8-1
掛け時計の秒針で沈黙が際立つ、やけに黄色みがかった質素な部屋。
母親はお茶を用意する、と言い残して五十代前半の、白髪交じりで紳士的に見える男と俺は取り残された。
まるで異質な空気が存在しないかのように穏やかな笑みを浮かべる男は、躊躇いもなく俺を見つめている。
ちょっとやそっとじゃ動じないと自負している。歳の差など関係なく、面識のない人とも会話に困ることはそうそうない。
しかし、今は何を言っていいのか分からない。気まずさが勝って室内を見回すふうを装う。
年末が過ぎ、正月も明け、かつてないほどに忙しい三が日を乗り切った。
雪が吹き荒ぶ中、人手も足りない中、僅か三日の出前は想像した以上に過酷で、そして好評だった。
そのお陰で久しぶりに財布に余裕が少しできた。母親はその間も家に居座って、配達を手伝うとまで言い出した。正直、ありがたかった。
新年も幸先よく始まって、店を再開する前に一週間の休みを取ることにした。母親の、婚約相手に会いに行くためだ。
現在、その男と同棲に近い状態で大阪に住んでいると聞いた。知らなかった、というよりそれまで興味がなかったのだ。
放浪の中、二か月ほど滞在したのだが、大阪には楽しい記憶がたくさんある。俺にとっては心地の良い人間が多い印象。
考えは別として、距離感が合うのだろうか。当時、修行先をここに決めようと思ったが、甘えにも思えて踏みとどまった。
男は渡部敏文という。
母親から聞いた話では弁護士をしているそうだ。そんな人をどうやって捕まえたのか不思議だった。
空港に迎えに来てもらい、連れて行かれたのは大阪市から北方に位置する豊中市の一軒家。馴染みはないが、治安も良好な住宅街だと友人が言っていた記憶がある。
確かに落ち着いた街並みに思えた。家はそれほど広くはないが、真新しく清潔な印象だった。
いくつか飾られた写真が目に入る。
渡部と母親のツーショットもあれば、胡桃くらいの歳頃の子どもの写真や、渡部に並んで微笑を向ける俺より少し年上に思える女性の写真。
居心地の悪さを紛らわすためか、何かしらの話題を掴むためか、俺はそんな取り留めのないことへと気を向けている。
言葉を測る自分に驚いている。何だかんだで母の不利益になるような発言を避けようとしているのかもしれない。或いは、息子として紹介されて素直に従うのが嫌で反感を抱いているのかもしれない。
いずれにせよ、話す話さないと交互する思考は閉ざした唇の裏に封じておく。
母親が台所から盆を持って現れると、耳にこびりつく時計のコチコチが漸く薄れた。
この人を見てそう感じたのは初めてではなかろうか。いや、婆ちゃんの葬式のときには流石に安心したのかもしれない。
「はーい、お待たせしました」
盆をテーブルに置き、湯呑を差し出すこの人の声を俺は知らない。
猫を被っているのとは違う。寧ろ、素はそういう声なんだろう。さっきから妙に癪に障るが、今更理由は明白だ。
この人にとって本当の家族はいつだって気を遣う存在なのだ。本来の自分であってはならないと思っているのだ。
そこで癇癪を起こすほど俺も幼くはない。
渡部は湯呑が目の前に置かれ、母親が隣の椅子に腰を下ろすのを合図に、畏まって頭を下げる。
「浩太君、今日はわざわざ来てもろてありがとう。ほんまやったら、僕の方からそちらへご挨拶に伺わなあかんのに」
先程、空港でも言われた。
「いえ、仕事の休暇があったんで。それに京都にも用事が丁度あって。なんで、全然……」
その言葉を聞き入れ彼は頭を上げて、目を細める。
「改めて、真由さんと結婚を前提に交際させて頂いとります、渡部言います」
それほど強くもない関西弁が耳に懐かしいのと同時に母親の下の名前が響いたのが、不思議だった。
爺ちゃんはいつだって『バカ娘』だったし、無論俺は呼ばない。この人の名前を呼ぶのは婆ちゃんくらいだったから。
「息子の、浩太です……」
口触りに違和感が残る言葉。それでも首を垂れる。
この男がなぜ俺に会いたかったのか、いまだに腑に落ちていない。母親は何も演じる必要はない、そのままでいい、と言っていた。
まどろっこしいのも嫌で、思い切って核心と予想している部分に踏み込んでみる。
「あの。こういう言い方は語弊があるかもしれないんですが。俺は別にこの人が渡部さんと付き合ってるのも、結婚するのも反対はしませんから」
面食らったような顔で固まった男の横で、母親は仕方がなさそうな笑みで眉尻を下げている。
そこに焦りや文句の色はなかった。そんな観察をしていると、豪快な笑いが鳴り響いた。
「はーはっはっ、真由さんが言ってた通り、率直な息子さんやな! ははは」
何がそんなにおかしいのか疑問に思ったが、気を悪くしていないことに、安堵する。それまでに纏っていた丁寧な立ち居振る舞いは気配だけを残してどこかへ吹っ飛んでいる。
温かい類の笑い声で、今にも手を叩き出しそうな陽気さが垣間見える。
「君はきっとそう言うだろうって、真由さん言うてたけど。会いたいってわがまま言うたんは、僕の方やねん。もし不快な思いさせたんやったら申し訳ない」
笑いながらも誠実さが伝わる。
俺はこの人のことを何も知らない、だからそれは表面でしかないのかもしれない。実際のところは知らなくていいし、この人が誰とどうなろうと俺が言及するのは違うと思う。
