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空魚  作者: 白雨 梦乃
第六章・波花(なみのはな)
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6-7


 眉を寄せる。

 その報告に驚いたわけでも、声の平淡さと情報の掛け違いに戸惑ったわけでもない。なぜそれを、俺に言う必要があるのかが不可解に思えたからだ。


「そう。おめでとう。それで?」


 少し瞼を落として考えを纏める母親。


「あんたがよければ、会ってほしいの」

「は? なんで?」


 母親は溜息を吐く。苛立ちではなく、少し気まずさを帯びたものだ。

 彼女にとって、今まで極力関与を避けてきた息子に頼み事をすることがどれ程の決意を要するものなのかが垣間見える風だった。


「それは……、私の息子だから」


 今度は俺が溜息を零す。こちらは正真正銘の苛立ちだった。

 否定するつもりはない。息子と呼ばれることに違和感を覚えないわけではないが、紛れもなく俺達は親子だ。

 しかし、親子であることに間違いはないながらも、この人と俺の間柄には決まった一線があったはずだ。

 今まで、そこには不可侵の了解があった。今更それを飛び越えろと言うのか。


「別に、あんたが良いって思った人なら、俺は構わねえよ」

「分かってるわ。でも、あの人も会ってみたいって……」


 漸く納得のいく背景が見えてきた。相手側の要望で、仕方なく壁を壊すしかなかったのか。実際、俺に拒否する理由はない。

 しかし、理想の息子を演じられるほど器用ではないのは母親も分かっているだろう。もう一つ、今度は呆れの滲んだ息を漏らす。


「なんだよそれ。『母をよろしくお願いしますー』とか言わせる気か?」

「頼まないわよ、そんなこと。ただ会ってくれるだけで、いいの」


 知っていた。母親がそういうことを考えているわけではないだろうと。

 ただし、素直に従うのもなぜだか気が引けて、承諾を示すことを躊躇う。


「その、もしあんたが嫌なら、無理にとは言わないけど」

「……、別に嫌とは言ってないだろ」


 その言葉を聞き入れて、母親は初めて安心したような顔をする。

 箸を握り直して食事を再開する。


「けど、よく分かんねえ。なんで急に家族ごっこなんてしようと思うんだよ」


 テーブルに並ぶ料理を眺めていた視線が俺に向いて、すかさず逸れる。

 この人が恐らく傷つくであろう言葉を口にした。ほとんど独り言で、責めるために言ったわけではない。

 少し沈黙が続き、箸が触れる食器の音や咀嚼音だけが空白を補う。


「今更、母親面をする気ないわよ。それでも、あんたは私の唯一の家族よ……、そりゃ、一般的な家族じゃないかもしれないけど。それでも、家族だと、私は思ってる」


 何を感傷的になっているのだと笑い飛ばしてしまいたい。

 しかし、胸に湧き上がるものがある。

 母親は本音を語ることはしない。自分を正当化する言葉も、言い訳も、しない。いつだって一人で決めて、一人で進んで、誰の同意も助けも求めることなく生きてきた。


 いや、一度だけ。幼い子供の手を引いて、親の前に現れたあのとき。

 たった一度だけ、誰かに縋ったあのとき。

 母親の息子として紹介されるのであれば、尋ねなければならないことがあると感じた。


「なあ。一つ、聞きたい事がある」


 小さく頷いてその先を待っていた。

 ずっと聞かなかった——、聞く必要がないと思っていた疑問に、どうにも言葉を乗せることができない。

 急かす素振りも見せずに、母親は静かに待った。きっと俺が何を口にするのか知っている。ずっと、その質問が向けられるのを待っていたのかもしれない。


「……、あんたはさ……、どうしてあのとき、俺を置いてったんだ?」


 俺の中にこんな感情があるのが不思議だった。祖父母が、俺の心を沢山の愛情と美しさで満たしてくれていたから。だから、見えなかったのかもしれない。見えても、小さなことに思えたのかもしれない。

