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綿雪のような欠片が風に煽られて辺り一面を漂っている。
肌理細かな泡が、海岸の隙間に、防波堤の側面に、道路に付着する。雪よりも密度が高いのに、雪ほどの感触はない。海藻の、海の底の匂いを運んで冷たい空気に溶け込む。
冬の暴風が波を岩に叩きつけては無数の破片が花火のように弾けてそのまま宙に留まる。海や空が轟々と唸る中、まるで白い花吹雪のように、場違いなほどゆるりと舞い踊る。
波の花。
冬の日本海の風物詩と言われる現象だ。
幻想的だと謳われている反面、地元民からすれば煩わしい以外の何物でもない。そこかしこにへばりつくし、有機物質を多く含む波の塊は、磯の香りや海水の滑りを、侵食した町や道路に残していくのだ。
それでも、今朝、家の扉を開けて素っ気ない顔で流れていく白を目の前にしたとき、綺麗だと思った。
風雪を纏ったクリスマスが訪れたので、店を閉め、本格的に出前営業に移行する体制を整えた。
乗るべき大波は三つ。クリスマス、大晦日、三が日。約二週間に集約されたちょっとした繁忙期が予想された。
それは確実に的中し、イブの前々日から電話が鳴り続けた。
普段はこれほど忙しくなることもなく、慣れない高需要の対応に追われた。特に最初の数日は要領を得ないまま手探り状態で試行錯誤していた。
メニューは自分の能力と労働力の範疇で短時間でできるもの、予め用意できるものに絞って、見た目を犠牲にせず配達を考慮した内容で編んだ。
翔一の指示通り、予約制として宣伝したため、ある程度の予測を立てて行動することができた。それでも想定外の事態は続き。予約変更、追加注文、配達ミス、天候による遅滞。
幸い、殆どが顔見知りの客で大事にはならなかったが、久しく感じなかった焦りの中働いた。
ある意味、生きた心地がした。
当然ながら子供を迎えたばかりの春樹を独占するわけにもいかず、俺自身も配達に出ながら厨房と車の間を駆け回っていた。数日経ってようやく、少しだけ動きに余裕と効率が生まれた。
クリスマスは誰もいない家の寒さを感じることもなく過ぎていき、厨房の支柱に掛けているカレンダーの役目も残すところあと数日。
そんな日の午後、店の扉が勢いよく開かれた。
「ただいま〜」
すぐに声の主が分かって、この忙しいときに訪れた来客に甚だしい苛立ちを感じた。この家でそんなことを言う人は、残念ながら俺以外に一人しかいないからだ。
島崎真由、母親だ。
俺は態々出迎えることもせず、作業を続けながら言う。
「来るなら連絡くらいしろよ」
「そりゃあ、年末だもん。来るわよ。あ〜寒かったあ」
よく言う。
婆ちゃんが死ぬまでは丁重にこの家を避けていたくせに。
別に怒っているわけではない。この人がどういう人間か知っている。
悪意があるわけではない、ただ、自分のことしか考えない人だ。
「えー、何? 忙しそうね。てっきり年末年始は閉めてるかと思ったのに」
「出前始めた、年末年始だけだけど」
「ふーん」
興味なさげに言い捨てると、勝手にカウンターの冷蔵庫が開く音がした。
俺はこの人に、この家で勝手にされることに抵抗がある。きっと、母親にとっては実家で間違いないのだろうが、今まで一度もそんな顔はしてこなかったのだ。
祖父母の危篤の際にも顔すら出さず、葬儀には来たものの乾いた表情で、まるで他人事のようだった。
婆ちゃんが死んで初めて、母親の顔をしようとする。その真意を俺は測り切れずに、不快感だけを確かなものとして感じている。
厨房に足を踏み入れた母親は手にビール瓶を持っている。入口近くに背を預けて腕を組んでいる。
俺が出前を始めた理由を即座に理解したのだろう。新しい事業だとか、興味があるのだとか、そんな発想は一瞬もなかったようだ。
感情の籠らない声で母親は発した。
「だから店を継ぐなって言ったのに」
「あんたに何か言われる筋合いないだろ」
「ま。そうだけど。言えばお金くらい貸したわよ」
「そういうの、いらないから」
突き放すような口調を気にも留めず、母親は肩を竦めた。ビールを一口煽りながら店内に戻って行った。
「一階の奥部屋、貰うわね。誰もいないんでしょ」
「掃除は自分でやれよ?」
返事はなく、スーツケースのキャスターが転がる音だけがして、民宿の方へと薄れていった。
特に嫌っているわけではない。
それでも俺と母親の関係は一般的な親子のそれではないのだろう。それがどういう意味なのかすら明確に理解していないが、少なくともあの人と温かい信頼関係はない。
あるのは仕方のない血の繋がり、そんなところだろう。あの人を「母さん」と呼ぶにはあまりにも気持ちが当て嵌まらない。
だからと言って、嫌いではない。
クリスマスの山場を乗り越えた年の瀬は、大晦日までの数日間、穏やかさを取り戻した。それでも連日数十件の予約は入り、安定した収入を得ることができていた。
なんとか一人で回せそうだったので、春樹には家族と一緒にいるように勧めた。その日も九時過ぎまで、調理して、容器に盛って、纏めて配達して。
