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枝の間に引いた物干しロープにずしりと重量を預けて、水滴を垂らす衣類は全部俺のもの。まだ温かい陽が照り、心地よい風も吹いていた。夜までには乾くかもしれないが、匂いは気になるところだった。
何より、寝袋が、荷物に紛れ込んでいたのが最大の落ち度だった。
替えの服とタオルを浩太に借りた。
明らかにサイズが大きすぎる衣類に埋もれたように座り込んでいた俺の髪を、薄笑いを浮かべた浩太が乾かしていた。しかし単純に馬鹿にしているというよりは、心なしか満足げな、楽しそうな様子だった。
見事なまでにみっともない姿を晒した羞恥心に紛れて、もう一つ居た堪れない理由があった。
浩太に借りた服からは洗剤の爽やかな香りの裏に、彼の匂いが有無を言わせず鼻腔に忍び込んできたからだ。
朝露に覆われた山奥の森林のような、清涼感のある深い緑と、華やかというより澄みきった、温かい青さを纏う草花の匂い。
浩太が近付く度に感じるそれは、いつも胸にざわつきと同時に安堵感を運んできた。それが、今までになく近く感じられて落ち着かなかった。
良くないと本能的に感じたそこから意識を逸らすのに必死だった。
「派手に落ちたなぁ、ははは。おむすびころりんかと思った」
「め、面目ない……」
一層大きく笑った。
あの連鎖反応は全て自分に要因があると自覚して、本気で浩太の服の中に埋もれてしまいたかった。
いつまでもいじけている俺の頭にタオルを当てたまま、浩太は突然、顔を覗き込んできた。
「ワイルドでいいじゃん」
「ワイルド、て……」
ただのドジをそう形容してしまうと、更に滑稽に思えてきた。
数拍の間、見つめ合った形になったが、二人同時に笑いが込み上げてきた。
身体が一応乾いたところで、取り敢えずキャンプ地の仕上げに取り掛かった。インナーテントを吊るすと、思ったよりも中は狭く感じた。
浩太は近くに焚火兼調理スペースを設け、俺はテントの庇を広げてキャンプチェアと折り畳みテーブルを設置した。
完成した拠点は、後ろではためく衣類の効果もあり、生活感が滲んでいた。存外、浮き足立つ感覚に満たされた。
大学の頃にサークルの先輩に誘われて行ったキャンプとは違った。
複数サークル間の親睦会という名目で開催されたバーベキュー大会。真の目的は結局、男女の出会いと飲みの会。
楽しくなかったわけではないが、動機の不純に少しの違和感を覚えたし、そういう場で誰かと距離を縮める気にはなれなかったのを覚えている。
見知らぬテントで夜を共にした女性の顔も名前も思い出せないほどの、疚しく希薄な記憶だ。そういうのは多い。世間的に一番正解とされる流れに乗って、それを最大限利用するような姿勢で生きてきた。
自分から何かを引き起こすことは少なく、他者が作った価値ある流れに対して、求められる自分をただ演じてきた。そんな生き方が濃厚で深い時間を残すはずもない。それを良しとしてきたのだ。
浩太とのキャンプも、自分が発案していないことに於いては同じなのに、心の傾きが違った。一般的な流れなど関係ないからだ。
これは、浩太の流れで、俺はそこに望んで乗っかっていた。初めて、生産性や世間体をそこに求めていなかった。
そうすると、当時には気付かなかったことにはっとした。あのとき俺は多分、こういうキャンプに憧れていたのだろうと。
昼までの時間、ゲームをしたり、本を読んだりして過ごした。
浩太と無言で過ごす時間も好きだった。父の影響かもしれないし、もっと別の意味があるのかもしれない。ただその存在を隣に感じて、無理に話題を持ち出す必要もなければ、気を遣う必要もない。
些細なことなのかもしれない。しかし、俺にとっては新鮮だった。浩太に求められていることは、ただ俺が俺らしくあることだと何となく理解して。
そして俺が求めている利益は、ただ二人の時間が楽しくあることだった。
準備の大半を引き受けた浩太にせめてもの労いをしようと思い、昼飯は俺が作ると言ってあった。
プロの料理人相手にとんだ宣言をしてしまったと後悔したが、それでも自分なりに頑張ってみた。
クーラーボックスからタッパーを幾つか取り出した。弁当箱というものが自宅にない上に、どう盛り付ければいいのかも分からないので適当に詰めてあった。
独り暮らしが長い分、多少の料理はできると自負しているが、レパートリーはいわゆる飾り気のない男飯だ。
せっかくなので地元の料理を振る舞いたいと思い、挑戦してみた。味はそれなりに整ったが、気付いたら目の前に並ぶ皿は一面茶色だった。
味噌カツ、手羽先、天むす、どて煮、申し訳程度のサラダ。それでも蓋を外していく度に浩太は目を輝かせた。