 目頭が熱くなるのを感じた。少しだけ喉が狭まるのも。俺は勢いよくご飯を口に流し込んだ。


「私が育てたら——」


 母親はゆっくりと言う。

 考えを整理しているからではなく、ずっと前から決まっていた言葉を噛み締めるように。多分、それに含まれる後悔や希望も全て受け入れるように。


「私が育てたら、浩太を不幸にしてしまうって思った」


 この表情を俺は知らない。やけに苦しそうに、しかし柔らかそうに。婆ちゃんの言っていた『母親の顔』という言葉が頭を過る。

 しかし、目の前の感情は、そして俺の中で共鳴するものは、想像していたほど綺麗なものではない。惨めで、泥臭くて、頼りない——本物の人間の感情だ。


「私は、弱いくせに頑固で。ずっと間違い続けて、でもそれを認めたくなかった。それでも私はあんたの母親で。どうしたら守れるんだろう、って……。ここに戻って来て、あんたがまた笑ってくれるようになった。でも、弱い私はそれが辛かった。私一人じゃ浩太を笑わせて生きていけないんだ、って。だから逃げたの」


 母親の声は淡々としている。しかし瞳は潤んで今にも溢れてしまいそうだ。


「初めて後悔した。でも、それに気づいたときはもう、遅くて。あんたは立派に育ってて。優しくて真っ直ぐな子だと思った。私の子なのに、私はその過程を知らない。あんたのこと、何一つ知らない。あんたの目もそう訴えてた。『僕は貴方を知らない』って」


 そうだ。俺にとっては何一つ関係ない。この人が勝手に俺の未来を決めつけたのだ。

 咎める気はない。俺は確かに祖父母に育てられて良かったと思っている。今の自分を形成する因子に、母親の選択も含まれている。

 弁明するために話しているのではないのは分かる、俺が問い掛けたことに対し、長年考えた自分なりの答えを伝えているだけなのだとも。


 しかし、三歳の俺は、どんな日々だったとしても、ただ母親といたかったのではないだろうか。

 六歳の俺は、入学式に母親と参加したかったのではないだろうか。

 十二歳の俺は、母親に卒業式のネクタイを付けてほしかったのではないだろうか。

 過去は変えられないし、別に不幸だったわけではない。それでも『遅かった』の一言には憤怒を覚える。

 その場で何一つ選択する権利を与えられなかったのは母親ではない。俺だ。


「——っけんじゃねぇよ」


 容量を超えてしまった器から水が溢れだすように、思考の途中に音が付着した。

 椅子が引き摺られる音と食器を鳴らして、俺は立ち上がった。


「だったらいくらでも時間はあっただろ! あんたが作った溝だろ、後悔するくらいならあんたが頑張れよ! なに連絡先だけ寄越して受け身になってんだよ⁉ なんで俺任せなんだよ⁉ 俺が何一つ選んでないことの後始末を、俺に委ねてんじゃねえよ! 俺が、今まで、どんな思いでっ——」


