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一度脳に落としてしまえば、今まで気付かなかったことが不思議なほど、自明のことだ。善悪で二分できるほど心というのは単純ではない。正しいかどうかでは片付かない。
そんな当たり前を考慮せず、澄子に正論ばかりを突き付けてきた。なぜ、あのときにその気持ちを打ち明けてくれなかったのか。そんなこと言えるはずもない。
訊けるような形で話さなかったからだ。
「澄子……。辛い思いをさせて、本当にごめん。あのとき、ちゃんと話し合わなかったのも、勝手に決めて突っ走ったことも。この前も」
「も、もういいよ」
申し訳なさそうに澄子が宥める。それでも、内側から湧き上がる。
好きだと、あれほど言っていたのに、俺はその人に酷な選択を迫り続けた。自分の決断を間違っているとは思わない。しかし、俺の選択が招く彼女の哀しみを慮ることができなかった。
置いてけぼりにしたのだ。それでもずっと、澄子は友人でいてくれた。
「結局、それでよかったのよ。いつまでも浩ちゃんの腰巾着でいたら、きっと後悔してたから。今は、浩ちゃんのお陰で私も自分の道を進めているって思ってるよ?」
「澄子……」
「はい、もー。そんな顔しないで。私も強く言っちゃったのが悪いけど」
「澄子、話してくれてありがとう」
その後、澄子が翔一について質問してきて、経緯を少し話すことになった。正直なところ、同性だということを彼女がどう思っているのかいまだに判断がつかず、言葉を選んだ。
「本当はほとんど確信してたんだ、翔一も同じ気持ちだって。だからああなるなんて、思わなかった。俺は、また勝手に突っ走って、何も考えてなかったんだ」
「……ねぇ、浩ちゃん。私が言うのもなんだけどさ。酷いって思わないの? そこまで突き放されて。散々言われて、それでも気持ち変わらない?」
酷いとは思った。
俺が若い頃に蔑んでいた、人を侮辱して愉しむ奴らが使いそうな言葉を向けられて、否定されて、傷ついた。
それでも、翔一が酷い人間だとは思えない。いまだに好きだからなのか、別の理由からなのか。
俺の記憶に存在する、温かくて人間味溢れる彼が、あの怯えた顔で怒鳴る人と同一人物だとは、どうしても思えない。
いや、あの言葉自体が、ネットで見かける偏見の塊と同じ性質だと思えないのだ。
「あいつが、一番傷ついてるような気がして」
「あーもう!」
勢いよくお猪口をテーブルに叩きつけた。呆気に取られた俺に、眉間に皺を寄せて澄子は声を少々荒らげた。
「ごめんだけど、何かムカつくの! 何で浩ちゃんがそんなしおらしくしてるのよ。見たことない、そんなの! そこまで自分責めなくていいじゃん、その翔一さんの方がよっぽど許せないこと言ってきてるじゃない⁈ なのに、どうして浩ちゃんが非を感じてるの?」
開いた口が塞がらず、暫く怒りを吐露する澄子を見守った。しかし途中から胸を込み上げるものがあって、つい笑ってしまった。
「なに? 私、変なこと言った?」
「いや、そうじゃなくて。ははは。わりぃ。澄子、俺のために怒ってくれてるんだよな? なんか嬉しくて」
勢いの腰を折られて一気に鎮まったようだ。彼女もまた笑い始めて「当たり前じゃん」と言った。それに心底、安心した。
少しは、精算することができたのかもしれない。俺が長年、放置していたために蓄積されたものが、少しだけ溶けたのかもしれない。
新店に戻らなければいけないという澄子とは八時頃に別れた。俺は歩いて五分にあるビジネスホテルへと向かった。
体温が徐々に削がれていくのを感じて、歩みを急いだ。
部屋に着くなり、丁寧に整えられたベッドに倒れ込む。母親、母親の婚約相手、大阪の旧友、そして澄子。とても長い一日だった。
身体的なものより精神的な刺激過多による疲れで、眠る気にもなれない。ただ意識の手綱を離して暫し放浪させる。
安いホテルの内装は質素だが実用性を兼ねているし掃除は行き届いている。ちょっとしたソファースペース、テレビ、電気ケトル。
うちもこのくらいの設備を整えた方がいいのだろうな、と漠然と非対称的なサービスをわざわざ比較する。
澄子に言った言葉は本心だ。投げつけた言葉に一番傷ついているのは翔一だと思う。
波風を立てないよう生きてきた人だ、ずっと周りを窺って、誰かが負わなければならない痛みがあるのであれば、他人より自分が背負う。
共有した時間の中で見たその人は、偽りでも虚勢でもないと思った。何より、『キモ』と言ったあの顔も、あの声も、まるで自分に向けられたかのように狼狽えていた。
