7-2
香衣良との連絡は滞っていた。
十一月いっぱいは繁忙期のせいにできたが、十二月はそうもいかない。もうすぐクリスマスだ。
今まで特別何をするわけでもないが、互いのスケジュールが合うのであれば一緒に過ごしてきた。何回かその件で連絡があったが確定的な返事ができずにいた。
いっそのこと実家に帰ると言ってしまおうかとも思った。しかし、それは卑怯に思えた。
避けているつもりはないが、実際そういうことなのだろう。何も疲弊した姿を見られたくないという単一の理由ではない。どことなく後ろめたさがあるのだ。
何一つ不実を働いてはいない。そのはずなのに、彼女の聡明な視線を直視できる気がしない。
だから、イブを二日後に控えた夜、帰宅すると香衣良が部屋にいたことに焦った。
合鍵は当然、渡してあったので入室自体に問題はない。驚いたのは、何も言わずに来たのが初めてだからだ。
どこかでメッセージを送られていたのだろうか、見落としていたのだろうか、と脳内がざわつく。
完全に生活リズムを放棄した俺の部屋は雑然としていたはずだ。しかし、帰ってきた自宅にその痕跡はなかった。
不摂生の現れのように調理台の隅に積み上がっていたインスタント食品やコンビニ飯の容器も、掃除機もかけていない床の塵が纏わり付いて散らばる衣服も、不眠の夜を紛らわすために引き抜いて一文字も頭に入らないまま放り出した本も、洗面台の鏡に飛び散ったまま放置していた歯磨き粉や髭剃りの痕も。
空気を入れ替えることさえ面倒で溜まっていた淀んだ部屋の匂いも、なくなっていた。
そんな俺の努力によるものではない清潔な空間の真ん中で、ベッドに凭れるように香衣良は雑誌を読んでいた。
何も言えずに固まっていた俺に彼女は軽快な声で呼びかけた。
「おかえり! ごめん、勝手に上がってた」
「た、ただいま……。ごめん、部屋。汚かっただろう」
「繁忙期明けでしょ、普通にそうなるよ」
笑いながら雑誌を閉じて、俺の方へと近づいた。
力無く垂れていた腕の先にぶら下がっている鞄を取り上げる。
「お疲れ様です」
改まった口調で同棲し始めたばかりの彼女を演じる香衣良を不自然に感じる。記憶する傾向から大きく逸脱した行動には不穏な胸騒ぎを覚える。
それが自分の精神状態が不安定さゆえか、或いは直観的なものか、結論付けることができずに、取るべき対応を決めあぐねている。
何も気付かないように彼女は振る舞うが、そんなはずはない。目元の隈も、荒れた肌も、蒼白な顔も、見逃すわけがない。敢えて触れないようにしているのだ。
最近の素っ気ない返信を案じたのだろうか。最後に会ったときも似た構図だったと思い出す。何かを察して元気付けるために訪問したのかもしれない。
「ありがとう。ていうか、部屋まで掃除してくれて、ごめん」
「ううん、全然。今日は仕事早く終わったし」
そう言いながらコートやマフラーまで受け取ると彼女は玄関のラックにそれらを丁寧に掛ける。
「大したものじゃないけど、なんと、夕食も作ってあります!」
満足そうに付け足す。
香衣良の料理をあまり食べたことがない。不得意というわけではないらしいが、そもそもあまり好きではないのだろう。
そこまでしてくれたことに喜びと緊張が入り混じった気持ちになる。心の中に残る、この状況の異質感には気付かないように目を背ける。
「ウソ、マジで。俺、何か忘れてる?」
その可能性は薄かった。この時期に記念日はなく、それ以前に記念日を気にするような彼女ではないからだ。
それでも、少し大袈裟に言ってみれば、声の無気力を誤魔化せると思った。
「あはは、どうだろうね」
と気の利いた返しをする香衣良。
彼女に続いてリビングへと向かう。前言の通り、ダイニングテーブルは軽い装飾で彩られ、そこにいくつかのラップされた料理が並べられている。
内容を見るに『大したものじゃない』という言葉には当てはまらない。
「やば、これ全部香衣良が作ったのか?」
「勿論。と言いたいところだけど、ほとんど箱から出しただけ」
舌先を覗かせて、あまり似つかわしくないあざとい仕草を見せる。
「もう温める? それとも先にお風呂入る?」
新妻感たっぷりの台詞を発する。
こういう、理想的な家庭のイメージを抱いていなかったと言えば嘘になる。しかし両親を見てもそうだし、大人になればそんな都合の良い偶像も保っていけなくなる。
今のこの一幕だって、演じているものだ。所謂、プレイなのだ。
香衣良は更に上目遣いに続けた。
「……それとも、」
思考が一気に凍り付いた。
普段の自分なら高揚感を隠し切れなかっただろう。新鮮な仕草に刺激されたことだろう。今は喉を通る唾が固まる感覚しかない。
その理由は、前回、なぜ最後までできなかったのか自分なりに考えてしまったからだ。香衣良に触れて、密かに蠢く疑念が具現化してしまうことが何より恐ろしい。
「さ、先にシャワー浴びてくるわ」
呂律が上手く回らないことに気付かない風を装って、彼女は「了解〜」と気さくに言うと、食事を温める準備をし始めた。
逃げるように風呂場へ避難した。
このままで良い訳がない。
