7-4
キャンプであの言葉が放たれるまで、気付くタイミングはいくらでもあった。
俺はそれを悉く無視してきた。
浩太の性格だから仕方ない、と釈明して。それを拒もうともしない自分を、抵抗の欠片も感じない自分を、見て見ぬ振りをしてきた。
『ちょっと変わった友人』という口実に隠れられる限り、好きなだけ自分を欺くことができたのだ。
出会って間もないのに友人のように接してきた浩太を、俺はヤバい奴かもしれないと思った。案の定、ヤバい奴だった。
常識に囚われず、自分の理念を通す。しかし同じように他人を決めつけることはなく、ありのままを肯定しようとする。
字面だけ見れば、粋で実直な、主人公格とでも言えようか、そういう人間だった。そんな人に懐かれたことに悪い気はしないし、純粋に憧れのような感情があった。
二度目の浜音訪問の際、試食してくれ、と浩太が箸を進めてきた。
無論、驚いた。三十前後の男二人がする交流ではないから。しかし、彼のはっと焦る表情が無作為な行動であったことを物語っており。島崎浩太らしいと思った。
気恥ずかしさはあったが、俺はその流れを乱すことはしなかった。面映ゆい視線も、すぐに料理の美味さに掻き消された。
それは彼の奇行のほんの序の口だ。
七月だったその訪問以前、五月の半ばに浩太が名古屋まで突然、会いに来てくれたことがあった。
客足が悪く、折角なので思い切って店を閉めて二日ばかり旅行に来たのだと言った。
事前に連絡してくれればもっと色々用意できたのに、と告げると、
「昨日、決めたからな、ふはは。適当にネカフェでも探すから気にすんな」
と笑っていたが、そういうことではなかった。当然、自宅に泊まってもらうことにした。
翌日には浜音に戻るというので大仰な予定を入れられるわけもなく、近場を流れる矢田川で釣りに行くことになった。素っ気ないが静かな河川敷に殆ど形式的な釣り糸を垂らして、何時間も中身のない話をした。
そのとき、浩太の母親のことや俺の家族のことも話したと思う。
大した釣果は得られなかったが、パックマンと出会ったのはその日だ。
豪放な引きで、どんな大物が掛かったのか胸が弾んだ。上げた針先にのたうちながら垂れていたのは痩せこけた一匹の鯉。
その衝撃に脚の力が抜けた俺を、浩太は慌てて受け止めた。背を預けたような形で倒れ込み、見上げると視線がぶつかった。
どちらが先かは分からないが、抑えようのない笑いが込み上げた。
立ち上がるのに手を貸してもらい、二人で獲物を覗いた。
「こいつ、大分傷だらけだなあ」
浩太は水を張ったバケツに避難させた鯉の鰭や尾を確認しながら言った。確かにそれほど大きくもない鯉は古いとも新しいともつかない傷跡が多数あり、鱗は所々剥落していた。
これほど弱々しい魚があれほどの苦戦を強いたと思うとある種の敬意を認めざるを得なかった。
「あ、ほら、釣られるの、初めてじゃない。しかも、かなり雑だ」
頬の辺りに大きな傷が更に一つあった。それは、釣針が中途半端に掛かった跡だった。丁寧に抜くのではなく、引き千切るように乱雑に取られた傷だ。
そのまま放流したのだろうが、この状態だと、きっと摂食するのにも苦労しただろう、と少し胸が痛んだ。弱った状態はそれで辻褄が合った。
「このまま逃がしたら、死んじゃうかな」
独り言のように言っただけだが、肩の後方から至近距離で覗き込んでいた浩太は、「あそっか」と声を発した。
「飼ってやれば、回復するかもしれんぞ?」
危うく決定事項のように告げられた。そのつもりではなかった旨、弁明を試みた。
「いや、俺、魚飼ったのずいぶん前だし、水槽とか全部実家だよ」
「今から買いに行けばいいじゃん? 勿論、俺も費用出すし。どうする?」
最終確認を俺に委ねるのは、当たり前の行動なのだが、実に浩太らしかった。
「うーん、まあ鯉はそんなに難しくないし、確かにこの状態のままじゃあな……」
「ふは、さすが翔一!」
そう言うと突然、浩太は俺の頭を両手で撫で回し始めた。その衝撃で俺はバランスを崩し、再び河川敷の玉砂利に尻を打つ。
慌てふためくように、髪に残る感触に指を触れた。
「なな、な、なに⁈」
「ん? ちゃんと褒めたげなきゃなって」
こんな男に会ったことはなかった。
悪びれもなく、逆に俺が不審な行動を取っているかのように呆れた表情を見せていた。
微笑ましい光景に見えなくもないのかもしれない。しかしそこにいるのは小学生でも中学生でもない。そろそろ皺の一つや二つが目立ってもおかしくない、三十路男性だ。
客観的に見たら不自然以外のなにものでもなかった。
そんなことを浩太は易々とやってのける。
彼の生い立ちは聞いていた。
祖父母に育てられたことも、その家庭はとても温かく、愛情表現は厭わなかったことも。だから俺もそんな浩太を肯定したかった。
いや、彼がそのように心を許してくれること自体が嬉しかった。俺のような人間にとってそれは、相応の腹構えを要することだったが。
