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空魚  作者: 白雨 梦乃
第八章・水天(すいてん)
45/69

8-3


 あのとき、気付けなかったことも、時間が経てば嫌でも突き付けられた。どれほど自分本位だったか。

 胸に溢れる感情に服従して、何も考えずにどれほど突っ走っていたか。翔一の気持ちなど二の次だった。


 そんな我欲エゴを孕んでいたなんて知らなかった。翔一にあれほどのことを言われても、まだ何とかなると思って疑わなかった。

 衝動だ、自己防衛的な何かだ。その方角に走った理由も考えずに、勝手に理由づけて、いずれはまた前のように戻れる、と心のどこかで夢見ていた。

 俺が彼を追い詰めたがために言わせた言葉で、それに更に彼が追い詰められているなんて、予想だにしなかった。


 昔から人に合わせることを苦手に感じ、自分が納得することが大事なのだと思ってきた。だから自分が決めたことは満足のいくまで追求し、それがたとえ間違いであっても自分の糧として受け入れてきた。

 しかしそれは、よく言えばの話しで、同じ根拠の裏側には、大概自分のことしか考えていない、ということだった。翔一との最後の通話で、漸くはっとした。


 そうして気付いたのは、俺が今まで、執念深く突き進む道すがら、どれほど周りを巻き込んできたかだ。

 その人達を、俺の人生の選択という名目の下、構わず振り回し、置き去りにしてきたのだろう。



 人が変わる。まして、大人が変わる。

 それは、ただならぬ事情がない限り起きないことだ。自分を顧みるには相応のきっかけと執念、そして時間が必要で。

 漠然と思い描いたくらいで、そのような労力を注げるほど、人は柔軟ではない。やむを得なくして初めて、腹を括るというものではないだろうか。


 俺は変わらなければならない。

 その真相もまた利己的だ。常識に乗り切れない、無理に合わせたくない、俺は俺で他人は他人。寛容といえば聞こえがいい。人のどんな側面も受け入れてきたのは、寛容だからではない。

 理解できないものとして割り切っているからだ。その反面、自分が決めた人には理解してほしい。自分と同じ土俵で考えてほしい。

 そんな矛盾が、俺に近ければ近いほど傷つく誰かを生んでいる。どこかで俺が人を理解することを放棄しているからだ。


 翔一に赦しを乞うには遅すぎる。それはこれからもきっと、心の中で蟠りとして残るのだろう。

 その分、忘れてしまわないようにしたいのだ。まだ、間に合う人はいる。過去を変えて、傷つかなかった現実を作ることはできないけれど。

 だから、せめて、謝るところから始めなければならないのだ。その為に俺は今、京都へと向かっている。



 これは、翔一と母親のお陰で踏み出した、清算の旅だ。



 古都の玄関口に着くと、高く覆う天井の下、未来的な空間を多くの人が雑多に行き交う。中央改札前まで出ると辺りを見回す。

 少し進みながら電話しようとしていると、四つのパネルが蛍光色に輝く『時の灯』が目に入る。時計になっている最上パネルは十八時を告げている。

 込み上げる懐かしさもそこそこに、時計塔の下に澄子の姿が見えた。


「澄子!」


 近付いて声を掛けると、彼女はスマホから顔を離した。

 小さな笑顔を向けて、アイボリーのボアコートがこちらに歩み寄る。髪型はシルバーのハイライトが目立つ、ショートヘアに変わっている。


「お疲れ、浩ちゃん! 元気してた?」

「ああ。澄子は、……元気そうだな」


 たった数か月会っていないだけなのに澄子の纏う空気が少し違う。妙に落ち着いて、迷いのない視線。一皮剥けた達成感のような、充実感のような、そんな雰囲気が感じ取れる。

 彼女が実直な笑顔を向ける。


「ご飯、まだでしょ? どこか行こうよ」

「いいのか? 忙しいんじゃ……」

「あはは、さすがに食事はとるよ。それに、せっかく来たんだし」


 澄子は「近くでいいとこ予約しといたから」と言って、先導する。

 駅前に出ると衣服を貫通して来る冷風に迎えられた。ありがたくない冬の京都名物、底冷え。体感温度が一気に下がって、無意味だと知っていても服の隙間を締め直す。

 バスロータリーを出入りするバスに、タクシー乗り場の寒そうな列、スーツケースを引いて足早に進む人。歴史的な都の門前に相応しい光景が、降りてくる夜を人工的な光源で明るく照らしている。