しかし、何をどう動かすべきなのかも見定められない。俺は香衣良を不安にさせている、殆ど確定だ。それを解消する手立てとは。
昔なら色々と思い付いたことだろう。あのときは俺達の関係は今ほど抽象的なものではなかった。シンプルだった。
意見が食い違えば、お互いが納得するまで会話を重ねたり。喧嘩をすれば、すぐに謝って彼女が喜びそうな場所へ連れて行き彼女への理解を示したり。不安があれば、ちゃんと気持ちを言葉や行動で伝えたり。
しかし、それはどれも彼女が本当に望むものではないと、次第に気付いた。
去年、俺は香衣良にプロポーズした。しない理由がなかった。
付き合い出して二年、俺達は仲が良く、気兼ねなく話し合えた。何よりお互いに居心地の良い存在である。
自分の未来を想像したとき、彼女が隣にいるのが必然に思えた。家族になるなら、彼女がいいと思った。
しかし彼女は首を縦には振らなかった。
幸せな記憶が別れ話になってしまうと絶望しかけたが、彼女は俺のことを『本当に好き』だと。『結婚するなら、翔一君がいい』と宣言した。
では、なぜ受け止めてくれないのかを尋ねたが、はっきりとした答えを与えてはくれなかった。
『ごめん。すごく嬉しいのは本当なの。でも……、今その指輪を受け取ったら私達、本当の夫婦になれない気がして。そうしたら、二人とも窮屈な檻の中に閉じ込められちゃう。だから、もう少し、お互い成長する時間が必要だと思うの。ちゃんと自由なまま、隣でいられるように』
何一つ理解できなかった。今でもそうだ。
既に玉砕したような気分でいた俺には、『俺達はまだ付き合ってるの?』と、不格好な問いを投げ掛けるほどの気概はなかった。
それからだろうか、少しばかり受け身になったのは。俺に何が足りないのか、どう成長するべきなのか、何を以って自由と言えるのか。
一つも答えが出せないまま、臆病になった。
それでも香衣良は今まで通り接してきたし、他の誰かと交際している様子もなかった。
無論、一度断られたからといって潔く身を引くほど自分の気持ちも軽いものではなかった。
どんな自分であれば彼女は受け入れてくれるのだろう、とずっと迷走している。或いは彼女の気持ちに整理が付くのをただ待っている。
彼女が重んじる自由を、俺は生涯かけて守っていく、そんな誓いを信じてくれるまで。
そして、確固たる決意と称した志は、今揺らいでいる。
愛情が褪せたわけではないし、理想が萎んだわけでもない。あのときの彼女の言葉の真意が、僅かに見えてしまったからだ。
香衣良が懸念していたのは自身の自由ではない。俺の自由だったのではないだろうか。自分のことすらよく分かっていない俺が、果たして誰かと運命を繋いで幸せでいられるのか。
心の有様に明哲な彼女の眼に、俺はあのとき、どう映っていたのだろう。
好きだから結婚したい、そんな酷く幼稚な動機だったように思う。俺が彼女に求めたのは、脳内の理想を実現してくれることであり、二人で未確定な未来を紡いでいくことではなかった。
そして俺は、未知へ容易く踏み込めるような人間ではなかった。自分の想像と現実に挟まれて、その矛盾に苛まれる俺の姿を彼女は予見したのかもしれない。
それが正しかったのか否か、確証などない。
一つだけ確実なのは、今、俺が自分のことを何一つ見えていないということである。
香衣良への気持ちはいったい、どれだけ本音なのだろうか、とまで疑い始める。どこからが自分に課した到達点への執着なのだろう。
そんな自分が誰かを幸せにするとか、定義すらよく分からない自由を守るとか、あまりにも浅はかで傲慢に思えた。
人の気持ちに微塵も寄り添っていない、薄っぺらい覚悟だと。
シャワーの熱い流水に頭を突っ込むと、水の筋が伝い零れ落ちていくのが滲んで見える。
それが水滴なのか涙なのか分からなくなるのでそうしている。目や心の裏には確実に熱を感じるからそうしている。
苦しいのは、感情が移ろっているからだ。
自分の『好き』に信頼を失いかけているからだ。
その言葉の意味が理解からゆっくり剥がれていくからだ。
浩太の『好き』はなんだったのだろう。
俺が今まで信じてきたそれとはどう違うのか。あの感情を向けられたときに感じた絶望は。ずっと頭から離れなくなった声色は。
それが香衣良への気持ちを乱しているのは。
俺が、ゲイであることを恐れている? そんなはずないだろう。
俺は香衣良に恋をしているし、それに伴う全てに一切の違和感はない。
ご飯を食べるのも、挨拶するのも、老いていくのも、彼女がいい。
今までも、これからも、そうなのだから、そんな恐れを感じる必要はないだろう。
俺はただ、ホモが心底嫌いなだけだ。
そう断言できるはずだ。確かにできていたのだ。一瞬の迷いもなく、堂々と自信に満ちて。
しかし今、心が罪悪感に押し潰されそうだ。
果たして俺は香衣良を裏切っているのだろうか。今までもずっと裏切り続けてきたのだろうか。そんな考えには耐えられない。
あってはならないのだ、そんなこと。
このまま湯に溶けて排水口から流れ出てしまいたい。




