7-3
いつまでも風呂場に隠れているわけにもいかなかった。
絶えず押し寄せてくる嘔気を吸い込んだ空気で抑え、息を止めて水中に潜るようにリビングに戻った。
「完璧なタイミング」
言いながら香衣良は白ワインをグラスに注いでいる。きっとぎこちないであろう笑顔を作って近付く。
「やべえ、美味そう」
テーブルには洋風の料理が爽やかな彩りを連ねている。
ペスカトーレパスタにモッツァレラとトマトのサラダ、オリーブオイルとパセリが塗られたバゲットなど、南欧を彷彿とさせる品々だ。
盛り付けにまで気を配った光景に、気後れが更に一段強くなる。
「この前もイタリアンだったけど、あまり思いつかなくて」
少し申し訳なさそうに香衣良は言う。
「いや、本当にすごいよ。香衣良、こんなの作れたんだな」
「レシピ通りにしただけよ。ねえ、早く座って」
満更でもない声の弾みで彼女は言った。
正直、イタリアンでも何でもきっと変わらなかっただろう。
味のしない塊を重々しく飲み込む作業を繰り返す。手間をかけて作っただろう好意を蔑ろにしている自分が嫌になる。
更にそれを悟られまいと白々しい表情で「美味しいよ」と告げている姿は滑稽でしかない。この時間を永遠に感じてしまう。
素晴らしい女性を前に、その幸運を噛み締めることなく、俺は今にも溺れてしまいそうだ。
少しでも誠実な心があれば、すぐにでも香衣良の前に平伏して許しを請うべきだ。こんな男のために彼女は——
「そう言えば、クリスマスどうする?」
自責の念を追い返すためだろうか、そんな言葉が零れた。
クリスマスを一緒に過ごすことが何の均衡を齎すわけでもないのに、せめてもの罪滅ぼしみたいに。
彼女は少し考える素振りを見せると、すっきりとした口角を上げた。
「いいの、無理しなくて。だからこうして今日来てるんだし」
「え。で、でも都合は付くと思う。翌日には実家に戻って正月過ごそうとは思ってるけど」
香衣良は微笑みのままゆっくりと首を横に振った。
なぜかその所作を見て動揺する。
「ううん。だって翔一君、ストレスに感じてない? いいじゃん、こんな感じで楽にするのも。私はこういうのも好きよ?」
どうして、みんな俺のことを俺より分かっている風に言うのだろう。俺には見えない何かが見えている風にするのだろう。
そんな一瞬の綻びで押し込んだ吐き気がまた胃を握りしめる。
「そんなこと……」
突然の啓示を受けたように、あからさまな嘘を吐くことが辛くなった。言いかけた台詞を終えることもできずに、俯く。
テーブルの上に放った腕に香衣良の手が優しく添えられる。そして慈しむ声で彼女は言う。
「いいの、そういうときだってあるわよ。けど……」
急に歯切れが悪くなった彼女を覗くくらいの小さな視線を投げる。平穏な表情に僅かな翳りが過ぎる。
「けどね、もう少し、私に頼ってくれてもいいのよ?」
香衣良は手を組んで澄んだ瞳を向ける。純粋な温情しか写さない目。しかし、俺はその視線に堪えられず、卓上の皿を凝視する。
彼女には頼っている、いつだって。心の拠り所だ。笑顔でいてくれるだけで、活力が湧く。しかし、今日に限っては説得力がないのだろう。
逆に彼女の指摘に僅かな遺憾を覚える。
「ごめん、責めてるんじゃないから」
「……分からないんだよ」
「え?」
「どうしたら、君に認めてもらえるか……」
そう、言ってしまう方が楽だった。俺の中が胡乱な考えで溢れ返っていて、惨めで心細い、と認めるよりも断然。
俺はどこかで根に持っているのかもしれない。プロポーズを断った香衣良に、この狼狽を擦り付けようとするほどには。
出会ったのが香衣良でなければ、もしかしたら今頃、結婚していたのかもしれない。そうすれば、こんな気持ちになることもなかったのではないだろうか。
「翔一君?」
「……、」
彼女は席を立ち、隣に座って、俺の手を取る。
その振る舞いに一種の切実さが感じ取れる。
「ねぇ、ちゃんと話して?」
深く空気を取り入れてみる。効果、期待値もクソもない。
「……、俺は、ずっと、頼ってるよ。ただ君といるだけで幸せで。それ以上なにもいらないくらい。でも、君は違うんだろ? 俺に何か求めてるのに、それが、ずっと分からないんだ。今だって、もっと頼れって言ったって……」
香衣良はまるで思いがけない応答がきたかのように固まった。少ししてゆっくりと彼女の手は離れていく。
この会話はもっと前にするべきだった。疲れた脳が思考放棄し、躍起になって出すような札じゃない。それでもこの際、訊くのが最善なのだろう。
彼女は『頼ってほしい』という。言いたいことは分かっている。話してほしいということだ。しかし彼女だって俺を頼らない。泉明一君のことも何も言わなかった。
付き合っている確証があれば、俺達に未来があるという確信があれば、俺だってきっと悩まずに打ち明けることができるのではないか。
自分を侵略してくる疚しさからの逃避だ。
香衣良へ普段から向けていた鬱屈の種を芽吹かせて、育てれば、これを全部彼女のせいにできてしまう。