 何より懐かしいのは、空気に運ばれてくる辛みを帯びた匂いだ。街のそれに紛れて、断定し難い部分が幾年月の記憶を呼び起こす。



 連れて行かれたのは、近くの雑居ビル。予約したホテルからも近い。澄子お気に入りの個室付きの居酒屋があると説明しながら案内された。

 踏み入った話はここではしない。俺の訪問の目的を理解してのことか、或いはやはりぎこちなさが残っているのか。新しい店のオープン準備や年末年始の出前の話を交わした。



 落ち着いた照明の中、入り組んだ迷路のような店内は和風の雅なインテリアだ。個室と個室の間を忙しく店員が縫っていく。

 案内された場所に到着するなり、澄子はお勧めの品を紹介した。湯葉や賀茂なすの煮浸し、かぼちゃの炊いたんなど、地元らしい料理から、唐揚げや焼き鳥のような定番もある。

 昼食を適当に済ませてしまった分、空腹が煽られる。


 注文を任せ、日本酒を運んできた店員が襖を閉めるのを合図に澄子はひと仕事終えたように、顔を緩めた。

 乾杯をして一口酒を煽ると、


「あ〜、沁みるぅ」


 と腹の底からの声で唸った。相変わらず酒を呑むときだけ、妙に地元を感じられる。それに苦笑して俺もお猪口を煽った。



「澄子、今日は忙しいのに時間作ってくれてありがとう」


 俺は漸く口を切ることにした。彼女も同じ考えに至ったのか、柔らかい表情で答えた。


「ううん、私も話さなきゃって思っていたから。来てくれてよかった。それで、どうだったお母さんの……」


 俺と母親の関係を良く知る澄子は、通常の幼馴染のように『おばさん』とは呼ばない。そう呼ぶには、彼女も認識が曖昧過ぎるからだ。


「なんていうか。いい人そうだった」

「そっか。うん、良かったね!」

「そうだな。なんか、こんなにあの人と過ごしたのも初めてで、こう、変な感じだった」


 一瞬、驚いたような顔をした澄子の表情は更に温かく、心なしか目が潤んでいる。この話題が少々気まずいのもあり、俺は本題に入る。

 色々と考えてはいたが、実際の場面となるとどの言葉も薄っぺらく感じて、上手く繋がらなくなった。


「それでさ、あの人のこともあって、色々考えてたんだけど。やっぱり、俺、このままじゃ嫌だな、って……」


 言いかけてまた独り善がりな言い回しだと気付く。


「その、ちゃんと、聞きたいな、って。この間の澄子が感じたこと」


 まるで別のことを考えているような、不自然な間隔があった。

 しかし一度視線を落として、微かに頷くようにすると、澄子の眼差しが真っ直ぐに向けられる。


「私も、ずっと考えてた。どうしてあんな態度とっちゃったんだろう、って」


 ひと声かけると店員が幾つかの料理を運んで襖を開けた。食欲をそそる香りが立ち込める。かぼちゃをひとつ口に運んで、目を細めてから続ける。


「多分、最初はただ驚いて。嫌だった、っていうより理解が追い付かなかったの。今まで一度も浩ちゃんが男の人を好きになるなんて考えなかったから。ずっとゲイだったのかな、とか。なんでもっと早くに言ってくれなかったんだろう、って」

「…………」


 弁解したい。そういうことではない、と。

 しかし彼女の言葉をここで遮ることは、彼女の言いたいことの核心を聞きもしないで拒むということだ。

 彼女は静かに言葉を紡ぐ。届けるための声だ。


「だって私は、ずっと浩ちゃんの隣にいたのよ? 誰よりも、一番、理解してるって思ってた。でも、いつだって『そうじゃないんだ』って思い知らされちゃう」


 僅かに硬化した声に、核心はそこだと察した。乗り出しそうになる身体を座席に固定する。


「ちょっと考えれば分かったはずなの。浩ちゃんなんだから、不思議でもなんでもないのに、って。なにか隠してたわけじゃないのに、って。でも、なんだか抑えられなくて……。浩ちゃん、酷いこと言って、本当にごめんね」


 仰々しく頭を下げる澄子。

 同じようなことを、考えていたのだ。『理解しているはずなのに』と。その件で謝られるのは初めてではない、しかし初めて心の霧が晴れた感覚を覚える。

 しかし、それだけではないのだ。彼女がちゃんと言葉にしている。彼女の蟠りも晴らせるように努めなくては。


「澄子、顔上げて。俺の方こそごめん。澄子の気持ち考えてなかった。それすら気付かないで、自分で納得してて。一方的に分かれ、って……。初めてじゃないんだよな、俺はずっとそうしてきた。今更だけど、良ければ、聞かせてほしい」