それでも、渡部の人柄が少しだけ覗いて、なぜかそれにほっとしている自分がいる。「いえ、それは」と短く答えると男は続けた。
「実を言うと、僕と真由さんはね。二人とも『出来の悪い親』っちゅう共通点があって、気が合うたんよ」
一見、交際相手をいきなりに貶したようにも聞こえたが、違うのだろう。
「僕は、十年前に離婚しててな。君より少し年上の娘がおるんやけど。まあ、家のことは前の嫁さんに任せっきりでな。ろくに構ってやれへんかった娘にも当然、心底嫌われて。離婚してから余計に溝が深うなってな。気ぃついたらひとりになってもうてたんよ。ははは。けど、孫が生まれたのをきっかけに、娘から連絡があってな。一番大事なことに、今更気ぃつかされた。出来の悪い父親でも、娘には他におらんのやって。僕が諦めててどないすんねん、って」
唐突に語り始めた渡部。しかし、その行き先はなんとなく見えた。
「もしかしたら、僕が作った溝は一生埋まらへんかもしれん。今でも煙たがられてるしな。でも、その一生の何分の一かくらいは、マシな父親でおりたいな思ってるんや。もちろん、立派でも何でもない。本来は、普通にできなあかんことなんやけどな」
部屋に飾られた数々の額縁の中にある笑顔を見渡した。
溝は埋めることができるのだろうか。その必要はあるのか。俺は知らずにそんなことを望んでいたりするのだろうか。
「とまあ、真由さんとは、そういう悩みを話し合うてるうちに仲良うなってな。別に、彼女を弁解するためでも、君との和解を取り持つためでもないんよ。それでも、真由さんのたった一人の息子さんや。他人にしたくないから、一度だけでも会いたい思ったんや。せやから来てくれてほんま嬉しいんよ」
そう言い終えると渡部はやっと湯呑を口に運ぶ。
母親に視線を送ると、何やら言いたげにしていたが、口にしていいのか迷っている様子だ。きっと、その迷いが薄れることが今後あったとしても、お互い長い時間がかかるのだろうと思う。
渡部は俺と母親の関係を取り持つために会いたかったのではない、と言うが。構造的にそうなることは明らかだ。
きっとこの男のように、彼女も距離を縮めようとしているのだろう。
「俺は……、俺にはよく分かりません」
嫌っているわけではないと伝えたい。それなりに幸せになってほしい、とも。しかし身体のどこかでそれらは挟まっていて、喉まで昇ってはこない。
どうすれば、伝えられるのか考えた挙句、
「あの。この人を……、母を、よろしくお願いします」
頭を上ると目が捉えた渡部は瞳を滲ませているのだ、想像はつく。だから母親の方に向くことはできない。
初めから反対しないと言っていたはずだ、そんな大仰な反応をしなくても。
数時間、様々な話をした。
母親の現在の職業を聞いて驚いた。教習所で指導員をしているそうだ。どおりで風雪にも臆せず出前の配達を請け負ってくれたわけだ。
その他にも前に働いていたバーでトラブルがあり、そのときに渡部と出会ったこと。渡部の娘とは何回か会っているが、俺に対して後ろめたさがあり仲良くするのに委縮していること。
今まで概念のような存在だった母親が、生活や人生を持つ人として像を結ぶ。
雪崩のように押し寄せてくる情報に、圧倒されそうになる。急すぎる。そんなに簡単に心に納まりきらない。
だから、切りのいいところで暇を告げる。その足で京都に寄ってから帰るつもりだが、折角なので大阪にいる友人に会って行こうと思う。
来たことに後悔はない。時間をかければ、新しい何かが見えてくるのかもしれない。渡部はいい人だと思う。母親のいい部分を引き出しているのだとも。
気を遣ってか、渡部は玄関までは見送らず、母親と俺を二人きりにした。
「浩太、一緒に来てくれて本当にありがとう」
「いいよ。ついでだし」
敢えて不愛想な返事はある種の甘えではないかと思って、恥ずかしさが込み上げた。
「敏文さんを、あんたに紹介できて嬉しい」
引き下がらない母親に、小さく首を縦に振る。
お互いに次の約束はしない。まだその壁を越えるには早すぎるからだ。そして、同時に、まだ越えていないからこそ、思い当たることがある。
「あのさ。もしいつか、俺にも心から大事な人ができたらさ。あんたも会ってくれるか?」
とても驚いた表情をしてすぐに頷こうとしたが、遮る。その次が大事だからだ。
「もしかしたら——。もしかしたら、それは男かもしれないけど……」
その返事が否定であっても今ならさほど傷つかない。
それでも視線を合わせないのは、すでに望んでいる以上に構えているからだ。血の繋がりを感じてしまうからだ。
この人はきっと厭わない。そう思いながらも、澄子のように拒絶される可能性もちゃんとあるのだ。だから、今聞いておかなくてはならないと思った。
もしまた好きになった人が男だった場合、俺はこの人に頼っていいのか否か。
「当たり前よ。あんたが大事に思っている人なら、私も会わせてほしい」
ほとんどの躊躇いはなかった。
そして左頬に少しひんやりとした、柔らかい感触がする。その動作に一番驚いたのは母親自身のようだ。
目を見開きながら頬に当てた手の平を、戸惑いながら引っ込める。
俺もどう反応して良いのか見当もつかず、「じゃ、また」と言い捨てるように門を速足で潜った。




