8-2
折角なので帰り道に京都に寄ろうと思い至ったのには二つの理由がある。
ひとつは澄子が正月に帰省しないと言っていたから。店長が近々、新しい店を始めるらしく、そこのスタッフに選抜されたそうだ。オープンに向けて準備することが多いのだと言っていた。
彼女にとっては大きなチャンスだ。それでも、直接話したいので時間を作ってもらった。
もうひとつは、桜喜亭。
京都に寄るからには訪問するしかなかった。後悔や未練などではない。親方への恩に報いる義務を感じているからだ。
本当は、しっかりとひとり立ちした形で会いたかった。しかし、それはいつになるやも計り知れない。少なくとも胸を張って選択した道を進んでいることを伝えたかったのだ。
当時の見習い仲間で最近煮方の補佐を任されるようになった友人に話を通してもらった。
俺は、知らぬ間に多くのものを置き去りにしてきた。俺の、最大の、過ちかもしれない。
浜音より遥かに白い風景が車窓を流れていく。京都に向かう新幹線の、行儀の良い静けさのなか、光を求めてか、暖かさを求めてか、仲秋の畔へと意識が逍遥する。
俺は確信していた。
自分の想いが返されていると、自惚れていた。
触れれば紅潮する頬や、抱きしめれば加速する心拍。自分だけに向けられる笑顔の明るさや、自分だけに何かを求めてくる眼差し。
胸を燻るそれと同様のものが、翔一のうちにも秘められている。そう、確信して疑わなかった。今でも完全には捨てきれない。
ただ、それが何であったとしても、それ以上に大きな感情が彼の心に沈殿していた。それを見逃したのだ。
しかし自分を責めるのも、もう、やめた。
あの日の焚火が映る翔一の瞳があまりにも綺麗で、柔らかな影を口元に作る笑顔が愛おしくて。それが俺の中に刻まれた大切な人の姿だ。
唇の先は、彼の頬の弾力を知っている。腕や胸の皮膚は、一度だけ許された身体の体温を覚えている。指の関節は、髪の毛の流れる感触をまだ握っている。鼓膜は、晴天のように澄んだ声の振動で震えている。
この恋は眩しい。遠くて、再び手を伸ばせないところにある。
声すら届かない海に隔てられている。それでも、翔一を好きになれて良かった。
そう思える日がくると、信じている。
それが堪らなく嬉しい。
あの湖畔で踏み出したたった二文字の歩幅で一線を越えてしまい、突然目の前から彼が消えたあの日の混乱。それから連絡もつかなくなってしまった苦痛。追いかけて辿り着いた恐怖の表情に対する激怒。
いつか全部、たったひとつの事実に収束するのだと思う。こんなに眩しくて、人情味のある恋を知ることができたのだ、と。
それは、俺を駆り立てて、俺を成長させた。
意識は更に流れていく。
景色を駆ける一陣の風に揺蕩う疎らな小雪のように、無防備で緩やかに。あらゆる憶測を抱えて名古屋に彼を探しにいった、あのときへ。
何が起こったのか全く整理できないでいた。今思えば、俺は不意打ちのように降り注いだ喪失感に焦っていたのだろう。
そこまで徹底して、翔一が俺との連絡を拒んでいることが信じられなかった。電話は繋がらない、メッセージは返ってこない。
次第に、彼の身に何かが起こったのではないかと案じた。
確認しようにも、俺は誰一人として翔一に関わる人間を知らなかった。実際、恋人がいるのかどうかも、SNSを利用しているかどうかも、訊いたことがなかった。
朧げに、仲の良い同僚の話をしていたこと、母に会いに実家に帰っていたこと、父が電話をしてきたこと、それくらいしか思い当たらない。
結論、俺と一緒ではないときの翔一を知らなかった。
濁った冷気に包まれた。俺は好きな人のことを何も知らなかった。
きっと彼は人には言わない様々なことを俺に話した。幼少期のことや、抱えている不安や喜びも。しかし、何一つ、具体的に翔一の現在の生活と結びつくものはなかった。
何を自信満々に振る舞っていたのだ、彼を誰よりも知っている風な顔をして、と自己嫌悪に陥った。
