7-5
七月のバーベキューで約束した通り、浩太と俺は二人で釣り目的のキャンプを予定した。
時期は『うきぐも』の夏季の稼ぎ時が落ち着いた九月に決めた。お互いに行きやすい、浜音と名古屋の中間地点として、行先は琵琶湖に定めた。
テントをはじめ、キャンプ用品と食料品などはほぼ全て浩太が持ってくることになり、俺は寝袋と費用の一部を持つだけで良いと言われた。少し申し訳なく思い、せめて足手まといになるまいと、自分なりにキャンプ知識を付けてみた。
約束を隔てる二か月は実に長く、同時に短くも感じた。
年々記録を更新する酷暑を凌ぎ、傍若無人な夏が肉薄しながら振るう残暑の猛威に耐えて、秋がやってきた。
毎日のように連絡を取り合う様子は宛ら青春を謳歌する男子高校生で、そんな経験が実際にはなかった分、恥ずかしながらも清新な息吹を感じていた。
言葉にするのは憚れた。しかし、その時点で浩太は俺にとって大切な存在となっていた。
そんな人物のことを誰にも話さなかったのは、きっとどこかで後ろめたさを察していたからだろう。俺と浩太には、二人の世界があった。そこに何かが混ざるのは畏怖すべきことだと、直観的に理解していたのかもしれない。
九月までに何度か近場釣りに出かけた榎田には、精々浜音で知り合いができたと伝え。香衣良に至っては一切言及することはなかった。
すでに刻限は迫りつつあったのだ。
出発の前日にも遅くまで話していた。早朝に出るので早寝するべきなのに、延々と。
荷物の支度をしながら何を話したのかすら思い出せない。全く関係ない好きなマンガの話だったかもしれない。
お互い一、二時間足らずの休息を経て、出発した。
その時の感情は自分でも言葉にしづらい。
あれに似ている。物音一つない夜の川辺でリールを巻いていて、世界が自分と魚で満たされている瞬間。
無言で何十分ともつかない決闘があり、緊迫した空気が夜風に溶けては、水面に引く一筋の波からまた生まれてくる。
そして魚影が視認できる距離までくると、空が雄黄色に染まり始める。無限にも思える青と桃と黄の帯が空に流れ出して、ハリスが飛沫を上げて水を離れると同時に、木々の隙間から朝日が腕を伸ばしてくる。
そのときに誰かが隣にいたのなら、振り向いて送る笑顔がその感情だ。
午前の早い時間に琵琶湖の北岸近くの駐車場に着いた。
湖岸緑地という県営公園があり、基本的に入園無料な上、キャンプが許可されている場所もある。
週末になると混み合うため、浩太に早めに到着するよう、言われていた。功を奏したのか駐車場は殆ど空だった。
既に、琵琶湖の絶景が見渡せた。駐車場と湖の間には林間地帯が広がっていた。口元が上がるのも抑えられずに、都会の窮屈さから解放されたことを実感した。
辺りを見回しながら、スマホを取り出し浩太に電話した。
「おはよー、着いたか?」
「ん、今駐車場だけど」
「あ、じゃあ湖に面して、少し左の方向いてみな」
聞きなれた声が景気良く言い、指示に従うと、下の方で大きく手を振る人の姿が見えた。俺はバックパックと釣り具を背負ってその方向に向かった。
途中地点にまで走ってきた浩太は、いきなり大声で笑いながら俺に抱き着いてきた。
「いや、ちょ、うわっ」
会う度に驚かされる。
驚愕のあまり、変な声が出た。彼のスキンシップには慣れたはずなのに、心臓が痛いほど脈打った。
一回り背の低い身体を降ろされると、手で髪を掻き回してきて、
「翔一、会えてめっちゃ嬉しい! 運転、疲れなかったか?」
と、一連の行動がごく自然であるかのように続けた。
ある種の虚栄心だろう、俺は平静を装い動揺を噛み殺した。
「な、何回か休憩入れたよ。浩太は? いつ着いた?」
「さっき、さっき。うちの方が若干近いからな! それより、良いスポットあったぞ」
そう言われて流れるように手を取られた。瞬発的に振り解こうとしたが、浩太は力強くその手を握っていたので叶わなかった。
少なくとも、そういうことにした。
俺は辺りに人目がないか気にしながらも、先導されるままに歩を重ねた。衆目がないことを確認すると、強張った筋肉はほぐれた。
意識は彼の手が帯びる温もりに移って、それが心まで届いてくるのを不思議に思った。本当に、変わった人だ。
それ以上に変わっているのは自分だ。
そのとき、男同士で手を繋いでいることになぜ、一つの違和感も抱かなかったのか。きっと、浩太以外の何者かだったら、気持ち悪さが勝っていた。
そんなこと、気にせずにいたのは、それが俺と彼の空間でしか存在し得ない、現実から隔離された瞬間だったから。
案内された地点は枝を大きく広げた欅と幾つかの椋木に囲まれた、人目につきにくい一角だった。湖からもほど近く、眺めも申し分なかった。
きっと優先的に確保されるような場所だろう。浩太は早くもテントの準備を始めていたのか、グランドシートやペグ、ポールやロープが辺りに纏められていた。
