7-7
悲劇に気付いたのは焚き火の鎮火も見届けて、そろそろ寝ようかと言い出した午前一時頃だった。
「う、マジか……」
「どうした?」
ため息交じりに零した言葉に浩太が寄ってきた。
月明かりの下に揺れる服はおおかた乾いていた。しかし、寝袋はそれでも確かな湿気を含んでいた。
「まぁ、服とか敷いて寝ればいいか」
「風邪ひくだろう」
温かい日中の気温も夜には冷える時期だった。しかし、一晩くらい問題ないだろうと思ったし、他に妙案があるわけでもなかった。
浩太は、「よし」と短く言ってテントに潜っていった。乾いた分の衣類だけ抱えて、その足に続いた。
小さなランタンが黄色い灯りを注いで天幕に揺れる狭い空間で、浩太は屈んで何やら整えていた。
「あとはジャケットを毛布代わりにすれば大丈夫だろう」
言いながら見せたのは開いた状態に敷かれた浩太の寝袋だった。その光景と言葉の内容を飲み込むまで暫くかかったが、要するにそこで二人並んで寝ようということだった。
「いやいやいや、そういう訳にはいかないって」
「なんで、いいだろ別に? 服を布団代わりにするよりは楽だぞ、多分」
「そういう問題じゃなくて。ていうか申し訳ないから」
「いいよそんなの、お前が寝心地悪いの知ってて寝る方が嫌だよ、俺は」
反論を少し続けてみたが効果はなかった。
きっと、端的に『嫌だ』と言えば、それ以上は強要しなくなっただろう。しかし俺は彼の好意に強く反対するのに気が引けた。
自分の中でも明確な意見があったわけではない。ただ漠然と気まずい、としか言い表せなかった。
友人同士、そういうこともあるだろう。気にし過ぎだ。そう言い聞かせることにして、渋々承諾した。
消灯したあと、夜の奥から虫の音が耳にしつこく纏わり付いてくる。湖畔に波が一つぶつかって、頭上の枝が少し軋んで、風に葉が撫でられる。そんな音のひとつひとつが必死に寝ようとする意識に突き刺さった。
香りだけではなく、体温まで感じ取れそうな距離が居心地悪い。そして、ジャケット一枚では夜の寒さを防ぎきれていなかった。
浩太は自分の寝袋を分けただけでなく、底の厚い方を俺に譲った。「野宿したこともあるし、俺は硬いの平気だから」などと説得をつけて。やはり断りきれなかった。
爪先が冷たくて身震いした。俺は腕を伸ばし、服を手繰り寄せて追加の毛布にしようとした。
「寒いのか?」
小声で問いかけてきた浩太に驚き身体が跳ねた。
「わるい、起こした?」
「大丈夫」
寝ぼけているのが分かる、微睡んだ声で言ったかと思うと、掴みかけていた服を取られて足元に被せられる。そして、突然背中を抱え込まれた。
「え? おい、浩太、何?」
「だから、寒いんだろ?」
「いや、だからって。服あるから、大丈夫だって」
身体中の筋肉が強張った。脳に焦燥感が走る。
なのに、突き放すようなことはしなかった。
「あ、ごめん、嫌だった?」
緊張を感じ取ったのか、体は離さず腕を宙に浮かばせて浩太は尋ねた。そこでちゃんと言えばよかった。
客観的に見れていたら、光景の異常さに慄いただろう。『さすがに変だろ』と言えばよかった。
しかし背中に伝わる体温が思考を鈍らせていた。
「そういう、わけじゃ——」
「じゃあ」
と望んだ以上に耳元近くで声がすると、逞しい腕に再び閉じ込められた。
浩太に抵抗はないのか。俺は三十過ぎたおっさんだぞ。普通、気持ち悪くないか。いや、浩太に『普通』を当てはめても無駄だ。そういう視点で物事を見ていない。
脳裏に高速で思考が渦巻く。
茂みに身を隠す小動物のように気配を消した。けれど、浅く息をしようと、筋肉の運動を制御しようと、鼓動の速さだけはどうにもならなかった。
一日中纏わり付いていた匂いが一層濃く包み込んでくるのだ。俺より高い体温も。自分のと混ざり合う鼓動も。
俺には認めることなんてできなかった。自分を満たしていく安心感も、心地良さも。拒むこともできなかった。
浩太との間でしか成立しない、二人の空間。そこならこの罪悪感を退けてもいい気がした。そこなら、それ以上の意味を見出す必要がなく、ただとめどなく溢れる幸福感を受け入れてしまっても許される気がした。
泡の中。