「やば、めちゃ美味いよ翔一! 俺が名古屋にいたときに食べてたもんより美味い」
本来ならお世辞として捉えるだろう。
しかし浩太はお世辞を言わない。料理のことならなおさら。そこには料理自体よりも場の空気や高揚感が影響しているのだろうとは思ったが、それでも当然、満更ではなかった。
「良かったぁ。緊張しまくってたから、安心した!」
「すげえ嬉しい。今日のために頑張ってくれたんだな」
そう言いながら勢いよく箸を進める浩太。
俺は彼に出会って僅か半年だった。それでも自分でも分かるほどの影響を受けていた。普段から忖度して発言する自分は、彼の前だけは思ったことを思った通りに言うことを学んだ。
知らない解放感がそこにあった。虚勢を張ることも、相手に気遣いをすることも必要とされていない。
他人を慮ってきた姿勢まで否定するつもりはない。しかし、浩太側の世界はあまりにも未知で、そういう生き方もあるのだと発見すると、そこに進んで飲み込まれにいった。
確実にその自由を求める自分がいたからだ。
午後は先の災難現場に戻って釣りをした。
食いつきもよく、色んな釣り方を議論しながら試して様々な釣果があった。その中でも最大は浩太が釣った五十八センチのブラックバスだった。勝負をしていたわけではないが、直前に五十四センチを釣り上げた俺は悔しかった。
陽が傾き始め、辺りの木々が長い影を伸ばしてきた。いつもより赤く、深く感じる夕陽。
テントに戻ると、浩太は焚き火台に着火剤と小枝や枯れ葉などの焚き付けを設置した。
「キャンプの本番だぞ」
と実に楽しそうに言う浩太の指示通りに薪を幾つか並べる。
ライターで着火剤に火をつけると、思いの外簡単に炎が現れた。「後は安定するまで育てるんだ」と解説しながら追加の薪を手に火を見つめる横顔が温かい色に染まる。
秋の空気と混ざる焚き火の匂いは、まさに夕陽の香りがした。火の粉が爆ぜる耳に心地良い音や、踊りながら成長していく炎に暗示をかけられたように目が離せなかった。
焚き火も、浩太の横顔も。
定番の釣りキャンプを体験させる、と意気込んでいた浩太は夕飯にカレーライスを作ると決めていた。ただし、ルウまで自家製だと言うので楽しみにしていた。更にバスのホイル焼きを追加した。
出来上がった料理は普段知っている浩太の料理より無骨なのに、腹の底から空腹が呼び起こされた。甘みの利いたカレーは優しく濃厚で、魚の白身を口に運ぶとレモンとハーブが彩る柔らかい歯応えが心に沁みた。
冷えたビールを飲みながら、内容も定かではない会話をしていると、鮮やかな濃藍の空にひとつ、またひとつ星が姿を見せた。
腹以上に、胸がいっぱいだった。この瞬間が永遠であってほしいほどに。とても長く乾いていたものが潤った、そんな満たされた心地。
不意あの話を思い出した。
「昔からよく見る夢があるんだけどさ。まぁ、よくっていうか、年に一、二度くらいなんだけど。いつも同じやつで」
浩太は何も言わずに先を待った。
目を向けると、また彼の顔に揺れる炎の反射に囚われそうになる。
俺は空を見上げて星を探した。
「空飛ぶ魚の話。鳥と一緒に空を飛びたくて、星に願うんだ、魚が。飛べるようにしてください、って。すると魚は飛べるようになって、鳥と遊ぶんだけど、季節が過ぎるとみんなどっかにいっちゃってさ。独りぼっちになっちゃうんだよな。ずっと寂しそうなのに、鳥が戻ってくる季節になると、全部忘れて、また遊ぶんだよ」
この話は誰にもしたことがなかった。意味が分からなくても自分の内にある何かを曝け出してしまうようで、話そうとは思えなかった。
なぜその瞬間、浩太に聞いて欲しいと思ったのか。きっと、その夢にどんな意味を見出しても、彼なら受け止めてくれると思ったからかもしれない。
あるいは、ただ酔いが回ってきただけかもしれない。
「今さ、この空見て、魚の願いを叶えた星も、こんなに輝いてたのかなって。水にも戻れなくて、鳥にもなれない身体にしたのに、なんか酷いなあ、って」
浩太がつられて空を見上げた気配がする。
返事を求めるような内容ではなかった。なのに、心の隅で反応を窺っていた。
「寂しい、話だな」
その表情を窺うと、予想より遥かに真剣な顔をしていた。
突然、雰囲気を壊す話をしてしまったと申し訳なく思った。話題を変えようと口を開くと、
「その魚も諦めちゃったのかな。もしかしたら水でも空でもない、自分だけの居場所もあるかもしれないのにな」
開きかけた口が、そのまま固まった。少し辛そうにしながら、笑顔が向けられた。
「いつか見つかるといいな、願いが叶った理由」
願いが叶った理由。
魚はそんなこと考えたことがなかった気がした。
別の居場所があるかもしれない、とも。