日がすぎるに連れて募る危惧と焦燥感に居ても立ってもいられず、定休日に翔一の自宅を訪問してみることにした。
心のどこかでは、非常識だろうことは理解していた。しかし、安否を確認する方法が他にはなかった。その悔しさもまた、俺を突き動かしていた。
もし何もなければそれで良い、翔一の身に何も起こっていないことを確認するだけだ。そう、自分に言い聞かせ、記憶を辿りながら翔一のアパートに着いた。
ノックをしても誰も出てこなかった。知らない誰かが出てきたらどうしよう、と過った疑念に嫌気が差した。郵便物が溜まっている様子もなく、ひとまず安心した。
念のためもう一度ノックしてみると、隣の部屋のドアが開いた。四十くらいの女性が怪訝そうに、明らかに宅配員でも集金でもない俺を見ていた。
弁明すると同時に何かしらの情報を得られないか尋ねた。
『あ、あの、すいません。こちらに住んでる須田さんの友人です。最近連絡がつかなくて、心配になって様子を見に来たんですが』
真実を推し量り、不信を拭い切れない表情で女性が言った。
『今朝も出勤していきましたし、心配ないと思いますけど』
その言葉に安堵感が身体中を脱力させた。外廊下の腰壁に手をついて息を漏らす様子を見て、初めて女性の表情が緩んだ。
『メッセージでも預かりましょうか?』
『あ、いえ。あ、あの、翔一の帰宅時間とかって——』
友好的な交流がある隣人だと思い訪ねてみたが、それはこの人にも迷惑が掛かりかねないと、言葉を宙に浮かせたまま引き下がった。
『いえ、すいません、何でもないです。とにかく、無事なら良かった』
そう言ってその場を立ち去った。
安否が確認できたのだ、このまま帰ればよかった。しかし俺は最寄り駅の近くの喫茶店で日が暮れるのを待った。せめて顔だけでも見られたなら。何を言えば話を聞いてくれるのだろう。
俺はまだ歩み寄れると思っていた。彼が衝動的に反応して、以降引き返せないでいる、という幻想を見ていた。
心から望んで、俺との縁を切ったなどという考えには至らなかった。しかし、それ自体に本質があったのではなかろうか。
そうなっても、俺は彼の気持ちを理解しようとはしていなかった。自分が頑張れば何とかなると、思っていた。
陽の最後の呼吸も沈んで、街灯が白い灯りを散りばめた頃。俺は駅前広場の植え込みに設けられたベンチに座って、流れていく人混みを眺めていた。
一斉に帰宅するサラリーマンや塾帰りの学生が、疲れた顔で早足で帰路につく姿に『正しい社会』の姿が見えた。
本当の翔一はそちら側の人間で、俺は全く別の世界にいるような疎外感を覚えた。
黒い人の波の中、自然と目に付いた髪のグラデーションと歩き方。顔が見えないが間違いなかった、頭より先に身体が、焦れた人だと確信して沸き立った。
俺は慌てて翔一の方へと向かった、しかし人の流れで上手く距離を縮められなく。その間ずっと、何と声をかけようか決心できずにいた。
視界から消えてしまった彼の行く先は当然、一択。俺は数時間前に辿った同じ道を足早に歩いた。
そしてアパートの門前に彼の姿を捉えた。
『——翔一っ!』
反射的に振り返ると、現状を把握するのに暫くかかった。
俺は固まったままの翔一に追いついた。久々に見る姿に抱きしめたくなる衝動を必死で抑えた。
『翔一……、ごめん、俺——』
『は? なんで、……なんでいんだよ』
驚いたまま微動だにしなくなった表情で、吐き出すように言った。数歩後退って今にも立ち去ってしまいそうな気配に焦った。
『頼むから聞いてくれ! 分かんねんだよ、何に怒ってんだ? メッセージの返信もねぇし、電話かけても出ねぇし。俺ずっと分かんなくて』
『……、』
この上なく居心地悪そうに彼は視線を逸らした。
『せめて話くらいさせてくれ。好きじゃなくても——』
『好きとか、おまえ頭おかしいだろっ⁈』
翔一は突然、凍て付くほどの視線で睨んで、声を荒げた。俺自身が冷静さを欠いていなければ、狼狽する目の奥の光を掬いとれたかもしれない。