それで知った気になるような真似は、もうしない。けれど、少なくとも、俺が恋した人は確かに存在していた。
たとえ願望でしかなくても、その人との時間は紛れもなく実在したものだ。
なぜだか、前に翔一が話していた夢のことを思い出した。
空を飛ぶ力を得た魚が、息もできないのに自由を求める、そんな内容だったと思う。
俺はあの話を酷く不満に思った。夢に不満を抱くのも分からない話だが。しかし——。
魚はなぜ鳥達が戻ってくるのを大人しく待っていたんだ。息苦しさに堪えて、また去って行くものの帰りをひたすら。
遅くても空を泳げるのだから、一人でどこにでも行けるだろうに。雨を追っていけば、苦しさも紛れるだろうに。どこかには、自分のような存在に出会えるかもしれないのに。
なぜ、魚はそこに執着して、自分の運命に悲観しながら、ただ待つことを選んだのだ。自由なのに、自由じゃない。自分で縛っているから、気付かないのだろうか。
ああ。けれど、今なら少しだけ分かる気がする。
魚が求めたのは、自由でも、飛ぶことでもないのかもしれない。ただ他でもない、あの鳥達に憧れていたのではないだろうか。
だから他に仲間を求めない。息苦しさも、寂しさも、ひとたび鳥達に紛れて彼らになり切った気持ちになれるなら、なんだって耐えられるのではないか。
ならば、やはり誰かが連れ出してあげなければ。ずっと一緒にいなくても、ほんの少し、別の景色を眺める機会があれば。そうすれば、魚も世界の広さに瞠目するのではないだろうか。
魚である自分の目で、それらを見て行こうと思うのではないだろうか。
名前くらい、つけてやればいいのに。
不憫な魚に思いを馳せて眠りについたが、当然、夢を訪れてくれることはなかった。
翌日正午に『桜喜亭』の予約をとっていた。
久々の安眠に様々な疲れが回復したのを実感して、たっぷりと時間をかけて支度をする。そして朝食目当てに街の散策に出かけた。
ほぼ三年ぶりの京都だった。それほど昔とも言えないながらも、どこを見渡しても当時の輪郭をかろうじて残して、顔つき自体はがらっと変わっている。
社会が変わる速度は人間よりも目まぐるしい、不思議なものだ。
料理学校時代、京都駅周辺に遊びに来る度に寄っていたカフェがあった。そこのモーニングが気に入っていたのだが、全く別のサンド専門店に変わっていた。
レトロな内装は落ち着いた空気を纏って、ジャズの流れてきそうな店だ。立地の縁で朝食はそこに決めた。
平日の昼間、当然知人に会うことも難しいが、それでいい。まだ昨晩の澄子との会話を消化しきれていないから。
そのうえ数時間後に師匠にも会う予定なので、少しばかり一人時間を満喫する。
自虐的になりすぎている側面は否めない。
今まで、人生の旅程を自信満々に辿ってきた信条が、思いのほか万能ではなかった。意図せず付けた傷ほど後悔するものはない。
更にいうと、俺は後悔することに慣れていない。頑なに退けてきたのだ。今や、思い浮かべる自分の姿には、明らかに母親と通ずるものがある。
卑屈になるべきではないことは明白だ。そのために生贄を必要ともしない。翔一を悪役にせずとも、受け止め切れる。
しかし俺は多少なりとも迷走している。今まで行動の指針としてきた羅針盤が狂ったかのように。それが本来の在り方なのだろう。
その都度、迷って、悩んで、不安を抱いて。そうやって不確かな歩を重ねて進むものなのだろう。
いつだったか『第二の思春期』が訪れたのではと自嘲したが、言い得て妙だ。この漠然とした不安は、それによく似ている。
感情の整理が多少は上手くなったくらい、人生経験を重ねたくらい。今、自分がしていることが正しいと思えるくらい。まあ、それだけマシなのだろう。
スマホを無心で弄っていると、ふいに、指が翔一との会話履歴を開いた。そしてまた意図もなく、スクロールしていると、一つのメッセージが妙に目に入る。
『心配するなよ。誰よりも真剣に生きてるんだから。そうやって今までも道を切り開いてきたんだろ? 周りの人もちゃんとそれ見てるし、激励されてるよ。俺もその一人だし』
自分が経営に向いていないため『うきぐも』が傾いてしまう不安、昔からの常連を落胆させてしまう不安。そんなものを零した俺への返事だ。
全く関係のない話なのに、なぜだか心にすっ、と入ってくる。翔一はそういう力の持ち主だ。
今でも俺を励ましてくれる、過去の翔一に頬を緩ませる。
言うほど記憶に残るものでもないフランクフルトサンドと珈琲を飲み込み終わって、また街の呼吸を求めて店を出た。