交差する思考の中でその事実に気付いた俺は、自分がしようとしていることに戦慄する。
「ごめん……、きっと言い訳だよな」
とても長い沈黙が続く。
これ以上何を言えばよいのか分からず、その上込み上げる気持ち悪さに抗うのに必死で、彼女が無言を破ってくれるのを待つ。
食べかけのご馳走がどんどん冷めていく。寂しいことだと思う。
「この前、翔一君、友達に酷いことを言ったから謝らなきゃ、って話してくれたじゃない? 私、翔一君にそんな友達がいるなんて知らなくて。少し安心して、少し嫉妬もしたの。私に自分をあんなに曝け出してしまうほど悩む相手がいるんだ、って思って。あなたのそんな姿、見たことなくて。初めてそういうことを相談してくれて、やっと近付けたような気がした」
そうだった。俺は浩太のことを彼女に話したのだった。
あのときは揺るがない確信で自分のすべきことは浩太に謝ることだと思っていた。しかし俺はやはり自分のことを何も見えていなくて、結局それは独り善がりでしかなかったし、きっと自分が望むものとも違っていた。
「私、きっと欲張りなのよ。翔一君が喜んだり、悲しんだりしているとき、真っ先にそれを伝える相手が私であってほしいの。あなたはいつも優しくて、気が利いていて、私を肯定してくれる。だけど、自分のことはほとんど話さないし、弱いところは見せない。そんな完璧な彼氏じゃなくてもいいのに、って。自分が格好悪いと思っていても私には見せてくれる、無理していない翔一君とも出会いたいの」
彼氏という言葉が発せられ、俺達は付き合っていたことを理解する。
声に出すほど喜ぶべきことなのに、その前に沈鬱な塊があって気持ちが通らない。
「お、俺は、無理なんて……」
「うん、知ってるわ。嘘でも演技でもないの。だから好きになったんだもん。でも、私はずっと、あなたのほんの一部しか知らない気がしてて。絶対残りのあなたも好きになる自信があるのに、って思っちゃう」
少し前の自分なら、きっと香衣良の言葉を理解できなかった。
誰よりも自分らしくいられる相手が彼女だと思っていた、何も隠すことはないと。
その実態は違うのではないかと思い始めた。俺の考える『自分らしさ』とは結局、俺の思い描く『理想の自分』ではないのだろうかと。
香衣良と一緒にいる自分が一番好きだった、そんな自分にさせてくれる香衣良が好きだった。そういうことではないだろうか、と。
皮肉にもそんな得心とともに彼女の言葉の輪郭がはっきりとしてきたのだ。
少しだけ、分かってしまう。
「ごめん、香衣良。俺にはまだ、よく分からない」
そう零すと、彼女は優しい笑顔を見せた。
「ううん。無理するものじゃないから。今、何に悩んでいても私は、いつだって翔一君の味方だってことだけ、それだけ覚えといてくれる?」
二の腕にそっと触れ、首を傾げて言う香衣良。俺は力なく頷く。
その後、明るい話題を引き出した彼女によって食事は再開された。やはり味はしなかった。
普通であれば、少しでも気が楽になるはずだろう。理解はしているが心は納得していない。
テーブルを二人で片付けた後、「じゃあ、私そろそろ帰るわ」と言いながら荷物を纏める彼女。体裁だけの「もう、帰るのか」と口にしながら、腹の底では安堵していた。
家を出る前に香衣良は振り返った。
「翔一君、好きよ。忘れないでね」
言葉には憐憫の情が響くが、その視線にはしっかり理解していることを確認する鋭さがあった。
答える前に彼女は素早く俺の頬にキスを落とし、戸口の先へと消えていった。その応答を俺は、彼女の目を見て最後まで言えただろうか。
廃人のように立ち尽くした。
昔、父と一度だけ試した釣り方法がある。
割竹で作られた漏斗状の口が特徴的な筌という漁具を用いたものだ。
水路などに設置して魚を誘い込んで捕獲するのだが、筌に入り込んでしまった獲物はその形状に閉じ込められて出られなくなる。気付かぬうちに、抵抗の機会も与えずに捕まってしまう。
子どもながらに残酷なやり方だと思った。
今の俺はそんな気分だった。進むことも、戻ることもできない。
気付いたら捕まっていたという実感と、それまでにあった暗示を見逃した後悔をじっくりと噛み締めることしかできない。
これはきっと全部、俺自身が招いたことだ。
香衣良も、相沢も、榎田も、母も、父も。
浩太も。
誰も責められないのかもしれない。
もう逃げ道を探すことさえ憂鬱に思えた。
今でも認めることはできない。
認めようとする度に胃酸が湧き出す。しかし、無視もできなくなってきたのだ。
何一つ、劇的なことが起きたわけではない。
端から見れば普段通りの味気のない平凡な生活を送っていた。
小さな変化。殆ど無害な毒。それが一つ、また一つと溜まっていっただけ。
それが俺という人間にどれほどの影響を及ぼすか、気付いたときにはもう、遅かったのだ。
馬鹿だ馬鹿だ。全てを棒に振って、本当に馬鹿だ。
たった一つの事実が無情に突き付けられる。
俺は確かに、島崎浩太に惹かれてしまった。