『俺はただ——』
『うるせぇっ! 黙れよ、話す気がないことくらい分かれよっ‼』
言葉が全く噛み合わないどころか、話させてもくれない。徐々にもどかしさが苛立ちに変容していくことに気付かなかった。
夜の住宅前で声を上げていることすら自覚できないほど必死だった。
『だから、何に怒ってんだよ⁈』
『当たり前だろ! ずっと騙してたんだろ⁈ 俺のこと気持ち悪い目で見て、タイミング見計らって!』
愕然とした。
翔一が何を指してそんなことを言っているのか理解が追い付かなかった。騙してなんかいない。俺がそんなことするわけがないことくらい、知っているはずなのに。
タイミングって、何のタイミング? 俺はただ、好きになったから、そう言っただけなのに。
『騙してなんか……、お、俺はずっと。ずっと——』
『巻き込むなよ、一緒にするんじゃねぇよ! ありえねぇ』
濁流のように彼の言葉に溺れていく感覚があった。息苦しくなり、返す言葉もなくて。翔一は刃のような声で罵倒するたびに後退っていった。
このままでは、また目の前からいなくなってしまう。目頭が熱くなるのを堪えて手を伸ばし、逃走しそうな腕を掴んだ。
『待っ——』
『っ! 離せっ‼』
それは力強く払われて、俺の手は虚しく空中を彷徨った。
翔一は自分の動作に自ら動転しているかのように視線を泳がせていた。今にも零れそうなほどに瞳が潤んで。俺は頭の中が真っ白になっていた。
『なんで俺なんだよ? おまえら異常者同士でやれよ、そういうの……』
『翔一、違う! 俺はおまえが男だからとか、そうじゃなくて。ただ翔一が好——』
両手で強く押し退けられた。
初めて、翔一が拒んでいるのはその言葉なんだと明確に意識した。
『やめろって言ってんだろっ‼』
これほどの敵意を信頼していた相手に向けられたからだろう、俺は押された体勢のまま彼の苦しそうな顔を見ることしかできなかった。
心の中で怒りが湧いた。翔一の気持ちがどうであれ、翔一に俺を否定する権利などないはずだ。俺の気持ちを受け入れないのは仕方ないが、その気持ち自体を穢す理由にはならないはずだ。
本当に俺が好きになった人なのか。
『翔一、おまえ……。何に怯えてるんだよ』
『はぁ?』
『俺の気持ち返せないんなら、そう言えばいいだろ。音信不通って、ガキかよ。こっちは心配してたんだぞ。何でおまえにそこまで言われなきゃいけねぇんだよ。おまえが、俺の何を知ってんだよ? そんな奴だったなんて。なあ、何取り乱してんの? くだらねぇ』
淡々と放たれた言葉はまるで自分のものではなかった。
多分、自分が傷ついたことへの反射的な衝動、相手も傷付けたいと。案の定、翔一は憤怒と混乱と、思惑通りの悲痛な表情をした。
そのまま何も言わずに踵を返したが、慌てて引き留めた。
『翔一、悪い、違うんだ』
『マジで、触んじゃねぇよ。怖ぇよ。普通じゃねぇよ。家まで押しかけてきて。なんなんだよ……』
今度は低く硬い声だった。罵詈雑言を浴びせられるよりも更に深い、覆しようのない拒絶がそこにあった。
『あなた、何やってるんですか⁈』
突然、背後から声がした。
その姿は翔一が先に捉えて、掴んでいた腕が振り解かれた。
『すいません……うるさくしてしまって』
『須田さん、大丈夫ですか。この人は……』
アパートの住人だろうと理解した。眼鏡をかけた男は俺と翔一の間に入るべきかどうか判断しかねているようだった。
翔一は平静を装った表情を作り、
『いえ、あの。大丈夫ですから』
この男が誰なのか、と問い掛けたかった。なぜ無関係な話に割り込んでくるのだと押し退けたかった。しかし先に翔一が、
『浩太、頼むから、もう帰ってくれ……』
そう力無く言って、俺に懇願するような眼差しを向けた。何一つ腑に落ちないまま、俺は頷いた。
アパートが見えなくなるまで何度も翔一に視線を投げかけた。それが返ってくるという淡い期待に縋りついて。
しかし、こちらへ一度も振り向かずに彼は自室に消えていった。