 その続きは俺も知らない言葉だった。知らない自分の中にあった、知らない箱が開いて、知らない感情が溢れ出た。

 これは誰の言葉なのだろうと思った。


 参観日や運動会や三者面談で祖父母の姿を見て、親がいないことをどんな思いで確認してきたか。

 日本を旅して、進路決めて、目標を目指して、それを話す親がいないことをどんな思いで受け止めてきたか。

 運命の人とまで思った相手と別れて、誰にも相談できなかった気持ちと、どんな思いで兼ね合いをつけたか。

 父親が危篤状態だということを、なぜ孫の俺が実の娘に連絡しなければならないと、どんな思いで電話を掛けたか。

 祖母の葬儀で母親に向けられる陰湿な声を、どんな思いで聞き流したか。


 そう、この人は知らない。

 知るための努力なんてしてこなかった。

 ずっと逃げていた。

 この話だって、俺が訊いて初めて打ち明けた。

 悔しい。

 十五年前のあのファミレスでこの言葉を聞いていたら、何かが違ったのかもしれない。

 今更だった。


 立ち上がって怒鳴り始めた俺に、少し怯えた視線を向ける母親。しかし、退くことはなかった。全部、受け止める覚悟で話したのだ。

 或いはそれが贖いになるとでも思っているのだろうか。涙が次から次へと流れているが、泣き崩れることを自分で許していないかのように、真っ直ぐと俺を見る。


「浩太、……辛い思いさせて、本当にご——」

「言うなっ‼」


 聞ける気がしなかった。


「絶対に言うなよ、それだけはっ!」


 遅いとか、そういうことではなく。もっと脆いところを抉られるようで。それを聞いたら、辛い思いをしたと言う架空の事象を成立させてしまうようで。


 ずっと、祖父母を親だと思ってきた。それだけの愛情を貰ってきた。

 母親も父親もいないなんて、会いたいなんて、思ってこなかった。

 俺は可哀想ではない。寂しくなんてない。

 しかし母親に謝罪されたら、それらは全部嘘にされる。いや、母親に尋ねた時点でもう、自ら手遅れの状態を作ったのだ。

 俺は本音で生きてきたのか。

 それとも自分に言い聞かせて生きてきたのか。

 分からなくなりそうで、耳を貸すわけにはいかない。


「分かった……でも浩太、一つだけ聞いて、お願い」


 顔を顰めたまま、ゆっくりと椅子に座る。突然発した声で喉が痛くて、肺が酸素を欲している。

 本当は分かっている、俺もこの人も、もっと前にこういう話をするべきだった。しかし振り返っても意味がない。現在のみが人の手中にあるもので、今どうしたいのかだけが最重要の疑問なのだ。

 翔一の真似をして、呼吸をする。この場にいてくれているようで、鋭くなった鼓動が少し柔らかくなる。


 母親は少し乗り出すように話した。

 一瞬手が伸びてきて、俺の方へと向けられるかと思ったが、それは中途半端な距離で卓上に添えられた。


「私は、浩太に母親らしいこと何一つしてこなかったけど、それでも浩太が私を母親にしてくれたから、私は何があってもずっと生きてこれたの。会わなくても一日でも忘れたことなんてない。あんたはずっと私の希望だから。これからもずっと。もっと早くに言うべきだった。でも信じてほしい」


 なぜ今になってそんな感情を向けてくるのだ。なぜ本心だと感じてしまうのだ。この人を俺は知らない。無関心な母親の方がまだ馴染みがある。なぜ今なのだ。俺はもうすぐ三十になるんだぞ。あんたは俺の今までの人生のどこにいた。自分が新しいスタートを切るから、今更。虫が良すぎるだろう。やっぱり、あんたは自分勝手だ。

 そう思うのに、俺は零れる涙を隠すのに精一杯で何一つ言い返すことができなかった。声が震えないように短い言葉を選んで言う。


「会えば、いいんだろ。もう、分かったよ」


 両腕で目元を隠すようにしていたので、母親の表情は見えなかった。しかし、冷淡さの欠片も残らない裏返った声が聞こえてきた。

 きっと言いたい事はまだまだあるのだろう。俺にもあるのかもしれないのだが、この場では、それ以上は無理だった。


「浩太、ありがとう。ありがとう」


 そうして、腕に少し冷たくて、怯えたような掌が乗せられたのを感じた。俺の中身は岩肌に砕けた波の花のように、辺りに弾け散って纏まりがない。

 綺麗なものではない。そこかしこにへばりついて、磯の香りや海水の滑りを残す煩わしい泡のようだ。

 自分がどこなのかが、どの部分が自分なのか、分からない。立て続けに色々と起こり過ぎている。自分が散らかっている——そんな感覚。


 こんなときでも、誰よりも会いたくなるのは翔一だ。

 陽だまりの声が聞こえれば、自分が収束できるように思える。



 会いたい、ただ会いたい。



前半パート到達です!読んでくださっている皆様にお礼をご案内をお伝えしたく。ご興味があれば、活動報告の方へと足を運んでいただけましたら幸いです。

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