俺の現実とは隔絶された、僅かな隙間。少しだけ、纏っている自分の皮を脱ぎ捨てても咎められない。
波紋を、影響を、生まない。
そんなわけなかった。
あの夢を見た気がした。
きっと前日、その話をしたからだ。良く覚えてはいなかった。しかし、今回は鳥達は来なかった。
途方に暮れた空飛ぶ魚。絶望に満ちた目で戻ることの叶わない海の水面を覗いていた。その下を、とても素早く何かの影が過った。
知っている生き物の影とは違っていた。
そんなことよりも大きな問題があった。
睡眠中に寝返りを打ったのだろう。俺は額を浩太の胸に預けた状態で目が覚めた。知っている胸元の柔らかさはない、俺を抱擁する腕も頑健だ。
なのに、酷く優しい気持ちになった。頭はその状況の分析を放棄した。考えたくなかったし、その必要もないと思った。
彼を起こさないように慎重な動作で温かい拘束から抜け出した。視界になかった寝顔を覗いた。
整った顔が穏やかな表情で、規則正しい寝息を立てていた。
物音ひとつ聞こえない、日が昇っている気配もなかった。そんな沈黙の中、俺は初めて気が付いた。
ごく自然に、衝動的に、浩太の頬に近付いたからだ。
困惑した。
今、自分はいったい何をしようとしていたのか、と。
意識してしまったのだ。心の中に、異物のようにあってはならないものが鎮座している。そう思った瞬間、激しい吐き気に襲われた。
狼狽えながらも物音を立てないようにテントの外へと出た。
湖面に雲が降りてきたように霧が群がっている。地平線を微かに染め始める朝のからい空気を肺に送り込んだ。何度も、何度も。
寝ぼけていただけだ。覚醒していない意識が香衣良だと思い込んだだけだ。でなければ、浩太にあんなことをしようとしない。
いや、何もしようとなんかしていない。
そうだ、何もなかったのだ。
浩太が朝焼けとともに起きてくると動揺は更に悪化した。
午前中、何をしたのかも思い出せない。ただ平常心を装うだけで精一杯だった。
「やっぱりあまり寝れなかったのか?」
朝食を無言で食べていた俺に彼は問いかけた。演じ切れていないのは明白だった、しかし同時に言い訳も提示されていた。
「ま、まあ……そう、だな」
「今晩、名古屋まで運転するんだし、あとで昼寝でもしたらどうだ?」
「うん。そうするわ」
仮眠という名の避難のおかげで少しは平静を取り戻せた。
何もなかった、浩太も何も気付いていない。ならばそれは浩太と俺の間に存在する限定的な空間に留まるものだ。
問題ない。
少し楽になって、拠点の片付けを始めていた浩太の下へと戻った。
荷物を纏め、テントを解体すると、あの温もりに満ちた場所が夢だったかのように跡形もなく更地へと戻った。
昼食を終えて、午後はまた畔へ釣りに移動した。
「仕事で疲れてるのに無理させてごめんな」
釣り竿を鮮やかに振ると、浩太は少し心配そうに言った。俺の様子がおかしいのを疲れているせいだと考えていたのだ。
後ろめたさが胸を突いた。
「全然そんなことねえよ。マジで楽しかったし。俺、昨日思ったんだけど。こういうの一度はやってみたかったんだな、って。だから誘ってくれてありがとう」
本心だった。
俺が勝手に暴走しそうになっただけで、浩太に非はひとつもなかった。自分の困惑を含んでも、来なければよかったとは思わなかった。
この時間が温かくて大切な記憶になり、日常に戻っても色々な場面で支えてくれるのだろう、という実感があった。
浩太は少し照れたように微笑んだ。珍しい表情だった。
「そっか。なら良かった。俺も、翔一と来れて嬉しいから」
心臓が強く鳴った。無視するには朝の記憶が鮮烈すぎた。
取り繕っても、すでに崩れかけていたのだ。両手で抑えても保てるわけがなかった。それを理解して無意識に逃げ道を探していた。
ロッドを握る指に力が入り、仕掛けの感触が上手く伝わらなくなった。
「な、なんだよ改まって」
「ふは。確かに」
そう笑いかけてきた浩太は突然の引きでバランスを崩した。竿を手放しそうになったところを踏ん張り、片脚が水に突っ込んだ。
体勢を整えようとしたが、獲物の抵抗が強くなかなか叶わない。それを見て加勢したが、同時に釣り糸が勢いよく跳ね上がった。