 見開いて向けられた瞳から音もなく涙が流れた。何か、また無神経な失言をしてしまっただろうか、と胸がざわつく。

 慌ててティッシュをバッグから取り出した澄子が目元を拭っているときに、店員がまた入ってきた。

 優秀な店員は瞬時に何かしらを悟って、気配を殺して料理を卓に並べると、無音で去って行った。


「はぁ〜あ、あの時そう言ってくれてたらなぁ」


 何かを吹っ切ったような微笑みで澄子は言った。


「小さい頃、覚えてる? うちの店にさ。浩ちゃん、お爺ちゃんと来て。それから私、何となく付きまとうようになったのよね。浩ちゃんいつも一人ぼっちだったから。可哀そうだな、って。でも、結局私が勝手に付いてってる感じで。それが楽しくて。浩ちゃんは、友達がいないことをなんでもないことのように言うし。私達、多分、ずっとあの頃のままだったのかなぁ、って」


 新しく運ばれてきた料理に箸を進める。

 俺は、母親との会話を思い出して、果たしてその頃、自分は本当に平気だったのだろうかと思う。強がっていたわけではない。それでも、初めてできた同い年の友達は、とても嬉しい出会いだった。

 澄子がどれほど俺の支えになっていたのか、彼女は自覚がないのかもしれない。言ってきたつもりだが、あの頃のように、俺の行動は別の何かを物語っているのかもしれない。


「だからね。初めから分かっていたつもりだったの。浩ちゃんが突然、浜音を出るって言ったときも。『うきぐも』を継ぐって言ったときも。浩ちゃんが決めたことだから、尊重しなくちゃって。でも、やっぱり寂しく思った」

「それは……、俺もそう思いながら……」


 つい零れた言葉。

 どの決断にも、一番心を痛めたのは澄子のことだった。しかし、ここまでくれば彼女が言いたいことの輪郭くらいは見えてくる。

 彼女はゆっくりと首を横に振る。非難の色はない、片付いた気持ちを振り返るような、確認し合うような口調だ。


「うん。分かってるよ。でも、私が寂しく思ったのは、相談してくれなかったこと、かな。ううん、多分浩ちゃんにとっては相談してたのかもね。でもそれは、浩ちゃんの決定事項に対して、私がどうするか、っていう問い掛けで。そこに浩ちゃんを引き留めるという選択肢は私にはなかった。だから、選んだよ? 浩ちゃんを追って京都に来るって。でも、結局浜音に戻るってなったとき、初めて、私も自分の人生歩まなきゃって思ったの。それは、浩ちゃんのお陰かな。いつだって、一番に応援してくれたから」


 そう笑い掛けてくる。やっぱり俺は知らずに巻き込んで、傷付けていたのだ。表情が曇ってしまったのか、澄子は少し慌てたふうに付け足す。


「責めてるんじゃないよ? 浩ちゃんは、自分が責任取れる人生を歩むために、ちゃんと決断しながら生きてきた。それは知ってるし、きっと正しいと思うの。私は浩ちゃんほど自分を貫いて生きていけないから、ずっと尊敬してるよ? 浩ちゃんのお陰で私も少しだけ強くなれたし」

「……でも」


 俺はちゃんと向き合うために彼女に会いに来たのだ。だから濁さずに言ってほしいと思った。大切な人だからこそ、視線を逸らしたくない。

 澄子は小さく頷く。


「でも、それは友人として、かな。あのときの本音は、浩ちゃんが正しいかどうかなんて、考えたくもなかった。浩ちゃんの決断がどういうふうに私の人生に影響するのか。付いて行くか行かないかの二択しか残してくれてないこと、とか。気付いてほしかった。私の夢に、『今度は俺が付いていくよ』、って言ってほしかった」


 眉を下げて仕方なさそうな笑みを零す。


「勝手だけど、多分、私にとってカップルってそういうものだと思うの。いつかは、浩ちゃんとそういう関係を築けるって思ってた。でも、……。だから、別れよう、って切り出した。多分ね、浩ちゃんがあの人……、翔一さん? その話をしたとき、思い出しちゃったのかも。結局、私は何だったんだろう、って」



 『おまえはさ、人に背負わせ過ぎてんじゃねえの?』と言っていた春樹の言葉が蘇る。

 人生を一人で切り開いてきたつもりでいた。その実、数え切れないほど人に甘えて、俺が最も嫌っていることをしていた。

 俺の人生観を、なんの配慮もなく押し付けていた。


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