで。おまえの料理」
頬の辺りが熱くなった。
直接褒められるのはともかく、師の耳にそれが届くことに言いようのない羞恥が湧き出した。
きっと紅潮する表情が面白くて、親方は笑い声をあげる。
「せやから言うたんや。『わしは、あいつの料理に得心する前に出て行かれてしもたさかい、羨ましいな』て。ははは」
穴があれば入りたい、とはこのことだろう。返す言葉も見つからず、体が自然となるべく小さい体勢をとる。
親方が認識しているほどの常連さんの言う言葉を否定するわけにもいかず、そもそも折角の心遣いを無下にすることもできず。かといって、師匠を前に『腕を磨いた』など言うほどの自信もなく。
「どうや、島崎。なんぞ作ってかんか?」
「え?」
気の抜けた声が響き、親方は不敵な微笑を向けて反応を観察している。
料理人として成長できているのだろうか。今まで叶わなかった、師匠を頷かせるくらいの腕にはなれているのだろうか。
不安とともに差し出された機会に心臓が高鳴る。
「はい。しかし、板場に立たせてもらうわけには……」
「夜席の支度があるさかい、板場なわけないやろ。奥の台所を使い」
「はい」
親方について応接室を出ると、そこに村田が神妙な面持ちで待っていた。
久々に会う友人と挨拶を交わすと、俺の補佐としてつくよう、親方に命じられたと言われる。指示した本人は「時間があらへんのや。もたもたすな」と店の裏手へと案内する。
改めて村田と笑顔を交わして、過ぎた年月を感慨深く噛み締めた。
当主一家が住む住居部分の台所を借りることになった。
大女将が態々出迎えてくれて、弾んだ声で、「元気にしてたんかいな?」、「まあまあ、こんな立派になってしもて」と捲し立てた。
数年働かせてもらっただけの見習いを、ここまで気に掛けてもらっていたことに隠し切れない動揺を覚えた。
挨拶が済むとすぐに、親方は台所を顎でしゃくって「一時間後にまた来る」と言い残し、店に戻って行った。