その本人は得意げに湖を指差していた。
「最高だろ? 早起きした甲斐があった!」
水面は朝の日差しを受けた銀色の風に煌めいて、ひたすら青い風景。対岸には山並みの麓を生い茂るような青い街がうっすらと見える。
まだ夜を洗い切れていない空に散りばめられた白い雲が流れるなか、秋の空気のように澄んだ水鳥の鳴き声が一つ、静寂を貫いた。
その手前で笑う浩太が景色に馴染んでいた、この瞬間が完成するには彼がいなくてはならないかのように。
「なんか……、すげぇ」
知性のない返事は、まるで感情から直接零れてきたようだった。
それでも足りないかのように、胸の躍動を笑顔に乗せて浩太に送った。
戦力になるどころか迷惑を掛けながらテントの組み立てを再開した。
慣れた手つきでポールを繋げていく浩太が一人でやった方が確実に早かっただろうに。しかしそれすら楽しむかのように彼は辛抱強く手解きした。ポールを逆に繋げて悶絶する俺を嘲笑する目的もあったのかもしれない。
暫くしてドーム型のテントがそれっぽく立った。後は、内側に実際の居住スペースとなるインナーテントを張るだけだったが、場所は確保できたし休憩しようと浩太が勧めた。
俺達は釣りのスポットを下見しようと、湖畔を少し歩くことになった。
荷物はテント内に仕舞った。俺は貴重品ぐらいは身につけておこうと思い、バックパックを解くのも面倒なので、それだけはそのまま背負った。
徐々に高くなってきた日と共に緑地には次々人が増えていった。子どもが甲高い声で燥いで、ソロキャンパーが黙々とテントを立て、釣り人が位置に付いて。陽気な空気が漂ってきた。
場所は違ったが、琵琶湖には幼い頃に日帰りで父と来たことを思い出した。走り回って遊ぶのではなく、父の隣に大人しく座って何時間も無言で釣りをした。周りを見てもそんな子どもは俺くらいだったが、寂しくはなかった。
そんな話をなぜか自然としていた。
「何か似てるかも。俺も、釣り教えてくれたのは爺ちゃんで。すごい無口な人だったから、ずっと無言なんだよな。でも嫌じゃなかった。なんかそういうのも好きで嵌った感じ」
「分かる! なんも言わなくても良い感じするよな、落ち着くっていうか」
そんな共感を語りあっていると、木陰の、釣りにも良さそうな場所を見つけた。少し傾斜になっていたが、気になるほどではなかった。
突然、浩太が朝食にしようと言って地面にリュックサックを置いて中を探った。俺もバックパックを降ろして、地面に座る。
そこをなんとなく撫でると草が手のひらを擽ってきた。浩太はというと荷物から大きめのタッパーを取り出した。色とりどりのサンドイッチがぎっしりと詰め込まれていた。
「美味そ。なんか餌付けされてない、俺?」
当然のように差し出された卵サンドを受け取った俺は、ふと自分の図々しさに気付いて尋ねてみた。
「ふはは。案外、そのつもりかも」
その瞳には含みを帯びた光があった。浩太の好意は分かっていたのだと思う。
無論、恋情と結びつけられるはずもなかったが、強い絆があること。それは、腹の内を隠さない彼を見ていれば明白だった。
自分も同じような縁を感じているので、言動の節々に共鳴を見つけては嬉しく思った。
暫く話し込んで過ごした。
以前提案した出前を年末に試してみるとか、有能だけど私語の多い後輩のこととか。魚の話をした。
琵琶湖といえばブラックバスだとか、ブラックバスと言えばこの間こんなデカいのが釣れただとか。その巨体を表すように俺が手を大きく広げると、腕が後ろに置いてあったバックパックに当たった。
ゆっくりと重心を倒すそれを眺めて、数秒遅れて抑えようとしたときには芝生の斜面を転がって行った。
慌てて立ち上がって追うが、海外のギャグアニメのワンシーンのように綺麗に指をすり抜けていく。
その先にある水際が目に入り嫌な予感がする。
「翔一! 止まれ!」
と声が届いた時にはもう、遅かった。
派手な音と飛沫、そして情けない声をあげて俺はバックパック諸共、冷たい水に飛び込んだ。
幸い、脹脛ぐらいまでの浅瀬だったが、勢いよく突進した俺は頭部以外はしっかりと浸っていた。
前方に倒れたのを持ち直して、水中に座り込むようにすると、手が泥濘に取られて、気持ちの悪い手触りがした。
目を丸くして思考が止まっていた。
「大丈夫か、翔一⁈」
駆け寄ってきた浩太は心配そうな顔をしていたが、一先ず怪我がないことを理解すると、安堵したように力を抜いた。
その姿に脳が漸く動き始めた。
「なっ。マジ⁈ うわっ、どうすんだよこれぇ‼」
立ち上がると、服から滝のように水が零れ落ちた。
手を伸ばしてくる浩太があまりにも笑っているので、いっそのこと道連れにしてやろうか悩んだが、泥まみれの手を一瞬の迷いもなく掴み取ってくれた気概に免じて堪えた。




