7-1
定かではないがきっと、叫びながら起き上がった。
喉に気触れたような、焼けたような痛みがあり、皮膚の外側までひりつく感覚が広がっている。
服も、髪も、まるで水中に突き落とされたかのようにびっしょりと濡れている。
息が整わない。見つからない。
あの魚のように。
視線が部屋を嘗め回すかのように彷徨う。
外の街灯から忍び込む青白い光でさえ激しい威嚇に感じられる。
いまだに収まらない恐怖。悪夢だ、分かっている。現実ではない。
短い呼吸。深く吸おうとすると噎せて更に肺を追い詰める。筋肉が強張って痛い。見ると指の関節が白んでいる。
ただ手を開くにも、まるで鉄製の枷に拘束されているようだ。やっと開いた後の手の平は暗い色に滲む爪の痕でいっぱい。
冷えた空気が湿った衣服に付着して、身震いする。
まるで鳩尾を殴打されたような、尖った痛みの伴う吐き気が襲い掛かる。逆行する濁流を堰き止めきれないと理解する。
ベッドから転がり落ちてトイレに向かう。間に合わない。
近くの屑籠を乱暴に掴んで、嘔吐する。次から次へと波が押し寄せて息を継ぐ余裕がない。肺が窄んでいく感覚。内臓が圧迫される。
心身両方の苦しさから涙が溢れる。
なぜだ。俺はなぜこんな目に遭わなければならない。
何をした。何を間違えた。これは何の報いだ。
俺はただ、ちゃんとした人間でありたかっただけだ。誰にも心配掛けないで、迷惑をかけないで、ただ真っ直ぐ生きてきたはずなのに。
もう取り留めがない。出口が見えない、考えても考えても見当たらない。
何度も嘔吐いて、形を成さない声が出る。胃には何も残っていないのに、それでも込み上げてくる酸性の液体が食道を焦がして痛い。
少し収まったところで声は所在を見つけ、嗚咽の形をとる。
惨めで、悔しくて、怖くて、心細い。
もう何も分からない。ただ止まってほしい。
二か月前の相沢との会話からあの夢を頻繁に見るようになった。今まで何一つ情景を変えずに見てきたそれは、少しずつ知っているものから外れていった。
彩度と明度を低下していくように、みるみる色褪せて暗く。
俺が見えていた化け物が遂には夢の中まで支配しようとしている。じわじわ姿が悪質になっていく。その存在の禍々しさに耐えられなくなっていく。
睡眠不足と精神的な疲労は当然、仕事にまで支障を来し始めた。
部下がずっと心配している。上司は執拗に何かあったのかと探ってくる。
あまりにしつこいので病院で診察を受けた。
体調不良は精神的な要因からくるものだろう、と言われた。知っていた。心療内科の訪問を勧められた。
全員、黙ってほしい。
放っておいてほしい。
するべき仕事はしている、それ以上は関わらないでほしい。
十一月の繁忙期が落ち着いた段階で部長から休暇を取るように促された。
二月の繁忙期に向けて万全に整えてこい、という名目だが。所謂、戦力外通知として捉えてしまう。
それでも理論は正しいことくらいは分かる。この状態を引き摺って良いことなど一つもない。かといって休暇をとればどうにかなるものでもないことは俺が一番知っている。
取り敢えず実家に帰省でもしようと、年末年始の祝日を挟んで十日程の長期休暇を申請した。
上司も、同僚も、部下も、揃いも揃って安堵した顔を見せた。
俺は後戻りのできない袋小路に行き当たってしまった。自分の限界なのかもしれない、と思うほどに。
今まで直向きに生きてきた結果は一体、どこにあるのだろう。何一つ意味を成していない現在に至るためであったのなら、始めから努力なんてしなければよかった。
日常に違和感が生じてから、俺は徐々に自分を失いつつある。そして、相沢との会話はきっと決定的だった。
責めるつもりもない。同じ結末へと向かっていた、元々あったものが少しばかり加速しただけだ。
『でも、おまえはなー。本気じゃないからなあ』
あの晩、困ったように笑む相沢は言った。言葉の腹内を読めないでいた。
彼——、いや彼らに対する嫌悪感は意図的なものではない。生理的なものだ。それが本気ではないのなら何だというのだ。
今までその考えを改める必要に迫られたことはなく、最近になって初めて分析をしてみた。だからよく分かる。
人も人格も否定するつもりはないが、性的指向の一点に関しては感情を変えることはできない。やはり、気持ち悪い。
固まっているままの俺に相沢は続けた。
『昔さ、カッターで怪我したの覚えてる?』
忘れるはずもない。その一件によって俺は相沢に服従するほかなくなった。それこそ、本音を如実に物語る出来事ではないか。
視線をそらして頷いた。