仕掛けを持ってかれてしまったのだ。
反動で二人して芝生に転がり込んだ。一瞬の出来事に顔を見合わせた。呆気に取られたような浩太の表情がおかしくて、全てを忘れて笑いが漏れた。
つられて浩太も笑った。
芝生に寝ころんだまま、見上げてくる浩太は腕を伸ばし、乱れた俺の前髪を掬った。
「……、なあ、俺、翔一が好きだわ。これからもずっと、一緒に笑ってたい」
世界の全てが凍り付いた瞬間。
動揺したのは自分の後ろめたさ故だと思いたかった。その言葉に他意はないと。自分の感情もまだ、引き戻せると。
「お、俺も、浩太は、大事な、友達だよ」
友達でなくてはならないのだ。そうでないと、この関係は成り立たない。
嫌な汗が滲んだ。
「あ、いや、そういうことじゃなくて。恋愛、的な意味で……」
切実な祈りは届かなかった。
最も恐れていた言葉が実態を持ってしまったのだ。雑多な感情が定かではない色を帯びて大波のように押し寄せてきた。
俺は逃げ場を探した。浩太の言葉以外に見当たらなかった。固まったままの俺を覗き込んで浩太が不安そうに呼びかけた。
「翔一?」
「冗談……?」
彼の表情が一変した。
「……かなり、本気だけど」
「なんで……」
なんで言った。
自分の言葉の帰結を、なんで予想できないかのように。浩太の好意が友情だけではないこと。気付いていたのか、今でも分からない。
ただ、心の内に強く反響を生んで、一面を揺るがす『好き』の二文字。この気持ちに名前を付けることなんて、赦されることではなかった。
自分が崩れていく。
途方もない憤怒を覚えた。
なぜ言葉にした、と。後戻りはもう、不可能だ。なぜ言う必要があった。この関係は、この空間は、いつのまにか俺にとって不可欠で。それはもう、形状を保つことができない、瞬時に理解した。
だから俺は一番明白な逃げ道に駆け込んだ。
「……なんで、って……」
「……キモ」
彼の破壊的な二文字に対抗して、相応な二文字を発していた。
困惑と痛みが入り混じった表情。今でも目蓋に焼き付いている。
「し、翔一?」
何に対してなのかも分からない涙が喉の奥から込み上げてきた。
名前がついたら、もう終わり以外の選択肢はなかった。
そのときの俺は自分の中に何が起こっているのかも分からないまま、狼狽えて、逃避した。何度も引き留めようとし、話し合おうとする浩太を置いて。
荷物を纏めて、その場から逃げた。
新幹線の車窓の中で印象派の絵画のような灰色の風景が流れていく。
脳内を同じように流れていった浩太との記憶。
俺の行動、俺の言葉。気付かなかった——いや、気付くことを許さなかった、俺の気持ち。
浩太はきっと、騙してなんかいなかった。そこには純粋に友情があり、それがいつしか形を変えたのだ。自分がそうだったように。
それでも、全てを彼に擦り付ける以外に、この嫌悪感から逃げられる方法なんてなかった。今でも、ない。
だから、あのとき自分の感情を理解していたとして、何一つ変わらなかったのだろう。今と同じように、不穏な情念も抗えきれない絶望も名古屋に残して、どうせ俺は東京の母の下へと向かっていただろう。
向き合いたくなどない。今まで平穏に暮らしてきた。その先にはちゃんと幸せな構造があった。浩太に出会わなければ、それが崩壊することにはならなかった。
未来など始めからないのに、どうして彼はあんなに悠然と想いを告げたのだろう。
受け入れられたとしても、何も変わらない。自分を顧みるにはあまりにも築いたものが多すぎて、俺という人間を根底から覆す力なんてない。
その先に何もないと分かっているなら尚更。
出会わなければ良かった、そう思うほかない。
しかしずっと繰り返している。記憶が潮の満ち引きの如く、痛み、哀しみ、温かさ、懐かしさ、全てが溶け合った名状しがたい物体として、ずっと流れている。
母に会って収まるわけもない。何も解決するわけないのだ。
それでも俺は、できるだけ遠くに行きたかった。多分、本当は、自分自身からできるだけ遠く。
無機質な光を反射するガラスにほとんど水平な線を刻んで降り始めた雨は、まるで獣の爪痕に思えた。
きっと、あの化け物ではないだろうか。