調理場の片付けをしているところに母親が再び現れた。
「まだ片付けないでいいわよ、夕飯あたし作るから」
そんな提案をされたのは初めてかもしれない。
何かを企んでいるようにしか思えない上、この人が大事な厨房に立つなんて快い話ではない。
露骨に引き攣った顔を見せた。
「何よその顔」
「もう作ってあるし」
そう言って指した先には二人分の食事がある。無論、余分な食材を使った有り合わせである。
カニのせいろ蒸し、ハタハタの田楽や、甘エビの刺身などそれでも贅沢な品揃えである。
「……そう。ありがとう」
「今、あっためるから、部屋に行ってて」
「いいわ、あんたが終わってからで」
再び眉を顰めて母親の顔を見る。
愈々何かあると確信し、それは特に心の弾むものではないような気がした。
彼女は見なかった振りをして店の方に消えていった。片付けをする腕が一気に重くなった。
十七で母親は家を出た。顔も知らない男と駆け落ち同然で浜音を去ったのだと、婆ちゃんが言っていた。
一人娘を失った痛みは壮絶で、婆ちゃんは暫く仕事も手につかず、爺ちゃんは沈黙に閉じこもったそうだ。それでも前を向けたのは、町の住人の支えがあってのことだった。
それから四年間ほど音沙汰のなかった娘はある日、ひょっこりと現れた。
当時三歳だった俺の手を引いて。
祖父母の質問に何一つ答えなかったという。
家を出て行ったときに一緒だった男が俺の父親かどうかも教えてくれなかったそうだ。
それでも母は暫く家に留まった。民宿の手伝いまでして、それなりに普通な生活が訪れると祖父母は思った。
よく婆ちゃんが言っていた。母親は我儘で大人になり切れていなかった。それでも、小さい俺の面倒を見るときはちゃんとお母さんの顔をしていた、と。
当然、俺にその記憶はない。一年も経たずに母親は再び消息を絶ったのだから。幼子一人を置いて、ある日忽然と。
祖父母は驚かなかった。いつかそうなるのかもしれないと、心のどこかで覚悟していたそうだ。
言葉を選びはしたが、祖父母は俺に母親に纏わる事実を隠したことはなかった。良いことも悪いことも話してくれた。
母親がなぜ俺を置いて行ったのか、その疑問が苦しくなかったと言えば嘘になる。それでも母親との時間を記憶していない俺は、祖父母の愛情に包まれて不自由のない生活をした。
次に母親に会ったのは中学のとき。俺にとっては初対面だった。
夕方、校門を潜ったところで声を掛けられた。写真で見たことはあったので、すぐに母親だと分かった。
しかし、何の感情も湧かなかった。怒りも、喜びも、何も。
母親も同じように興味なさそうにファミレスに俺を誘った。
話した内容はよく覚えていない、もしかしたらお互い何も言わなかったのかもしれない。
俺に対して特別な感情はないかのように振る舞う母親に、初めて血の繋がりのようなものを感じた。
母親は暫くすると自分の連絡先を書いた紙片と会計分の代金を残して『じゃあ』と一言零して去っていった。
その番号を打ち込んだのは爺ちゃんが倒れたときが初めてだった。
それまでに何度かふらっと現れては祖父母に金を渡してまたふらっといなくなる、ということがあった。
今更、養育費、或いは迷惑料。罪滅ぼし。よくは分からなかったが、いつだって無機質な顔をしていた。
冷たい人というわけではない、感情の所在がよく分からない。そんな人だ。
自分もそれなりに大人になって、思うようになった。この人は不器用な人なんだろう、と。
祖父、そして祖母が死んだときも葬儀を母親が出してくれた。しかし、相変わらず感情が一つも零れないようだった。
ただでさえ浜音でも親戚間でも悪評だったのが、更に深刻に囁かれるようになった。
母親は痛くも痒くもないかのようにただ『構わないわ』と言うだけだった。
母親と何回か面識のあった澄子は『浩ちゃんとは真逆の人ね』と言っていた。けれど俺は、そうとも思わない。
何となく分かってしまうのだ。この人も、自分の選択を後悔する気はない。誰がなんと言おうと自分の選んだ方向に突き進んできたのだ。
その無表情は、本心ではなく、決意を表す仮面なのだ。
俺が周囲に咎められるような選択をしたなら、或いは同じような反応をしていたのかも知れない。俺の成り得た姿、そう思えてしまうから、母親への感情は無関心や失望といった言葉で簡単には片付かない。
「ビールでいいか?」
「ええ」
冷えた店内ではなく暖房を入れた民宿の談話室で料理を出した。
風呂に入った母親の髪はまだ少し湿っている。化粧を落とした姿は気付けば老けたように思えた。
ビールを運び、黙々と食事を始める。居心地悪いとまではいかないが、奇妙な空間だ。面と向かって食事をしたのはいつぶりだろう。
あの、ファミレス以来だろうか。
田楽を一口食べた母親の顔が綻んだ。目を細めて、口元が僅かに上がる。
珍しく、とても人間臭い表情だ。
「で、なんか話があるんだろ?」
「……まあ、そうよね」
表情は元の冷めたものへと戻っていった。
母親は改まった様子で箸を置き、姿勢を整える。
「結婚、することになったの」