浩太の笑顔を見ると、そんなことどうでもいいように感じた。心臓の奥がその度、むず痒くなるのを看過するのも容易だった。
夕方のうちに急いで釣り具店まで行き、必要最低限の品を揃えて家へ帰った。
なぜだか昔のゲームのキャラクターをなぞってパックマンと名付けられた鯉が水槽の中で落ち着くと、
「よーく食って、おっきくなれよー」
満足げにそう言って肩を組んできた。
彼の距離感が自分のそれとは違うのだということはよく分かった。しかし、それを受け入れられたのも、彼だから、と今なら明白だ。
無自覚のうちに、特別な枠に収めていたのだ。
その夜は浩太に目を瞠るほどのご馳走を振る舞ってもらい、一晩中パックマンを眺めながら話し込んだ。
翌朝目を覚ますと、俺は浩太の肩を枕代わりにしていた。彼の腕はしっかりと俺の背中に回され、二人で掛布団を分け合っていた。
いつの間にか寝落ちしてしまい、浩太の動きを封じ、彼はそのまま就寝したという図であった。
起こさないように慎重にその状況から抜け出して、朝食の支度を始めた。
ずっと、顔やら、耳やら、首やらが火照っている感覚があった。
そう、俺は何度も気付く機会があった。
必死に目を背けた深淵に潜んでいた感情も、それが残す禍根も。しかし、そんなこと、俺にできるはずもなかった。
俺は世間に迎合し続けた盲目の漂泊者だ。波に逆らって生きることなんて愚かな真似はしない。
そんな可能性にすら遭遇することはないと。そう、信じ切っていた。油断、といえばそれまでだが、今までそうして生きてきて問題などなかった。
少し変わった友人。知り得るどの人間とも違う。驚かされ、振り回され、笑わされるけれど、それでも友人。
浩太の周りはいつだって清冽な空気が湧き出ているようだった。そこは信じられないくらいに呼吸がしやすくて。
そして彼が笑えば春陽のような温もりに包まれて、自分にも、他人にも、どこまでも優しくなれそうな気がした。
ある日、電話で彼は言った。祖父が倒れて地元に戻る決意をしたときの話だった。
「きっと、俺がやるべきことは、ちゃんと京都でやり切ることだったと思う。爺ちゃんもそう言ってたし。けど、それは俺がやりたいことじゃなかったんだよな」
「やりたいこと、か。怖くなかったのか? もし選択間違えてたら、とか。もっと学べるものあるかもしれない、とか」
「そりゃ、考えなかったとは言わねえけど。でも、結局、自分が頑張りたいと思える方はどっちなんだろうって。婆ちゃん一人残して、『うきぐも』が潰れる覚悟で、京都で一人前になるのか。一人前にはなれなかったけど、親同然の二人を支えて店継ぐのか。前へ進む活力、みたいな? 俺はそれが浜音だって思えたから。あまり悩まなかったな」
「そっか。やっぱり浩太は凄いな。前へ進む活力か……」
「いやいや、結果は出てないけどなぁ、はは。翔一は、活力にしてるものとかある?」
当然、あるもののように言われて初めて気付いた。そんなこと、考えてこなかった。
俺は進まなければならないから進むだけだ。望むものはある。それは『普通』の生活だった。誰にも咎められず、誰にも迷惑を掛けないような、そんな『普通』。
しかし、そこに『やりたいこと』なんてあるのだろうか。昔は、あったのかもしれない。
俺を突き動かしてきたのはいつだって義務と常識だ。
それは、ときに自分の奥底で、本当にやりたいと思っているものや、欲しいと思っているものとは矛盾する。そういうときは常に、やるべきことを優先してきた。
次第にそういう葛藤は減っていった。それが今の満足な生活に繋がっているのだと考えていた。
浩太に、何となくそんな返事をしたと思う。彼は『そういう真面目で分別があるとこ、すげえ格好良いな』と感心していた。
浩太は俺とはあらゆる面で真逆とも言えた。
それでも彼は、自分と異なるものを相容れないものだとは思わなかった。誰でもその人にしかない歴史と成長を持ち、だから考えも千差万別。
浩太は共存するだけではなくて、そんな考えを通して誰かを深く知ることができるんだ、と。自分は特に繊細な機微に疎いから、そういうものを頼りにしてきたとも言っていた。
青くて涼しい風が吹くようだった。
彼ではない他の誰かに同じ言葉を言われてもその共鳴反応は起こらなかっただろう。
一つは、譲歩的でも偽善的でもなく純粋に俺の声や意見に耳を傾けてくれたから。
もう一つは、一度たりとも自分の人生観が正しいと押し付けてこなかったから。
そしてもう一つは——
俺が確かに彼に惹かれていたから。
言葉にすることは勿論、意識することさえ憚れる禁忌だ。『友人』という言葉がある限りそれは成立していた。
自分に問い質すことなく、彼の好意を受け入れて、自分もまた好意を向けることが赦免されていた。
だから許せなかった。あのキャンプでの出来事。