『あの後、須田君謝りにきたじゃん? 初めは『何だコイツ』って思ったんだけどね。僕は自分を偽らずに生きるって決めてる分、どうしても心臓に毛を生やす必要があったからね。そのくらいのことを引き摺る気もないんだよ。でも、君は違った。俺以上に傷ついた顔してたんだ』
それは、俺がどう思っていようと誰かを傷付ける理由にはならないから。
社会人として組織の人間を排他的に扱っても何の生産性もない。職場も業務も円滑に回すためには、私情を挟むべきではないのは常識だろうに。何が引っ掛かるというのか。
少し離れた距離を保ったまま相沢は視線を揺らすことなく進める。
『体裁を気にして謝りにきたんならさ。あんな顔する必要はなかったはずだ。いや、できないはずなんだ。君は多分、優しい人なんだ。暫く見ていてそう思った。だから、同性愛者だけ露骨に嫌悪しているのは少し不思議でね。んー、だから何て言ったらいいかな』
言い淀んで、相沢は暫し沈黙した。宙に投げ出されたままの言葉を俺は拾い上げようとしていた。
同性愛者に対して抱く忌避感。それに根源なんてあるのだろうか。一般的に普通ではない、それ以外の理由。
確かに、俺は相沢に恩を感じている。泉明一君の話を聞いて同情した。それは同性愛も性自認も関係なくて、ただ人間としての部分を見ているから感情が動く。
それでも尚、衝動的な抵抗を感じているのはなぜか。
考えが纏まったのか、意を決したように、相沢は口を開いた。それはたった今考えていた言葉と似ていた。
『須田君、これ言って殴られるとか嫌だから前置きしとくけど。人間としての僕は全て『ゲイ』という一言に集約しているとは思わない。それと一緒で、誰も君を定義することはできない、それをできるのは君だけで、それこそが君の正解だと、僕は思う。だから、僕が何て言おうと憶測でしかないし、僕の言葉で君の何かが決まることはないから』
あまりに重厚な予防線に緊張感が走った。同時にそれまでに感じていた焦燥感が少し落ち着いた。
自ら突き放した人を相手に、明白な矛盾を感じるが、相沢は俺がどうであろうと否定はしないと、そう捉えた。
半分が夜闇に溶けたシルエットがひっそりと深呼吸をした。
『例えば、だけど、自分がゲイに《《なってしまう》》んじゃないか、とか恐れてたりする?』
脳内でその言葉が意味を成すまで相当の時間が経った。
そしてそれからも、意味に対して体が反応するのに更にかかった。
『……、何、言ってるんですか……意味が』
相沢はこの応答を予測していたかのように、できるだけ優しい顔を作ってみせた。
指先が痺れて、手が震えた。頭を鈍器で殴られたように脳が頭蓋の中で揺れている感覚があった。
『うん、例えばの話ね。さっき須田君の言った通り、僕は君の何を知っているわけでもないから。でも、最近、調子が悪そうなのは本当だし。今日の反応見て、何となく、関係してるのかな、って』
気付いたらベンチから立ち上がり、おしるこの缶が虚ろな音を立てて転がった。
これ以上、話させてはならない。これ以上、聞いてはならない。
後悔することは知っている。でもこの場から逃げられるのならその代償は払う。
『先輩、マジ頭おかしいですよ。なに、勝手に妄想してるんですか。気持ち悪い。あんた達はみんなそうなんですか。キモい想像を勝手に膨らませて、まるで事実のように言いふらして』
『だから、事実だとは——』
『黙れよっ‼』
静寂に弾けるように声がした。
街灯にたかっていた蛾が一匹力尽きたのか、焼かれたのか、ぽとんと地面に落ちた。
言葉の重みを認識して、数歩後退る。相沢はこんな俺でも否定はしないようなことを言った。本当だと信じたかった。
可能な限り自分を抑えて言葉を探す。無暗に傷付けたかったのではないと。
ただ、そこだけは触ってくるなと。分かってもらえるように。
『せ、先輩が悪い人じゃないのは知ってますよ。あの時だって、先輩のお陰で噂が止まって……。だからって。だからって巻き込まないで下さいよ。マジで無理なんです、そういうの』
最後の方で声が潤むのを感じた。
相沢に泣くところを見られるわけにはいかなかった。彼の憶測を裏付けてしまうようで、耐えられなかった。
選んだ言葉が正しかったと言い聞かせて、殆ど走るように逃げた。背後から相沢が何かを言っているが聞こえない。そういうことにした。
道すがら、まだ死に切れていない蛾が這いつくばって途方に暮れている姿が目に入り、涙を堪えることができなかった。
頭では理解しているのに、全てが敵に見えてくる。
全てが俺を望まない方向へ連れ込もうとしているみたいに思える。
相沢の言葉は俺の中に居座っていた違和感を増幅させた。
いや、そうでなくとも増幅し続けて、どうせいつかはこうなってただろう。
全ての元凶だというのに、浩太の声が聞きたくなって、更に吐き気が増した。




